祭り体験がないゆえに(4) 祭り体験がないゆえに
日本もそうですが、村や街も成長、もしくは退廃していきます。なので、私が体験したアフリカの村や街の原風景がすでになくなってしまったとしても想像できます。
再び機会があって、アフリカを訪れた時に素晴らしい出会いや体験があるかもしれませんが、ありのままの自然やその当時のままを期待するのは、私のような旅人の勝手だと思っています。
実は、1991年に初めて訪れたアフリカ・ツアーでは写真家が同行しましたが、撮られた写真をまともに見たことがないのです。
アフリカで体験したことが自分の表現や生きて行く糧となっている今、人の記憶は都合よく刷新されるものとは言え、お気に入りに保存しておく今日的な消化では単に凄い思い出にしかならなかったと思います。
ある意味、アフリカ体験を蘇らせてくれた54体の木像たち(花道家・上野雄次作)

残るものと儚く消えていくもの。
昨年の暮れから膨らましているイメージですが、経済の下で急速に自然界の生態系が破壊されていくアフリカ大陸。それこそ儚く消えてしまったら、人類はおしまい。
「祭り体験がないゆえに」と始めたブログですが、アフリカ体験が自然と人間の営みを気づかせてくれました。
良い意味で地域性や慣習に囚われることのない、私なりの祝祭を創造していくことができたらと思う今日この頃。と言うか、太鼓を始めてからずっとそこにフォーカスしてるやん(笑)

再び機会があって、アフリカを訪れた時に素晴らしい出会いや体験があるかもしれませんが、ありのままの自然やその当時のままを期待するのは、私のような旅人の勝手だと思っています。
実は、1991年に初めて訪れたアフリカ・ツアーでは写真家が同行しましたが、撮られた写真をまともに見たことがないのです。
アフリカで体験したことが自分の表現や生きて行く糧となっている今、人の記憶は都合よく刷新されるものとは言え、お気に入りに保存しておく今日的な消化では単に凄い思い出にしかならなかったと思います。
ある意味、アフリカ体験を蘇らせてくれた54体の木像たち(花道家・上野雄次作)

残るものと儚く消えていくもの。
昨年の暮れから膨らましているイメージですが、経済の下で急速に自然界の生態系が破壊されていくアフリカ大陸。それこそ儚く消えてしまったら、人類はおしまい。
「祭り体験がないゆえに」と始めたブログですが、アフリカ体験が自然と人間の営みを気づかせてくれました。
良い意味で地域性や慣習に囚われることのない、私なりの祝祭を創造していくことができたらと思う今日この頃。と言うか、太鼓を始めてからずっとそこにフォーカスしてるやん(笑)

祭り体験がないゆえに(3) 祭り体験がないゆえに
アフリカはこれまでに12か国を訪れています。サハラ砂漠の北か南で大きく異なりますが、あれだけの大陸なのでたくさんの民族が存在しています。
ガーナでは赤い布を纏ったアシャンティ族の恰幅の良さに、かつて王国を築いた古き良きアフリカの誇りを感じました。
ナイジェリアではヨルバ族のゴツゴツした骨格が印象的でした。残念な歴史ですが、植民地時代は奴隷として高く売買されていたそうです。
弱肉強食はあらゆる生命に存在し、強いものだけが生き残る。そんなシーンを数多く目撃しました。
そう、私なんて虚弱もいいところ。アフリカ大陸に足元から栄養素(エナジー)を吸い取られていくような感覚がありました(トホホ)。
実はこのブログを書くきっかけとなったのは、アフリカの今を伝えるあるレポートでした。過激な経済成長を遂げているガーナや以前よりもさらに混沌としているナイジェリアの大都市ラゴス。
ここ数年でナイジェリアの人口はおよそ2億人になり、経済規模も南アフリカを上回ってアフリカで1位となっています。となれば、ごみ問題に端を発し、環境破壊、政治腐敗、そして、テロ。
2013年、文化交流使としてチュニジアへ上陸した時もこんなことがありました。
初めて船でアフリカ大陸へ!イタリアのジェノバから船でチュニジアへ。

