失われていく音 22世紀に残る音
私が大切にしている音の表現に「タッチ」があります。
音色や強弱だけでは言い表せない音の要素。心地良いなあと思うリズムには、うねるようなグルーヴとこのタッチがあります。食事に例えると食感(texture)みたいなもの。
料理のテクニックと素材に対する愛情によって生まれる食感は、太鼓の演奏においても重要な音の成分として存在していると思います。
先日、オランダへ飛んだ際、音の在り方についていろいろと思うことがありました。
1980年代に交流があったサークル・パーカッションというグループとその生徒さんとでワークショップを行い、ジャパン・フェスティバルに出演し、彼らのレパートリーにもなっている私の「族」を共演しました。
まあ、彼らの稽古場環境の素晴らしいこと!

そして、’90年代頃に揃えたと思われる太鼓群。その木目の美しさや叩きこんだ皮から当時の太鼓の素材の素晴らしさを見て、懐かしさを覚えました。
「ああ、いい太鼓だなあ。」
もちろん、私の太鼓もそうです。’90年代までに作った太鼓は皮もボディも素晴らしくメインテナンスの必要がないくらいです。くり抜いたボディに狂いが生じないし(太鼓は製品となってからも動く=変容します)、皮の張替えもしていません。
とは言え、オランダの太鼓は日本と環境が違いますし、所有している彼らはメインテナンスをしたくても輸送費が掛かるし、簡単ではないと話していました。
それだけでなく、彼らは私がかつぎ桶太鼓や他の太鼓の演奏を発展させていったその背景と哲学を知りたいと常々聞いてきました。
太鼓がポピュラーになり、大量生産されることで材料がなくなっていくことは仕方がないことだと思います。
でも、私が昨今の太鼓シーンでとても胸を痛めることは、そのメインテナンスと太鼓との向き合い方なのかな。
例えば、かつぎ桶太鼓の馬皮。
牛皮と比べてとてもデリケートなため、力任せに叩いたら汚い音どころか、簡単に破れてしまいます。それを知らずにドカドカやるものだから、「こんな皮はうちのグループでは使えない!」とか言って、太鼓屋さんにクレームを出す奴らがいるそうです。
正直、何もわかっていないのです。
単なる手段としてマッチョな二の腕で太鼓をぶっ叩くうちに、貴重な素材がどんどんなくなっていくわけです。
マッチョなエダムチーズ

柔らかなタッチの豊かな音が失われていく。
このところ、日本において伝統とかレガシー(文化的遺産)と声高に言われていますが、とても違和感があって、本質とずれているなと感じることがあります。
要は経済を回すことが根本なんだと思います。それについては、全く否定しません。私も常に、非常に、切実にお金に困っています。
でも、それ以上に「失いたくない音」がある限り、少々経済効率が悪くても表現し続けていきたいと思っています。
燃やせ、消費カロリー!

オランダから帰って、自分が表現していきたい音楽の立ち位置を自問自答しています。
そういう意味で、11月のライブ「Leo Dynamism−森のダイナミズム」は、一つのターニングポイントになると思っています。
己に対して書き記しておきます。
「54の国を旅してきて、それがどうしたん!?そんな体験は一度チャラにして、改めて大きな視野を持って進め!」
これから続くライブやワークショップに向けて、ベストを尽くしていきたいと思います。
音色や強弱だけでは言い表せない音の要素。心地良いなあと思うリズムには、うねるようなグルーヴとこのタッチがあります。食事に例えると食感(texture)みたいなもの。
料理のテクニックと素材に対する愛情によって生まれる食感は、太鼓の演奏においても重要な音の成分として存在していると思います。
先日、オランダへ飛んだ際、音の在り方についていろいろと思うことがありました。
1980年代に交流があったサークル・パーカッションというグループとその生徒さんとでワークショップを行い、ジャパン・フェスティバルに出演し、彼らのレパートリーにもなっている私の「族」を共演しました。
まあ、彼らの稽古場環境の素晴らしいこと!

