筝曲家の父、公雄。永眠  ご報告・ごあいさつ

イヴの夜、私の父であり、筝曲家の衛藤公雄が息を引き取りました。

88歳でした。本当に多くの方々にお世話になった人生でした。

どうもありがとうございました。

父は幼少の頃から目が見えなかったため、学校も行かずに宮城道雄氏の弟子として、筝(こと)だけで生きてきました。

作曲も早くから始め、10代後半には多くの賞を受賞し、演奏活動は多忙を極めていたようです。

しかし、父は自らの音を求めて、28歳の時にアメリカへ移住。

終戦から8年。1953年のことです。

今でこそ簡単に旅ができる時代ですが、その当時はハワイまで船で1カ月かけて渡り、そこからはプロペラ機でLAに上陸したそうです。

さらに驚くことは、目が見えない敗戦国の筝弾きにアーティスト・ビザを出したアメリカという国。

実は父が活躍していた50年代のアメリカが、私にとってロマン溢れるアメリカであり、音楽で生きていこうと思った原動力でもありました。

父との忘れられない会話。

衛藤家ではお父さんと言うよりも先生としての存在の方が大きく、スティーヴと私は父に対して敬語で話をしていました。

私が30代の頃、父に「兄弟がいるのになぜ筝を継がせなかったのか」と尋ねたことがあります。

この問いは衛藤家ではタブーでした。筝に限らず、伝統芸能の家では後継ぎ問題が良くも悪くもあります。

しかし、父は答えました。

「私と同じことはできんだろ」

確かに。そして、次の言葉に私は吹っ飛びました。

「親子で同じことをしてもつまらんだろ」

この会話の最後には、私の人生の柱にもなっているメッセージをもらいました。

「音楽を友とする人生を歩みなさい」

「ビッグになりたい」「デカイ車に乗りたい」「女の子にもてたい」「ブロードウエイのステージに立ちたい」など、いろいろな音楽人生があると思います。

どれも否定も肯定もしません。

音楽は自由。

その「自由」という意味すら分からない子どもの頃から、その価値を教育してくれていたのかも知れないなと思っています。

そして、もうひとつ大きな贈り物は「音色」。

父の筝の糸の張りは筝が反り返るのではと思われるくらい、ギンギンに張っていました。

左手で弦をコントロールするにも大変な力が必要で、良く肩を痛めていました。

しかし、そこから紡ぎだされる音はとても優しく柔らかく、でも、しっかりと芯のある音でした。

私の使う和太鼓も大変なテンションで皮を張っているため、地球で一番大きな音がします(笑)

それゆえに自分の思いや力任せではない、コントロールされた美しい音を私は大事にしたいと思っています。

音楽人生という贈り物を私の人生に用意してくれた父。

アメリカ生活については多くを語ってはくれませんでした。

正直、苦労だけでなく、とても多くの方々にお世話になり、ご迷惑をお掛けしていたからだと思います。

けれど、例えそうだとしても、私は父に感謝しています。

イヴの夜。

最高の演出をして息を引き取るなんて、アメリカのエンタテインメント界で生きてきただけあります(笑)

う〜む。まだまだ、私はあらゆることが足りません・・・。

ところで、筝と言えば、「チントンシャン」なんてイメージを持つ方も多いと思います。

そんなイメージを覆す、父が19歳の時に作曲した「思い出」という曲をお聴きいただけたらと思います。

おそらく、1960年頃にアメリカのハリウッドで録音したものと思われます。

そっと「いいね!」を押していただけたら父も喜ぶと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=XxpNVvbn5xI

レナード衛藤



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