闇に浮かぶアフリカ大陸

港に着いて、お迎えの大使館員の方からいきなり報告。
「アルジェリアとの国境沿いでチュニジアの警官が5人殺されたので、国は喪に服しています。でも、ここは大丈夫です。現場からかなり離れていますので。」
「・・・・・(今すぐ、この船でヨーロッパに帰りたい)」
このような国の入り方をすると、無意識のうちにキーンと張りつめ、ザワザワと落ち着かない感情が生まれます。
こんなことを書くと、ブログのタイトル「祭り体験・・・」とかけ離れているように思われるでしょう。
実は文化交流使として主にヨーロッパで1年間活動していた時、パフォーマンスの前には必ずお祈りをしていました。
「最高のフィーリングを。そして、これからの旅も無事でありますように。」
カルタゴ・フェスティバル(チュニジア・チュニス)


心を落ち着かせて集中するための自分なりのお祈りでしたが、そもそも「祭り」の根源的なところには祈りや願いがあり、それぞれの信仰心や土地の風土で発展していったと思います。
自然災害や病気といった脅威から穏やかな日常を取り戻したいという願い。先人はそれを太鼓や舞に乗せて伝えてきました。
エンタテインメント流行りの昨今ですが、アフリカがそのことを再認識させてくれたのでした。
さんさんと降り注ぐ太陽の光と地中海の風。日常は本当に平和(チュニス)

カルタゴ遺跡(チュニス)


太鼓も馴染みすぎて同化している(笑)
ガーナでは赤い布を纏ったアシャンティ族の恰幅の良さに、かつて王国を築いた古き良きアフリカの誇りを感じました。
ナイジェリアではヨルバ族のゴツゴツした骨格が印象的でした。残念な歴史ですが、植民地時代は奴隷として高く売買されていたそうです。
弱肉強食はあらゆる生命に存在し、強いものだけが生き残る。そんなシーンを数多く目撃しました。
そう、私なんて虚弱もいいところ。アフリカ大陸に足元から栄養素(エナジー)を吸い取られていくような感覚がありました(トホホ)。
実はこのブログを書くきっかけとなったのは、アフリカの今を伝えるあるレポートでした。過激な経済成長を遂げているガーナや以前よりもさらに混沌としているナイジェリアの大都市ラゴス。
ここ数年でナイジェリアの人口はおよそ2億人になり、経済規模も南アフリカを上回ってアフリカで1位となっています。となれば、ごみ問題に端を発し、環境破壊、政治腐敗、そして、テロ。
2013年、文化交流使としてチュニジアへ上陸した時もこんなことがありました。
初めて船でアフリカ大陸へ!イタリアのジェノバから船でチュニジアへ。

闇に浮かぶアフリカ大陸

港に着いて、お迎えの大使館員の方からいきなり報告。
「アルジェリアとの国境沿いでチュニジアの警官が5人殺されたので、国は喪に服しています。でも、ここは大丈夫です。現場からかなり離れていますので。」
「・・・・・(今すぐ、この船でヨーロッパに帰りたい)」
このような国の入り方をすると、無意識のうちにキーンと張りつめ、ザワザワと落ち着かない感情が生まれます。
こんなことを書くと、ブログのタイトル「祭り体験・・・」とかけ離れているように思われるでしょう。
実は文化交流使として主にヨーロッパで1年間活動していた時、パフォーマンスの前には必ずお祈りをしていました。
「最高のフィーリングを。そして、これからの旅も無事でありますように。」
カルタゴ・フェスティバル(チュニジア・チュニス)


心を落ち着かせて集中するための自分なりのお祈りでしたが、そもそも「祭り」の根源的なところには祈りや願いがあり、それぞれの信仰心や土地の風土で発展していったと思います。
自然災害や病気といった脅威から穏やかな日常を取り戻したいという願い。先人はそれを太鼓や舞に乗せて伝えてきました。
エンタテインメント流行りの昨今ですが、アフリカがそのことを再認識させてくれたのでした。
さんさんと降り注ぐ太陽の光と地中海の風。日常は本当に平和(チュニス)

カルタゴ遺跡(チュニス)