そして、’90年代頃に揃えたと思われる太鼓群。その木目の美しさや叩きこんだ皮から当時の太鼓の素材の素晴らしさを見て、懐かしさを覚えました。
「ああ、いい太鼓だなあ。」
もちろん、私の太鼓もそうです。’90年代までに作った太鼓は皮もボディも素晴らしくメインテナンスの必要がないくらいです。くり抜いたボディに狂いが生じないし(太鼓は製品となってからも動く=変容します)、皮の張替えもしていません。
とは言え、オランダの太鼓は日本と環境が違いますし、所有している彼らはメインテナンスをしたくても輸送費が掛かるし、簡単ではないと話していました。
それだけでなく、彼らは私がかつぎ桶太鼓や他の太鼓の演奏を発展させていったその背景と哲学を知りたいと常々聞いてきました。
太鼓がポピュラーになり、大量生産されることで材料がなくなっていくことは仕方がないことだと思います。
でも、私が昨今の太鼓シーンでとても胸を痛めることは、そのメインテナンスと太鼓との向き合い方なのかな。
例えば、かつぎ桶太鼓の馬皮。
牛皮と比べてとてもデリケートなため、力任せに叩いたら汚い音どころか、簡単に破れてしまいます。それを知らずにドカドカやるものだから、「こんな皮はうちのグループでは使えない!」とか言って、太鼓屋さんにクレームを出す奴らがいるそうです。
正直、何もわかっていないのです。
単なる手段としてマッチョな二の腕で太鼓をぶっ叩くうちに、貴重な素材がどんどんなくなっていくわけです。
マッチョなエダムチーズ

柔らかなタッチの豊かな音が失われていく。
このところ、日本において伝統とかレガシー(文化的遺産)と声高に言われていますが、とても違和感があって、本質とずれているなと感じることがあります。
要は経済を回すことが根本なんだと思います。それについては、全く否定しません。私も常に、非常に、切実にお金に困っています。
でも、それ以上に「失いたくない音」がある限り、少々経済効率が悪くても表現し続けていきたいと思っています。
燃やせ、消費カロリー!

オランダから帰って、自分が表現していきたい音楽の立ち位置を自問自答しています。
そういう意味で、11月のライブ「Leo Dynamism−森のダイナミズム」は、一つのターニングポイントになると思っています。
己に対して書き記しておきます。
「54の国を旅してきて、それがどうしたん!?そんな体験は一度チャラにして、改めて大きな視野を持って進め!」
これから続くライブやワークショップに向けて、ベストを尽くしていきたいと思います。

木を見て森を見る 22世紀に残る音
この1〜2年、ライブのイメージは「森」。
何か具体的なイメージが最初にあったわけではありませんでしたが、太鼓の一音一音とじっくり向き合っていたら、その先に森が見えてきたという感じです。
100年単位の時間をかけて森で生きてきた木を切り出して作られた太鼓ですから、辿っていったら森だったというのも自然な流れなのかも知れません。
「木を見て森を見ず」ではなくて、木(太鼓)を見てたら森が見えてきた(笑)
でも、湧いてきたイメージは人の手によって整えられた美しく、「空気がおいしいねえ」という感じではなく、一歩足を踏み入れたら、大なり小なり生きる力がウジャウジャしている森。
森に君臨するかのような大木もいつかは朽ちていき、それを糧として新たな生命が生まれる。そういったダイナミックな、でも、とても繊細な世界を表現したいなと思った時、太鼓アンサンブルが最も相応しいじゃないかと。
しかも、トリオ。
11/13のLeo "Dynamism"(森のダイナミズム)では、私の創作に欠かせない山内利一君はもちろんですが、ドド〜ン!と打ち放てる叩き手がほしいと思い、鼓童の大太鼓打ち・中込健太君にオファーとなった次第です。
彼がまだ高校生の時、私が太鼓界では初めてオーディションでアンサンブルのメンバーを募集した時に選んだメンバーでもあります。その後、彼は鼓童に入って大活躍。

