1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2012/4/2
ジムへ行き、いつものように、walkman を聞きながら走った。
今日は、マイケル・ブーブレな気分だったので、マイケル・ブーブレを
かけ、その後、ノラ・ジョーンズのバックバンドをアルバムをかけようと
思ったが、間違って、Boys UMen のベストをかけてしまった。
いきなり、End of The Road がかかった。いい曲だけれど、バラードで、
しかも、end of the road なんて、走りながら聞くには適さない。
しかし、走りながら選ぶのが面倒だったので、そのままにした。
その昔の同僚に、Boys UMen が好きなスタッフがいた。堀田君といって
ひょろっと長い青年だった。バスケットが好きで(ナゲットが好きだった、
あれっそれは、マクドナルドでしょ。デンバー・ナゲッツだろうか、いや
別のチームだったかな)、コンピューター関係の専門学校を出ていた。
その頃に重宝していた、彼の技術は、今となっては全く無用に(失礼)なって
しまった。コボルからwindowsへとシフトをしているときだった。
まあ、僕もよくわかっていないけれど。
その堀田君の同僚に、栗原君がいた。
茅ヶ崎生まれの茅ヶ崎っ子で、湘南は庭のようだった。別にサーファーという
わけではないが、高校は、鎌倉と藤沢の間の江ノ電のどこかの駅の高校に
通っていたらしい。彼は、在職中にしっかりと勉強して、開発関係の
大学の単位を取り、ベルギーベースの開発関係(発展途上国のために働く
という仕事ですね)の仕事についてしまった。ぼーとしているようで、
結構、繊細で、頭のいいスタッフだった。
その栗原君と仲がいいのが、静岡出身の川口さんだった。もう、結婚して
お子さんも小学生(か?)になったと思う。
なかなかの肝っ玉姉ちゃんだった。少し「雑」さはあったけれど、
仕事は出来るスタッフだった。
その川口さんと仲が悪かったのが、佐伯さんだった。
アメリカ人と結婚していて、数年して、シカゴへと行ってしまった。
ご主人がシカゴの消防士になったからだ。
時々、娘さんが会社へとやって来ていたが、なかなかキュートだった。
Boys UMen を聞きながら走っていると、そんな人たちのことが浮かんだ。
他にもたくさん浮かんできた人がいたが、またの機会にしよう。
全て実名だけれど、みんなもう辞めた人ばかりだからいいよね。
何人もの仕事を辞めて行った人たち。まあ、今みたいにちゃんと休みも
とれなかったしね。
小倉発のモノレールに乗りながら、ジャーニーのスティーブ・ぺリの
声を聞いた。Escape だ。1曲目が、Don't Stop Believing だ。
みんな、みんな、元気かな。

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2012/4/2
『これは映画だ』
国際政治学者の藤原帰一さんが、「AERA」に執筆していた記事を
まとめた本だ。映画についての評論の本だ。
『酔いどれ詩人になる前に』ベント・ハーメル監督の作品だ。
酔いどれ作家のチャールズ・ブコースキーをモデルにした映画だ。
ブコースキーは、他に、ミッキー・ロークだ主演した『バーフライ』で
もモデルになっている。ミッキー・ロークといえば、『ナイン・ハーフ』
とか、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』だろうけれど、プロレスラーの
役をやった『レスラー』がよさそうだ。
そうそう、話を戻して、その『酔いどれ〜』の評論について、藤原 帰一さん
が最後に書いている。ブッシュのアメリカが嫌になった方は、この映画を見て
アメリカへの愛を確認してください。
アメリカは、そう、ずるい国だ。正義といいながら、どこか胡散臭いところも
ある。しかし、こういった映画や音楽や小説に触れたりすると、やっぱり
許して、やっぱり、いいよなと思わせてしまう国なのだ。
1日は映画の日で、日曜日ありながら、映画が1000円で見ることができる日
だった。こんな日に、映画を見ないのは、どうかしている。
ということで、小倉のリバーウォークのT-JOY に行って、『The Help』を
見た。1950年代から60年代にかけてのミシシッピー州、ジャクソンを舞台
にした黒人問題を扱った映画だ。といっても、アラン・パーカーの
『ミシシッピーバーニング』のようなものでもないし、『フライド・グリーン
トマト』でもない。その間というところだろうか。
Dream works の作品ということで、アリス・ウォーカーの『カラー・パープル』
を思い出した。スピルバーグの作品だ。
主人公のエマ・ストーンがキュートでよかった。
『キャリー』のシシー・スペイセクがお母さん役を演じているのも、
時代の流れを感じた。
オクタヴィア・スペンサーは、この作品で、アカデミー助演女優賞を獲得
している。
ぽろぽろと涙を流してしまう、いい映画だった。
アメリカ南部の風景もよかった。ニューオリーンズからグレイハウンドに乗って
ジャクソン経由で、メンフィスへと行ったことがある。
映画のいたるところにに、アメリカ南部の風景が出ていた。
the help というのは、お手伝いということだ。今でいう、お手伝いと
意味が違うけれど。勿論、奴隷時代のハウススレイブでもないけれど。
1日のキリンカップ(日本での国際親善試合は全て、キリンカップという冠で
行われる。スポンサーの問題なのだろう)は、仙台で日本対アメリカの試合
だった。女子の大会だ。
ジムで4.5kmを走った後、19時30分に、Spain BarO へと駆け込んだが、店は
一杯で、テレビもサッカーの試合に切り替わらなくて、ドラフト1杯で引き上げた。
丁度、屋久島でサッカーを流しているのが、外から見えたので、中に入って、
ずっと試合を見ていた。
結局は、1−1の引き分けだったが、日本のチームは、とてもクールで、
今まで通算、1勝しかしていない相手とは思えなかった。
隣には、元バスケットボール部の今は、テニスに盛り上がっている女性が
いて、ずっとバスケとサッカーとお酒の話をしていた。
しゅとうをつまみながら、ビールを飲み、兼八をロックで飲み、またビールを
飲み、角をストレートで飲んだ。
その女性に、スラムダンクで誰か好きかと聞いたら、桜木だと言っていた。
ランナーでもあり、10KMは50分で走ると言っていた。僕より、ちょっと
早いくらいだ。
アメリカの女子の選手は、仙台の被災地を訪れ、子どもたちとサッカーを
していた。ワンバックは被災地を見ながら、UNBELIEVABLE とつぶやいて、本当に悲しそうな
目をしていた。その横で、キーパーのホープが、目を細めて遠くを眺めていた。
地震が起こって、アメリカ軍の支援の動きも早かった。
1日の11時過ぎの地震、日本に滞在しているアメリカのチームの選手も
感じたのだろうか。
まだまだ余震が続く日々、現地の人で、トラウマのため眠れなくなって
いる人もいるのだろう。
僕たちに出来るのは、自分たちで出来ることを「help」し続けるだけだ。

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