太鼓も馴染みすぎて同化している(笑)
祭り体験がないゆえに(2) 祭り体験がないゆえに
私達が訪れる前からナイジェリアでは、政治家、教会、弁護士に至るまで賄賂が横行しているという話を聞いていました。
黒人解放運動家であり、アフロビートの創始者であるフェラ・クティは何度も逮捕と釈放を繰り返しながら、バンドのグルーヴに乗せて黒人解放とその闇社会を世界に訴え続けました(58歳没)。
フェラ・クティの人生はミュージカルとなり、ニューヨークのブロードウェーで大ヒットしました。今回は、そのフェラ・クティの家を訪れた時のことです。
* * * * *
ナイジェリアのシュラインー1991年、西アフリカツアーの記憶
コンクリート打ちっ放しの建物にある大きな応接間のような部屋に通されると、そこには十数名もの女性が薬草(マリファナと思われる)を回してくつろいでいた。
私たちにも勧められたがやんわり断ると、ケラケラ笑いながら隣へと回していった。先乗りしていたBBC放送の取材陣に事情を聞くが、彼らもよく分からないままフェラ・クティの登場を待っていた。
すると、隣の部屋のドアが開き、パンツ一丁でフェラ・クティが出てきた。ドアが開いた瞬間、奥のベッドに二人の女性が裸で横になっているのが見えた。
部屋から出てきたフェラ・クティに女性がすかさずそれまで回していた薬草よりも大きなものに火をつけて渡す。満足げに一服した彼は、自分を訪ねてきたゲストの顔を見渡し、また一服。
フェラ・クティは親から虐待を受けた子やレイプされた子たちを引き取る形で自分の家に住まわせており、おそらく、2〜30名は同居していたと思われる。
しばらくして、BBCがインタビューを試みようとフェラ・クティにマイクを向ける。
「今後、ナイジェリアはどうなっていくと思われますか。」
BBCがこう尋ねると薄ら笑いを浮かべてフェラ・クティは応えた。
「そんなことは、外から見ているお前たちが一番分かっているだろう?」
何時間も待たされ、最初の質問で一喝される。素人の私らでもそんな質問をいきなりしたらダメでしょと思った。そもそも、ナイジェリアを植民地支配していたのはイギリスだし。
記憶が定かではないが、フェラ・クティは私たちに「(お前らは)ドラマーなのか!?」
「はい、西アフリカを旅しています。」といった会話をしたような気がする。
そして、彼は自分のシュラインに招待するよと言ってくれた。正直、その寺院を表す言葉の意味が分からなかったのだが、彼が出かける支度を始めたので、私たちも車に乗り込み、彼の車の後を追った。
夜9時を回っていたと思う。シュラインに近づくと、「RIOT! RIOT!(暴動だ!)」と群衆が叫んでいた。どうやらシュラインに入るためのチケットがあるかないかの押し問答のようだった。
