ぼくの住んでいるところは木曽川町、田舎のようで田舎じゃなく、都会のようで都会じゃない、という住環境です。
田んぼも畑もあって、かつて玉ねぎの種の生産では徳島県と日本一を競っていた!かと思うと、JRと名鉄の駅が狭い町域に4つもあるんです。
こんな話がありましてね。木曽川に新しく家を建てた人が私に言いました。
「勤務先が名古屋駅前、地下鉄の星ヶ丘駅とJR木曽川駅からの通勤所要時間が全く同じ。どっちに家を建てようかといろいろ比較した挙句、木曽川にしました。駅前の月極駐車料金が半分なのです」
ぼくの家からJR木曽川駅までは歩いて10分、接骨院に行くついでに時々散歩します。
おととい歩いていて改めて「いい駅だなあ」と思いました。
これ、駅前公園ですよ。ここに正岡子規を顕彰する「見初め塚」がある。
これが地場産業のシンボルである「のこぎり屋根」をテーマにした橋上駅舎です。
西側にしか乗降口がなかったものを東側にも、というので駅舎が橋上になったんですね。
実は、かつての私の家は今言う「西口」の真ん前にありましてね。
町長選挙に出るというとき、駅近辺の人たちは「こいつを出せば念願の東口開設をやるんじゃないか」と期待してくださって・・・なんせ「駅前の山口っつぁん」だったですから。
それで「選挙公約」に掲げちゃいましてね。必死でがんばって・・・実現したんですよ。
だから今も駅構内の「自由通路」を、踏みしめ踏みしめ歩くんです。
北側窓の採光は実に柔らかく明るく、通路幅は6メートル!
JRの設計担当さんが「予想乗降客数から言えば4メートルでもいいんじゃないか?」といったんです。私は即座に「いかん!」といったんです。
ここは言ってみれば駅前広場ですよ。「夢」がなきゃいかんじゃないですか。
でも「夢」といっても実効性がないから、私は「乗降客数が予想以上になるように努力します!」と力説しました。そしてすぐそれは実現したんです!
ははは、そんなことを思い出しながら窓の外をながめたりしましてね。
岐阜方面です。下にレンガ造りの倉庫が見えるでしょう? これはすごいんです。
私、当時のJR東海会長の須田さんに直訴しましてね。
運よく長時間お話しすることができて、その中でこの倉庫のことは須田さんの方からお話が出たんです。
「木曽川駅の油倉庫は明治の建物で、歴史的な価値があるものです」
須田さんは自ら「鉄道マニア」で、沿線各駅のことを実に詳しくご存じなんです。
わたしはほら子どもの頃から「駅前のあきちゃん」でしたから、話が弾みました。
そして最後に、こう言われました。
「木曽川駅のことは下におろします」
本当に下りましてね。しばらくして「企画開発部長」という非常にえらい方が会ってくださることになったんです。大変緊張しましてね。木曽川町にとってはこれ、歴史的な出来事ではないのかと・・・で、こんなお話になったんです。
企画開発部長
「木曽川駅については前向きに取り組みます。ただし私が出席するのは今日限りとさせてただいて、あとは担当課長が進めてまいります」
木曽川町長
「えー、私の方も本日以後は、あー、担当部課長にまかせます!」
JR東海さんと“対等”に話さなきゃいかんと、空威張りで頑張ったんですなあ。まさに“歴史的”でした。
須田会長との話にも出た古い駅舎は保存することができませんでした。
私にそういう意向があるということを、木曽川町職員の話から察知したJRの設計担当さんが、先回りされましてね。
「歴史的な駅舎も残すに越したことはありませんが、そうするとせっかくの新駅が機能を十分に発揮できません!」
私が意地を張ってドタキャンになるといけませんので、最終的には了解しました。
でもさすがJR東海の設計士さん、駅舎の柱組みが歴史的価値の高いものであるということで、レンガ倉庫の隣に保存展示してくださることになりました。
なんてえことを思い出しながら、いつもこの駅の自由通路を渡って接骨院に通うのであります。

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