1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2013/1/15
イギリスのHMVが経営破綻をしたらしい。
日本のHMVは、ローソンのグループ下にあるらしく、本国のそれとは
直接の資本関係はないらしい。全国に46店舗あるらしい。
その昔、アメリカのタワーレコードが経営破たんしたことにはびっくり
したが、もうCDの時代は、ダウンロードの時代に完全にとって変わられようとして
いるのだろう。
その昔、横浜に住んでいたころ、よく渋谷のタワーレコードに行った。原宿へと向かう、
ファイアー通り(消防署があるところですね)の近くにあった。
横浜のHMVにもよく行ったし、渋谷に出来たHMVにもよく行っていた。
小倉にいるときには、小倉のHMVにも寄ったことがある。
日本でも、それらのお店が縮小したり、なくなったりしている。
何枚ものCDを買い、何枚ものCDを売り、今では、そのCDをコンピューターを通して
デジタルオーディオステレオに入れている。
今では、そんな面倒なことはしないで、直接、ダウンロードして、どんどんその機械に
ためていくのだろう。
レコードの次は、CD。
CDなんてという、レコード愛好家は多いが、そのうちCDを懐かしむ時代が
来たりするのだろう。

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2010/3/30
北九州モノレールの三萩野で降りる。仕事を追え、ジムに寄ってというのは
前日と同様だ。休肝日2日目。今日の月は、黒い雲に隠れていた。丁度、三萩野の
駅を降りて空を見上げた時には、少し月が見えた。
別に、ひとつ手前の駅で降りて、歩いてカロリーを消費するということ
ではない。北九州市の中央郵便局へと会社関係の郵便を出すためだ。
中央郵便局は、かなりの頻度で郵便物を送り出しているから、中央郵便局で
出した方が早く着くのだ。
横浜で勤務をしていたとき、中央郵便局は、歩いて15分くらいのところにあった。
西区の岡野町あたりにオフィスがあり、中央郵便局は、丁度その反対側に
あったからだ。今はつながっているかもしれない。
「ああ、いいよ、それ、中央郵便局で出してくるから」
(少しでも早く出した方が、間接的によい結果を生むからだ)
「いいですよ、僕行ってきますよ」なんて、軽く言えてしまうスタッフは、
できるやつだと思う。
そんな時は、「じゃあ、一緒に行こうか」なんて言って、帰りに
「ちょっと飲んでいこうか」なんていう風になったりすることがよくあった。
小倉の中央郵便局は、位置的には、小倉の駅のそばの郵便局のはずだけれど、
三萩野の外れにある。ちょっと不便だ。
三萩野の駅を一緒に降りた中に、うさぎっぽいコスプレの女の子がいた。
白いブーツを履いていた。隣にはごく普通のスーツ姿の女の子がいた。
なぜか、僕が渋谷の雑貨屋さんで働いていた頃のことを思い出した。
全くタイプは違うが、前の会社の職場での女性を連想した。
知っている人もいるかもしれないけれど、GO-BANG'S という3人の
女性バンドのボーカルの森若 香織さんだ。彼女は、いつも高いラバーソールのシューズを履いていた。なんか、それを思い出した。数年前、ネットで調べたら、
有名な俳優の人たちと青山の劇場に出演していた。
彼女の好きな音楽は、ブリティッシュ系の音楽だった。
森若さんと1度だけ、仕事の後に、SEED HALL という西武セゾン系(当時)の
場所でのイベントに行ったことがある。キース・へリング(エイズで亡くなって
しまいましたね)が、青山にお店を出したついでにという、「ポップ」なんとか
というイベントだったと思う。
ピーター・バラカンさんも来ていた。この間、土曜日の朝のNHK-FM の番組で
DJの仕事をもう30年続けていると言っていた。
そのイベントでも、森若さんは目立っていて、ポップでなんとかという大賞
に選ばれて、何か商品をもらっていた。会場で素敵な人を見つけるという