手前から健太、私、利一
目に見えるほどの大きな音。見えそうで見えない音。踏んづけたらおしまいの音。ふわふわしてつかめそうでつかめない音。どこまでも伸びていく音。
森で生まれる様々な世界を太鼓の音で全部視覚化する!
そんな思いで創作を続けています。
もう5〜6年前になりますが、文化庁文化交流使として1年間ヨーロッパで活動していた時も、これに近いイメージをダンサーと共有して創作していたように思います。
変わらないなぁと思うところもありますが、森というテーマは深くて簡単ではないですね。でも、自分もそれなりのキャリアを積むことで、このテーマに出会えたのかも知れません。
スピードとパワーは年とともに衰えていきますが、音色とグルーヴ(リズムのうねり)はキャリアを積むほど豊かになると思います。私が憧れたミュージシャンや諸先輩方を観てもそう思います。
とは言いつつ、デモ音源を作るために久しぶりにうりゃ〜〜!

特に太鼓は熟成が必要なので、世代交代してはダメ。むしろ、幅広くオール世代で取り組んでこそ「太鼓」なんだなと。

後で気づいたのですが、私が50代、利一君が40代、健太君が30代。ダンサーのご紹介は次回のブログで(-_-;)
これからオランダに向かいますが、向こうの空気を吸うことでまた覚醒すると思います。
だから、超久しぶりに書き留めておいた。
何か具体的なイメージが最初にあったわけではありませんでしたが、太鼓の一音一音とじっくり向き合っていたら、その先に森が見えてきたという感じです。
100年単位の時間をかけて森で生きてきた木を切り出して作られた太鼓ですから、辿っていったら森だったというのも自然な流れなのかも知れません。
「木を見て森を見ず」ではなくて、木(太鼓)を見てたら森が見えてきた(笑)
でも、湧いてきたイメージは人の手によって整えられた美しく、「空気がおいしいねえ」という感じではなく、一歩足を踏み入れたら、大なり小なり生きる力がウジャウジャしている森。
森に君臨するかのような大木もいつかは朽ちていき、それを糧として新たな生命が生まれる。そういったダイナミックな、でも、とても繊細な世界を表現したいなと思った時、太鼓アンサンブルが最も相応しいじゃないかと。
しかも、トリオ。
11/13のLeo "Dynamism"(森のダイナミズム)では、私の創作に欠かせない山内利一君はもちろんですが、ドド〜ン!と打ち放てる叩き手がほしいと思い、鼓童の大太鼓打ち・中込健太君にオファーとなった次第です。
彼がまだ高校生の時、私が太鼓界では初めてオーディションでアンサンブルのメンバーを募集した時に選んだメンバーでもあります。その後、彼は鼓童に入って大活躍。

手前から健太、私、利一
目に見えるほどの大きな音。見えそうで見えない音。踏んづけたらおしまいの音。ふわふわしてつかめそうでつかめない音。どこまでも伸びていく音。
森で生まれる様々な世界を太鼓の音で全部視覚化する!
そんな思いで創作を続けています。
もう5〜6年前になりますが、文化庁文化交流使として1年間ヨーロッパで活動していた時も、これに近いイメージをダンサーと共有して創作していたように思います。
変わらないなぁと思うところもありますが、森というテーマは深くて簡単ではないですね。でも、自分もそれなりのキャリアを積むことで、このテーマに出会えたのかも知れません。
スピードとパワーは年とともに衰えていきますが、音色とグルーヴ(リズムのうねり)はキャリアを積むほど豊かになると思います。私が憧れたミュージシャンや諸先輩方を観てもそう思います。
とは言いつつ、デモ音源を作るために久しぶりにうりゃ〜〜!

特に太鼓は熟成が必要なので、世代交代してはダメ。むしろ、幅広くオール世代で取り組んでこそ「太鼓」なんだなと。

後で気づいたのですが、私が50代、利一君が40代、健太君が30代。ダンサーのご紹介は次回のブログで(-_-;)
これからオランダに向かいますが、向こうの空気を吸うことでまた覚醒すると思います。
だから、超久しぶりに書き留めておいた。