確かにやばい感じ。そして、そのシュラインというものが何なのかその時に知る。そこは、彼が本拠地にしているライブ会場だったのだ。
フェラ・クティを乗せた車が到着した時、すでに演奏は始まっており、ファンク色全快のアフロビートに入り口にしてやられた。
会場に入るとステージにはホーンセクションをずらりと揃えたバンドが客を躍らせていた。その時はフェラ・クティの息子のフェミ・クティが仕切っていた。
ステージの前には人ひとりが入れる檻が二つ。その中でダイナマイトなボディの女性が踊るというか、身体をヴァイブさせていた。
3〜40分しただろうか。上下ピンクの繋ぎのようなエナメル衣装を着たフェラ・クティが、部屋で吸っていたサイズどころではない超特大の薬草をくゆらせて登場。
歌うわけでもサックスを吹くわけでもなく、バンドのグルーヴを確認しながら、薬草を楽しんでいた。そして、おもむろにメッセージらしき言葉を発し始めた。
それまでリズムに体を預けていた聴衆は、彼のメッセージを聞き入っていた。時々、相槌を打ち、声を発する様子はまるでアメリカのゴスペル教会のようだった。
この説教の時のバンド演奏が最高で、音量といい、グルーヴといい、決して平坦ではなく、フェラ・クティが発するメッセージの抑揚に合わせてドライブしていく。
延々と続くメッセージは、現地の言葉で発せられ2〜30分はあっただろうか。そろそろ、何を言っているのか分からない私たちは次なる展開がほしくなってきた頃、ダンサー兼コーラス隊の女性陣が登場し、一気に場はピークに達する。
しかし、すぐにフェラ・クティの説教に戻る。さすがに記憶が薄れているが、息子を始め、若いメンバーにその都度ソロを取らせ、最後の最後にフェラ・クティ自身がバリサク(バリトン・サックス)を抱えて、ボリュームのあるソロを展開。
その頃には聴衆もステージに近づこうと前へ前へと押して来るので、身の危険を感じた私たちは午前1時頃にはシュラインを出たような気がする。
1曲4〜50分はある、曲という概念を超えるメッセージ。理解することはできなかったが、ミュージシャンであるとともに黒人解放運動家でもある彼。政治家の汚職を始めとする不正や若者の怒りやストレスを代弁していたことは間違いない。
日本では社会的メッセージを含む表現が敬遠される。私自身、音楽表現が政治的・社会的手段になることは避けたいと思っている。
しかし、ナイジェリアのシュラインで体感したほとばしるメッセージの塊は、圧倒的な大衆の匂いとともに生命力を放っていた。
* * * * *
先のガーナ同様、私の強烈な祭り体験(祝祭)となっていますが、単なるライブレポートのように感じた方も多いと思います。
日本の祭りもそうですが、その熱気や匂い、特にアフリカでは例えようのない生命体のようなバンドのグルーヴは言葉では表現しきれません。
世界平和(photo: Umbria Festival, Italy)

