静かに考えました。そしたらこんなことが頭に浮かんできました。
◆今日本国民はは重大な転換点に立たされているんだと思います。
最終判断がとてもむつかしい問題がいっぱい出てきてしまったんです。
昨日新聞切り抜きを紹介した「原発再開」とか「震災復興」とか、
「集団自衛権」とか「憲法問題」とか「平和とは何か」とか、
そして「少子高齢化」とか「社会格差」とか・・・もう、いっぱい!
で、重要なことはですねえ、どの問題についても“識者”という人は、
「国民的議論が必要だ!」と言っておられることだと思うんです。
それは「当たり前のこと」なんです。なんでそれを声高に言うのか?
それはですねえ、その言い方の中にですよ、
「国民的議論らしきものをなんとかやってしまえば物事は進む」
という“こわい”考えがあるからじゃないか・・・
では「国民的議論」を当たり前のものにするためには何が必要か?
それは私たち「“国民”とひとくくりにしか呼ばれない者」が、
堂々議論できるように「静かに考え」「勉強する」ことだと思うんです。
◆私の体験談。
町長をやめた直後“新しいまちづくり”についてちょっと問題を感じたので、
市役所に行ったんです。で、その旨話を聞きたいといった。
そしたらですよ、カウンターの取次ぎを受けて奥の方から出てきた人が、
こうおっしゃったんです。
「市民の代表は市会議員さんです。議員さんを通じて言ってください!」
これ、本当なんです。あんまりびっくりしたので誰にも言ってないけど。
これがですねえ、「国」ということになったらどうなると思います?
「国民的議論」なんていっても本当の国民(ひとくくりの国民)は、
その相手とも思われていないんじゃないかなあ。
その議論の挙句「あんたたちにはわからんだろうがこういうもんなんだ」
なんて風に言われたらどうします?
だから私たちは静かに考えなければならない!
いろんなことを知らなくてはいけない!
なんだか、市川房枝先生がおっしゃっていたことを言ってるみたいに・・・
でも、私はもう静かに考えていられなくなってしまったのです。
今日、これがあるんです!
今日、加納西保育園にお相撲さんが来るのです。
それがどうしたと思われるでしょうけど、私はその催しの進行役をやってくれないかと相談を受けたのです。
ご存じないかもしれませんが私は“相談役”なので、やすやすと相談に乗ってしまったのです。
本当は今日は「ひなたぼっこくらぶ」の日なのです。
会長さんに「今日はちょっと保育園の方へ」と相談したらこういわれました。
「そうやって私たち年寄りを見捨てていくんやろ?」
そこで私は今日のゴブレーとの引き換えにこれを描いたのです。
それと4人分の似顔絵も引き受けてしまって・・・2人分は描きました。
やはり「国民的議論」のことを考えながら「おすもう」のことを考えるのは難しいです。

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