企画ですね。彼女自身は飄々としていた。
同じ時期に、黒姿で働いていた女の人は、日本のパンクが好きな人だった。
同僚の女性は、ラッシュとかボンジョビが好きな女性だった。
いつも2人で残りながら(大所帯であったけれど、社員は店長を入れて、
4人だけだったからだ。早番と遅番でローテーションを組んでいた)、
頭を抱えながら、発注をしたり、営業日報を書いたりした。
小島さん(旧姓)、お元気ですか。今でも、ラッシュとか聞いたりしますか
(そういえば、小島さんは、原田真治も好きだった)。
その店は、センター街からパルコに抜ける、スペイン坂の途中にあって、
忙しかったけれど、人通りが少なくなった(8時過ぎくらい
だったろうか)時間帯にレジを閉めながら、10CCのI'm Not In Love が
流れたりする時間が、いい感じだった。
CDはすれぞれが、順番に好きなのをかけていた(脈絡がなかった)
ドクター・ジョンにホイトーニー・ヒューストンにスライ&ファミリー・ストーン
にスタッフにビートルズにログにローザ・ルクセンブルグに大滝詠一に
ローリング・ストーンズにスミスにキュアーに10CCに・・・・・・
地方の国立の大学出身の「地方的に」頭がいい女性は、片岡義男が好きだった。
「××君、片岡義男がわかるようになったら、大人になった証拠よ」
といわれたことがあった。一時期、片岡義男ばかり読んだときがあった。
フレディー・マーキュリーに似たその男の子は、田園調布近くに住む坊ちゃんで、
毎日、相当の量のラムを飲んでいた。ドラムが好きで、部屋にはドラムセットが
置いてあった。
店長は、いかにもという感じの関西人の男の人で、VAN の赤のスイングトップ
を着ていた。その雑貨屋は、今は「地に落ちた」(失礼)感のダイエーの雑貨店
だった。それでも、DCブランドのブームの流れの端に乗っていた。渋谷は、
もっとも日本でも売り上げが高く、次が六本木で、吉祥寺や原宿や船橋が
その次だったと思う(あっ、梅田と難波と横浜と札幌を忘れた)。
4月の入社式は、虎ノ門での入社式だったと思う。レーザー光線が輝き、
ステージに現れたのは、中内功さんだった。どんな話をされていたのは、
さっぱり覚えていない。
ということで、三萩野で見かけたウサギの女の子から、昔のことを思い出して
しまった。
皆、元気に暮らしているのだろうか。
そう、そう、スライ&ファミリーストーンが好きだった中国人のギターリストの
女の子だった女性、元気でしょうか。
本当は、オバマ大統領に関して、アメリカの健康保険制度について書こうと
思ったが、全ては、三萩野のウサギの女の子が連想をさせた。
ありがとう、うさぎさん。月から出てこられたのでしょうか。

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2009/11/15
東京国際女子マラソンは、30年間は続いたらしい。
その東京国際女子マラソンから、バトンを引き継いだのが、横浜国際女子マラソンで、
横浜市中区の山下公園から、ミナトミライ、横浜駅、そして横浜スタジアム、中華街、
山手近くまで回る周回コースだ。
横浜から離れて3年半になるが、20代前半から40代前半を過ごした場所だ。
そこに映し出される風景を見るだけで、それぞれの場所で落としてきた思い出や、
過ごした時間がすぐに思い浮かぶ。
山下公園のすぐ近くには、サーカスというディスコ(そう、クラブではないのだ)
があった。ブラックミュージック中心(といっても、80年代後半から90年代の頃
のことだから、RUN DMC を初め、BEASTY BOYS やKIETH SWEAT やクリス・クロスが
かかっていた時代だ。かなり、大雑把だけれど。それでも、ジュニアやシェリル・
リンがかかっていたこともある)のディスコで、週末には、基地からの黒人で
溢れていた。モニターでは、SOUL TRAIN や WILD STYLEや BEAT STREET が
流れていたりした。
結構、20代の後半、仕事の後、渋谷から家の妙蓮寺をすっ飛ばして、桜木町、
