ひとりひとり
人の数だけ、生き方があり
多かれ少なかれ価値観の相違は生まれる
そう私は 思う。
そして、時々そのことを 再認識させられて
ただ、苦笑いしながらやりすごす自分がいる。
私は一昨年の春、子宮と卵巣を一度になくした。
そのせいでぼちぼちと来ていたであろう更年期障害が
一気に押し寄せた。
そのつらさの度合いは・・・たぶん経験した人にしかわからないだろう
でも、
仮に更年期障害が軽い人でも、その人にとっては体調不良には違いなく
その人にしかわからない“今までにないつらさ”なのだと思う。
それぞれの人の量りで測る“つらさ”は、その人だけの量で。
その量を感覚で伝えることは できないよね
だから時々、私は言葉をなくす
たとえば
「今、更年期障害でさぁ けっこうしんどいんよ・・・」とぼやいても
「ああ、私も同じ!ほやけどやることはやらなあかんし!休んでもいられんしぃ!」
と返されたら
「うん。 そうだよね(^^;」と
もうそれ以上は話せなくなる。
だって、彼女の答えは正論だから。結論が早々に出て、はい、終わり。
私は、ただぼやきたかっただけにすぎないから。
だけどその彼女も彼女なりに、つらいんだよね。
でも、まだ生理もある彼女には 一気に無くしたしんどさは、多分わからない。
それは仕方ないことで、でも彼女の中ではつらい事に違いない
だから私は もうぼやけなくなる。
同じだから。
私はただ、 相づち打ち合いながら話したかっただけなのね
「そうそう、しんどいよねぇ、どこが一番つらい?」とか
「どんな風に紛らわせている?」とか
「ガンバルだけじゃしんどいよねぇ」 とか
で、散々ぼやいた後に
「でも仕方ないよねぇ、ガンバルしかないもんねぇ」と・・・
最初から解っている答えを確認しあう。それだけで気分が晴れる。
ぼやきって、そんなもんやないかな?
会話も、その人その人の生きる姿勢の価値観で
その温度差も変わってくる。