黒人解放運動家であり、アフロビートの創始者であるフェラ・クティは何度も逮捕と釈放を繰り返しながら、バンドのグルーヴに乗せて黒人解放とその闇社会を世界に訴え続けました(58歳没)。
フェラ・クティの人生はミュージカルとなり、ニューヨークのブロードウェーで大ヒットしました。今回は、そのフェラ・クティの家を訪れた時のことです。
* * * * *
ナイジェリアのシュラインー1991年、西アフリカツアーの記憶
コンクリート打ちっ放しの建物にある大きな応接間のような部屋に通されると、そこには十数名もの女性が薬草(マリファナと思われる)を回してくつろいでいた。
私たちにも勧められたがやんわり断ると、ケラケラ笑いながら隣へと回していった。先乗りしていたBBC放送の取材陣に事情を聞くが、彼らもよく分からないままフェラ・クティの登場を待っていた。
すると、隣の部屋のドアが開き、パンツ一丁でフェラ・クティが出てきた。ドアが開いた瞬間、奥のベッドに二人の女性が裸で横になっているのが見えた。
部屋から出てきたフェラ・クティに女性がすかさずそれまで回していた薬草よりも大きなものに火をつけて渡す。満足げに一服した彼は、自分を訪ねてきたゲストの顔を見渡し、また一服。
フェラ・クティは親から虐待を受けた子やレイプされた子たちを引き取る形で自分の家に住まわせており、おそらく、2〜30名は同居していたと思われる。
しばらくして、BBCがインタビューを試みようとフェラ・クティにマイクを向ける。
「今後、ナイジェリアはどうなっていくと思われますか。」
BBCがこう尋ねると薄ら笑いを浮かべてフェラ・クティは応えた。
「そんなことは、外から見ているお前たちが一番分かっているだろう?」
何時間も待たされ、最初の質問で一喝される。素人の私らでもそんな質問をいきなりしたらダメでしょと思った。そもそも、ナイジェリアを植民地支配していたのはイギリスだし。
記憶が定かではないが、フェラ・クティは私たちに「(お前らは)ドラマーなのか!?」
「はい、西アフリカを旅しています。」といった会話をしたような気がする。
そして、彼は自分のシュラインに招待するよと言ってくれた。正直、その寺院を表す言葉の意味が分からなかったのだが、彼が出かける支度を始めたので、私たちも車に乗り込み、彼の車の後を追った。
夜9時を回っていたと思う。シュラインに近づくと、「RIOT! RIOT!(暴動だ!)」と群衆が叫んでいた。どうやらシュラインに入るためのチケットがあるかないかの押し問答のようだった。
確かにやばい感じ。そして、そのシュラインというものが何なのかその時に知る。そこは、彼が本拠地にしているライブ会場だったのだ。
フェラ・クティを乗せた車が到着した時、すでに演奏は始まっており、ファンク色全快のアフロビートに入り口にしてやられた。
会場に入るとステージにはホーンセクションをずらりと揃えたバンドが客を躍らせていた。その時はフェラ・クティの息子のフェミ・クティが仕切っていた。
ステージの前には人ひとりが入れる檻が二つ。その中でダイナマイトなボディの女性が踊るというか、身体をヴァイブさせていた。
3〜40分しただろうか。上下ピンクの繋ぎのようなエナメル衣装を着たフェラ・クティが、部屋で吸っていたサイズどころではない超特大の薬草をくゆらせて登場。
歌うわけでもサックスを吹くわけでもなく、バンドのグルーヴを確認しながら、薬草を楽しんでいた。そして、おもむろにメッセージらしき言葉を発し始めた。
それまでリズムに体を預けていた聴衆は、彼のメッセージを聞き入っていた。時々、相槌を打ち、声を発する様子はまるでアメリカのゴスペル教会のようだった。
この説教の時のバンド演奏が最高で、音量といい、グルーヴといい、決して平坦ではなく、フェラ・クティが発するメッセージの抑揚に合わせてドライブしていく。
延々と続くメッセージは、現地の言葉で発せられ2〜30分はあっただろうか。そろそろ、何を言っているのか分からない私たちは次なる展開がほしくなってきた頃、ダンサー兼コーラス隊の女性陣が登場し、一気に場はピークに達する。
しかし、すぐにフェラ・クティの説教に戻る。さすがに記憶が薄れているが、息子を始め、若いメンバーにその都度ソロを取らせ、最後の最後にフェラ・クティ自身がバリサク(バリトン・サックス)を抱えて、ボリュームのあるソロを展開。
その頃には聴衆もステージに近づこうと前へ前へと押して来るので、身の危険を感じた私たちは午前1時頃にはシュラインを出たような気がする。
1曲4〜50分はある、曲という概念を超えるメッセージ。理解することはできなかったが、ミュージシャンであるとともに黒人解放運動家でもある彼。政治家の汚職を始めとする不正や若者の怒りやストレスを代弁していたことは間違いない。
日本では社会的メッセージを含む表現が敬遠される。私自身、音楽表現が政治的・社会的手段になることは避けたいと思っている。
しかし、ナイジェリアのシュラインで体感したほとばしるメッセージの塊は、圧倒的な大衆の匂いとともに生命力を放っていた。
* * * * *
先のガーナ同様、私の強烈な祭り体験(祝祭)となっていますが、単なるライブレポートのように感じた方も多いと思います。
日本の祭りもそうですが、その熱気や匂い、特にアフリカでは例えようのない生命体のようなバンドのグルーヴは言葉では表現しきれません。
世界平和(photo: Umbria Festival, Italy)