そして山下公園へ、結構、夜中中ただ踊っていた(RAVE とかいうやつのずっと
前の、穴倉風の室内でのことだ)。ワインクーラーとビールを途中で飲みながら、
4、5時間踊っていた。その後、中華街のOLAF(スェーデン語で王様ですかね)へ
と行き、ビールを飲んでいた。朝方までだ。翌日は大抵、休みの日だった。
前にも書いたが、OLAF の夜中から明け方の時間には、スェーデン人のカルロ
と日本人のきみさん(漢字は知らない)がいた。
カルロは、水夫をしていて、日本に住むようになったスエーデン人だ。
その当時でも、日本に数十年いたのだと思う。
僕はビールばかりを飲み、時々、カルロと言葉を交わした。
夜中には、様々なお客が入ってきた(それぞれに、それなりのわけを抱えて
いるようだった)。大声を出すことはあっても、すぐに自分の「分け前の
場所」へと戻っていった。
僕は、そこで、バーでの「間の取り方」を体感したのだと思う(もし、そんな
ものがあるとしたら)。別に、大人としての酒の飲み方とか、決して、そういった
「マニュアル的」なものではなく。
カルロは、横浜ベースターズのファンで(大洋ホエールズの時からのファンだと
言っていた)、ベイスターズの優勝を見ることなく、喉頭癌で亡くなってしまった。
カルロが生きていたら、もうおじいちゃんになっていただろう。
おじいちゃんのカルロに、ビールをついでもらいたかった。
横浜女子国際マラソンの風景は、様々なことを思い出させるので、また別の
機会にしよう。
高橋尚子さんと、増田明美さんの解説だった。
解説者なりたての、キューちゃんが、自分の体験の話をすると、現役がその
遠い昔の増田明美さんは、どこから引っ張ってきたのか、選手にまつわるエピソード
を次々に出してきた。とてもコンビネーションがよく、いい解説だった。
1KMを3分台で走っていた。テレビで見るより、実際は圧倒的に早いスピード
なのだ。

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2008/10/10
その昔ではなくて、その大昔、母親のお兄さん(胃がんでその昔に
亡くなってしまった)、つまりおじさんが、SLの写真をたくさん
送ってきれた。隆おいちゃんは(おいちゃんというのは、九州地方
の特色なのだろうか、「おいちゃん、気にかけとったとよ」なんて
聞こえてくるとすっと入ってくる)、時計屋さんで、カメラも扱って
いた。中学生になったときにもらったのは、クオーツのセイコーの
ブルーの時計だった。
SLが好きだと言ったのは、小学生低学年の頃の僕だと思う。
送られきた写真は、過去からのモノクロームの写真で、今でも
持っている。裏に几帳面にその写真が撮影された場所などが、
隆おいちゃんの字ボールペン字で書かれている。
今日は7月の休日出勤の振り替えの休みだった。
まだまだ松葉杖で、左脚にはがっちりとギブスが付いているので、
外には出ず、ずっと部屋の中にいた。遅くまで眠って、
ペーパーバックを読んでいた(Can You Keep a Secret、イギリスの
若い女性の物語で、ブリジット・ジョーンズの日記風のイメージだ。
話は全く違うと思うけれど)。前日の夜、NHKで遅くに流れる番組を
見ていた。アーカイブだ。昭和43年や44年辺りに、線路を走る
SL をただ流し続けるというものだ。バックには音量が低めに軽音楽
が流れている。C62 C59 C11 D51 D52 、様々な形のSLが、日本中
を走っている。映されていたのは、日豊線や田川線や山陰本線など
の西日本のものが多かった。ひとつひととのSLのフィルムは、2分
ぐらいだった。モノクロームとカラーだった。
海岸沿いを走っていたり、鉄橋の上を走っていたり。どのSLも力強く
煙を出していた。燃料は石炭なので、確かに今の地球には優しそうでは
ない。当時のエネルギーの中心は石炭だったのだ。九州は石炭供給
の中心地だった。
ただ、深夜に流れるSLのフィルムを見ながら、なんとなく、ただ
