6日通夜、7日葬儀・・・鳥取で女房殿のお兄さんを見送ってきました。
入院3カ月、その間見舞いに行く女房殿に「私もお見舞いに」と伝言してもらうと、そのたびに「山口さんが来るときには鳥取のご馳走で一杯やらなきゃいかんから」という回答、「しばらく待ってくれ」ということだったんです。
容体が悪化して24日に見舞いに駆けつけ、その時の様子から28日からの東北行きは予定通りということにしたのですが、帰着後3日をおいて訃報が届きました。私を中心に考えれば「待ってくださった」ということになりますが・・・
6日午前中の仕事を終え鳥取へ。大阪出張中の長女が合流同行してくれ、夕刻には通夜の会場へ。(本人の意思で、自宅で密葬でという形がとられました)
私の両親の場合、二人とも町長現職の間に亡くなり、先の母親の時にはあれよあれよという間に「町葬」の感となり、おおぜいのみなさんにご迷惑をかけてしまいました。その反省から、1か月後に亡くなった父親の時には身内にしか知らせず、町外のお寺で「密葬」を営みました。
「なんで内密に」「みずくさい」という声もいただきましたが、ほんの身内だけで夜通し遺体につき添ってしみじみと思い出話を語るうちに、弟が「この方が葬儀らしいなあ」と言ったことを思い出します。
親父は、年下の連れ合いを無くしたショックで途端に元気がなくなりましたが、体の方は特に異常もなく、その日も晩酌と夕食を済ませて自分でベッドに入って・・・そのまま亡くなってしまったという、ある意味うらやましいような往生を遂げました。享年90歳(満88歳)、密葬という形が似つかわしかったのかもしれません。
そんなことなど思い出しながら、通夜式のあとはお棺のそばで、兄貴がお酒が好きだっという話を「肴」に(兄貴に聞こえよがしに)友人のみなさんもまじえてお酒を酌み交わしました。家族も3カ月の闘病に付き添ってきた挙句だけに、じみじみとその雰囲気に入れたように・・・手前味噌ながら感じた次第です。
葬儀式
涌島文雄兄の戒名が「堅正院誠岳文雄居士」、本名「ふみお」を戒名「ぶんゆう」とされた理由を、浄土宗玄忠寺の若きご住職は「日本海新聞社から鳥取市役所へという故人の経歴と、鳥取市史に残る文人・文化人だった故人の父上の足跡から」とご説明。
ご住職はまた故人に法然上人のこの御歌を贈ってくださいました。
露の身はここかしこにて消えぬとも心は同じ華の台(うてな)ぞ
私は即座に法然上人のこの御歌を思い出しました。
つきかげのいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ
(なんでこの歌かという理由はまた・・・)
火葬場から玄忠寺へ
私、この場で「露の身は・・・」の御歌の意味についてご住職に伺いました。
妙になれなれしいよそ者のじいさんに、若きご住職は実に誠実にお答えくださり、私、兄貴が無事三途の川を渡るであろうことを確信した次第です。頼もしいお地蔵さんが一部始終を見守っていてくださいました。
そのご「精進落とし」
生前の兄貴との約束がかなわなかった分、じゅうぶんに「鳥取のごちそう」をいただいて、帰途につきました。
ブログにふさわしくない記録かもしれませんが、ずっと心に残るであろう出来事とて、あえて投稿いたします。

0