祭り体験がないゆえに(1) 祭り体験がないゆえに
3月のライブが終わり、部室かい!(笑・京都磔磔)

両親の墓参りも済み、

あっという間に散った桜。

初夏のムードが漂う今、今後予定されている企画についてじっくりと考える時間を作れています。
そんな上機嫌な私が感じていること。
過去のブログにも何度か書いていますが、改めて、私の音楽人生においてアフリカから授かったものはとてつもなく大きいなと感じています。
太鼓叩きがアフリカに影響を受けたと言えば、一般的にはそのリズムを分析し、練習して、いかに応用していったかということを想像するかもしれませんが、私は「太鼓と踊り」の関係を目の当たりにし、音楽(太鼓)の在り方を学びました。
当たり前と言えば当たり前ですが、それらは踊ることを前提に生まれたリズムであったこと。私がそれまでに(当時は鼓童で)演奏してきた表現とは違いました。
もちろん、アフリカの演奏にも強烈な自己アピールはありますし、悪いことではないのですが、彼らにとっての「良いリズム」とは踊れるリズム。大地のような懐(ふところ)の深さを感じました。
過去に書いたものですが、そんなアフリカ体験を何回かに分けて書き留めておこうと思います。お時間がある時にでも読んで、風景をイメージしていただけたらと。
* * * * *
アフリカ・ガーナのある村のトランス儀礼−1991年、西アフリカツアーの記憶
村の長老たちと並んでゲストの私たちは席に着く。反対側正面にはすでに打楽器隊がスタンバイして演奏を始めている。その周りを村人が丸い人垣を作る。子供も多く、特に騒ぎ立てることもなくおとなしく見ている。
リズムが回りだすにつれ、若い女性がぽっかり空いた丸い空間に入って踊りだした。お尻を突き出したような踊りで、足さばきは非常に細かい。踊りそのものは2〜3分だろうか。それほど長いものではないが、踊り終わる際には必ず打楽器隊に一礼をして、再び、丸い人垣に戻っていく。
一度に何人も踊ることはなく、1人が踊り終わって、はけたら次のものが踊るという比較的秩序を保ったまま、それが繰り返される。基本、踊るのは女性。
とっくに日が暮れて月明りが頼りとなる中、辺りは尋常ではない量の(マリファナと思われる)薬草が焚かれ、スモーキーになっていく。それに伴い、踊りもリズムもグルーヴ感が増していく。
そして、その祭りを仕切るアジャ・アディ(’80年代からの友人であるパーカッショニスト)がお前たちも踊れと言い、私たちを踊り場へと促した。
基本、その聖なる踊る空間は裸足にならないといけないのだが、怪我して破傷風にでもなったら怖いので、靴下を履いたままというだらしない風貌と踊りを村人にさらした。当然、村人からは失笑される。その後、そんな茶番はお構いなしに村人の踊りは続く。
昼間、私たちにお茶を出してくれた腰が90度に曲がったおばあちゃんまでが背中をまっすぐにして踊りだした。
「パンコメレン・シェレンコメン♪パンコメレン・シェレンコメン♪」
前にヨーロッパ・ツアーでアジャから教わっていた6/8拍子が、聴いたこともない速さで回り始めた時、何回か出入りを繰り返していたひとりの若い女性がいきなりトランス状態になり、今にも倒れそうになった。
私はハッ!としたが、周りの人々は慌てることなく、女性を抱きかかえるようにして聖なる空間から外して椅子に座らせ、大きな葉で仰いであげていた。
子供たちが微かに笑いながら、「また、お母ちゃん、イったわ(笑)」。
立ち込める薬草のスモークが地上30cmくらいから150cmくらいまでの分厚い層になってきた頃、それまでトーキングドラムを叩いていたアジャが上からポンチョのようなものをかぶり踊りだした。
彼の踊りはそれまでの他の踊りとは異なり、自転しながら大きな円を描く旋回舞踊。打楽器の演奏はトップスピードになり、今にも火を噴きだしそうなグルーヴ。
アジャの旋回も超高速になり、流石に村人にも緊張感が漂い始めたように思われた瞬間、アジャがトランスに入ったのだろう。
「カラカラカラカラ♪」とラットル(鳴り物)が鳴らされた。
アジャは旋回して方向感覚がなくなっているため、その音だけを頼りに音の鳴る方へと導かれていく。そして、ゲスト席の後ろのお告げの部屋へと飛ぶように駆け抜けていった。
同時に私の横にいた長老たちもスクッと立ち上がり、お告げの間へ入っていった・・・。
* * * * * *
私がものすごく集中してこの光景を見ていたことは確かですが、祭りの後、しばらく放心状態になっていたことは間違いないです。
そこにはどこの文化は素晴らしいとか、どこの太鼓はすごいとか、そんなことを超越した大自然と人との営みを見ました。
私には祭り体験がなく、地元と言えるものがないので、こういった旅の体験が創作の原点となり、自分の表現のコンセプトになっているのです。
次回は、ナイジェリア体験。