なんとなく、懐かしくなり(まだ小学校低学年の時には、SLが
走っていたのだ)、そして、ちょっぴり、悲しくなった。
SL
steam locomotive の略だったのだということが、
そのフィルムを見ながらわかった。
locomotive 、英語を勉強している人でも、一生のうちに、5度
使うか、使わないかの言葉だと、思う。

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2008/3/16
阪急の夙川駅で降りる。久しぶりのことだ。
甲陽園線のフォームへと続くところに、成城石井が
ある。昔なら考えられないことだ。神戸に丸井があるという
ことも。
夙川を降りると、風が潮の香りを運んできていた。
夙川を南へと下っていけば、香炉園の浜へと着く。僕が小学生
の頃には、釣堀があったところだ。どんどん沖へと埋められた
瀬戸内海は、ほとんど波がなかった。阪急の夙川からは、10分
くらい南へと歩けば、海に着いた。
潮の匂いがする街だったんだ。改めて知った。それは、横浜の中区
あたりの匂いを少し似ていた。
その海の近くには、日本酒とつくる蔵があった。今はどうなのだろう。
95年の阪神大震災で、かなりの打撃を受けたはずだ。
夙川へと降りてみようと思ったのは、ちょっとした思い付きだった。
夙川駅から北側へとずっと並ぶ桜は、まだ咲いてはいなかったが、
今日の暖かい日差しで少しつぼみがほころびそうな感じだった。
僕が通っていた大社中学校は、その夙川をずっと北へと上っていったところ
にあった。陸上部だった僕は、その桜の木が並ぶ夙川をずっと南へと
海に向かって走っていた。
夙川から南へと走るのは、小学生からの僕のランニングコースだった。
阪急の高架下をずっと走っていくコースは、平坦で車もほとんど通らなかった。
辺りの風景は見覚えがあるものばかりでは、なかった。大きなマンション
や建て替えられた一戸建てなどは、ほとんどが、95年の震災後に建った
ものだった。その間になんとなく見覚えのある風景(家や道路)があった。
南郷町を通る。中学の頃、仲のよかった友人が住んでいたところだ。
彼は、大学生のときに、柔道部の練習で投げられた時に脳の血管が
切れて亡くなってしまった。元々、弱い血管があったらしい。
大学生の時に、その南郷町の自宅での葬儀に行って、遺影の微笑み
を見て、涙が止まらなくなったのを覚えている。
じっとうつむいた彼のお母さんの姿が、やたら悲しかったのも
覚えている。南郷町は、一戸建ての家が多く、静かな住宅地と
いう感じだった。
少し坂を上って、降りていくと、そこは、満池谷町と清水町に
なる。シーアイマンション夙川というところがあって、そこは
僕が小学生のときから、ずっとそこにあった。
豊田君というちょっとアラン・ドロンに似た男の子が住んでいて、
結構、変な奴だったので、クラスの男の子の間では、人気者だった。
その辺りに住んでいる人たちとは、小学校と中学校は同じだった。
高校は、その辺りは、県立西宮北高校になった。
僕は、市立西宮高校だった。
その辺りに住んでいた、小学生や中学生のときの友人のこと
が浮かぶ。花岡君に塚本君に国分君に、中村さんに熊本さん、
そして植木君に高田君に水口さん(僕の初恋の次に恋した女の子だ
った)、みんなどうしているのだろうか。
1995年の地震がなかったとしたら、その辺りの風景は、きっと
昔のままで、僕は小学生の頃の自分になって、その頃のことを
思い出したことだろう。
それぞれが、地震のために、人生を変えられたのだと思う。
西宮へと戻ってきて、1年と9ヶ月。
僕は、どこかで、彼らや彼女たちとすれ違っているかもしれない。
お互いのことを知らずに。
そう、彼らや彼女たちの子どもともすれ違っているかもしれない
のだ。
今年の春には、夙川へと花見に行こうと思う。
ほんのちっと、昔の自分を思い出すために。

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