両親の墓参りも済み、

あっという間に散った桜。

初夏のムードが漂う今、今後予定されている企画についてじっくりと考える時間を作れています。
そんな上機嫌な私が感じていること。
過去のブログにも何度か書いていますが、改めて、私の音楽人生においてアフリカから授かったものはとてつもなく大きいなと感じています。
太鼓叩きがアフリカに影響を受けたと言えば、一般的にはそのリズムを分析し、練習して、いかに応用していったかということを想像するかもしれませんが、私は「太鼓と踊り」の関係を目の当たりにし、音楽(太鼓)の在り方を学びました。
当たり前と言えば当たり前ですが、それらは踊ることを前提に生まれたリズムであったこと。私がそれまでに(当時は鼓童で)演奏してきた表現とは違いました。
もちろん、アフリカの演奏にも強烈な自己アピールはありますし、悪いことではないのですが、彼らにとっての「良いリズム」とは踊れるリズム。大地のような懐(ふところ)の深さを感じました。
過去に書いたものですが、そんなアフリカ体験を何回かに分けて書き留めておこうと思います。お時間がある時にでも読んで、風景をイメージしていただけたらと。
* * * * *
アフリカ・ガーナのある村のトランス儀礼−1991年、西アフリカツアーの記憶
村の長老たちと並んでゲストの私たちは席に着く。反対側正面にはすでに打楽器隊がスタンバイして演奏を始めている。その周りを村人が丸い人垣を作る。子供も多く、特に騒ぎ立てることもなくおとなしく見ている。
リズムが回りだすにつれ、若い女性がぽっかり空いた丸い空間に入って踊りだした。お尻を突き出したような踊りで、足さばきは非常に細かい。踊りそのものは2〜3分だろうか。それほど長いものではないが、踊り終わる際には必ず打楽器隊に一礼をして、再び、丸い人垣に戻っていく。
一度に何人も踊ることはなく、1人が踊り終わって、はけたら次のものが踊るという比較的秩序を保ったまま、それが繰り返される。基本、踊るのは女性。
とっくに日が暮れて月明りが頼りとなる中、辺りは尋常ではない量の(マリファナと思われる)薬草が焚かれ、スモーキーになっていく。それに伴い、踊りもリズムもグルーヴ感が増していく。
そして、その祭りを仕切るアジャ・アディ(’80年代からの友人であるパーカッショニスト)がお前たちも踊れと言い、私たちを踊り場へと促した。
基本、その聖なる踊る空間は裸足にならないといけないのだが、怪我して破傷風にでもなったら怖いので、靴下を履いたままというだらしない風貌と踊りを村人にさらした。当然、村人からは失笑される。その後、そんな茶番はお構いなしに村人の踊りは続く。
昼間、私たちにお茶を出してくれた腰が90度に曲がったおばあちゃんまでが背中をまっすぐにして踊りだした。
「パンコメレン・シェレンコメン♪パンコメレン・シェレンコメン♪」
前にヨーロッパ・ツアーでアジャから教わっていた6/8拍子が、聴いたこともない速さで回り始めた時、何回か出入りを繰り返していたひとりの若い女性がいきなりトランス状態になり、今にも倒れそうになった。
私はハッ!としたが、周りの人々は慌てることなく、女性を抱きかかえるようにして聖なる空間から外して椅子に座らせ、大きな葉で仰いであげていた。
子供たちが微かに笑いながら、「また、お母ちゃん、イったわ(笑)」。
立ち込める薬草のスモークが地上30cmくらいから150cmくらいまでの分厚い層になってきた頃、それまでトーキングドラムを叩いていたアジャが上からポンチョのようなものをかぶり踊りだした。
彼の踊りはそれまでの他の踊りとは異なり、自転しながら大きな円を描く旋回舞踊。打楽器の演奏はトップスピードになり、今にも火を噴きだしそうなグルーヴ。
アジャの旋回も超高速になり、流石に村人にも緊張感が漂い始めたように思われた瞬間、アジャがトランスに入ったのだろう。
「カラカラカラカラ♪」とラットル(鳴り物)が鳴らされた。
アジャは旋回して方向感覚がなくなっているため、その音だけを頼りに音の鳴る方へと導かれていく。そして、ゲスト席の後ろのお告げの部屋へと飛ぶように駆け抜けていった。
同時に私の横にいた長老たちもスクッと立ち上がり、お告げの間へ入っていった・・・。
* * * * * *
私がものすごく集中してこの光景を見ていたことは確かですが、祭りの後、しばらく放心状態になっていたことは間違いないです。
そこにはどこの文化は素晴らしいとか、どこの太鼓はすごいとか、そんなことを超越した大自然と人との営みを見ました。
私には祭り体験がなく、地元と言えるものがないので、こういった旅の体験が創作の原点となり、自分の表現のコンセプトになっているのです。
次回は、ナイジェリア体験。