1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2011/10/30
J1のチームも結構、色々なことを抱えていたりするのだろうけれど、
J2のチームは、もっと色々なことを抱えているのかもしれない(まあ、
JFLになるともっとかもしれないけれど)。サッカーの話だ。Jリーグ。
ギラヴァンツ北九州は、今日は栃木に勝ち、暫定6位になった。
昨年、びりで、その前はJFLで、ニューウェーブ北九州と名乗っていた
チームだ。本年の躍進は、三浦泰年監督がやって来て、選手を入れ替えて、
改革をした結果だと思う。これからの試合は、比較的、やりやすい試合ば
かりだと思う(勿論、楽な試合はないとは思うが)。
ということで、今日は、サガン鳥栖。
サガン鳥栖のアメニティスタジアムは、鳥栖駅のすぐそばにあって、
なかなかかっこいい。つい最近では、オリンピック代表の試合が
行われた。24,490人の収容らしい。J1にあがるには十分な収容だ。
佐賀のサガン鳥栖は、砂の岩と「ユベントス」の「韻」と鳥栖を
混ぜあわせた名前らしい。
サガン鳥栖は、1997年に経営難により解散した鳥栖フューチャーズの
受け皿として始まり、1999年にJリーグに加入した。J2の10チームの
オリジナルチームだ。
2000年は6位であったが、それ以外は、毎年下位に低迷した。
2002年に内紛の続いていた会社に外部より、建設業を営んでいたJリーグ初と
なる女性社長として、古賀照子を招聘した。
2003年にはシーズン3勝、28試合連続勝ち星無し、翌年30まで更新。
共にJ2ワースト記録。この記録は、ギラヴァンツ北九州が、2010年から11年の
シーズに更新した。
一時は、Jリーグからの除名の可能性もあった。
最終的には、元川崎の監督の松本育夫を招聘。
2004年に選手の半分を入れ替えた。
この後、社長の古賀氏と創価学会との問題が勃発し、社長と監督が対立を
して、様々な問題が生じた。チーム消滅の手前も経験している。
当時、ライブドアの堀江氏もクラブ買収の意向を示したが、実現には至らなかった。
その後、チームを建て直し、2006年には4位になり、J1にまであと少しとなった。
その後も、今のギラヴァンツくらいの位置を行ったり来たりしていた。
2009年には、山形がJ1へと昇格したため、鳥栖は、1999年のJ2オリジナル10チーム
の中で、唯一J1の経験がないチームとなってしまった。
というようなブルースを抱えるサガン鳥栖。
今年は、2位を確保している。
がんばれ、サガン鳥栖、今年は行けるぞ。
多分。

2
2011/10/27
新旦過食堂街のSpider's Cafeで、ビールを飲む。店のドラフトは、サッポロだ。
バックには、FMが流れている。アメリカのFMをステーションを日本のFM局が、
そのまま流している番組だと思う。
マービン・ゲイが流れ、パティ・スミスが流れていた。
少し年配の2人の中年が入ってきて、壁に描かれた黒田征太郎さんの絵を
見て、「ここにもやって来たんだ」というようなことを言っていた。
デザインや企画を行っているのだろう。業界の人という感じだった。
うち一人の人は、やたらに深い「ディープ」な声をしていた。
今まで、何度も「いい声ですね」「渋い声ですね」と言われてきたという
感じの声だった。
お客さんは、僕を含め3人だけで、マスターとはサッカーの話をし続けていた。
北九州ギラヴァンツは、FC岐阜に3度目の勝利をしていた。水曜日のゲームの
ことだ。リーグ戦と天皇杯、今月は、FC岐阜との試合が3試合もあったのだ。
3戦とも、北九州ギラヴァンツが勝った。岐阜さん、ごめんなさい。
その前にSpider's Cafe に行った時には、隣にかなり酔っ払った30代の
女性がいた。Fighting Cockという、アルコール度数、51度のバーボンを
何倍もロックで飲んでいた。明石が生まれた場所らしく、結婚して北九州に
住んでいるようだった。椅子から落ちたり、シンディー・ローパーに合わせて
歌を歌ったり、楽しそうだった。お子さん2人は、ご主人がみているという
ことだった。それぞれの事情とやらがあるのだろう。
小倉北区の鍛冶町に、ずっと気になっていたお店がある。
「みゆき」という6席くらいの小料理屋さんだ。
外の黒板には、食べもののメニューが簡単に書いてあった。
ぎょうざがおいしいというお店だった。行ったときには、いつも満席だった
ので入ることができなかった。週末は、いつも混んでいるのだと思う。
そのお店に、ジムの帰りに入ることが出来た。
落ち着いた感じのお店で、ジョン・コルトレーンが流れていた。
ドラフトビールは、スーパードライだった。
かぼちゃを食べ、みょうがの酢漬けを食べ、ビールを飲み、その後日本酒を
飲みながら、秋刀魚の塩焼きをたのみ、ぎょうざをたのんだ。
どの食べものもおいしかった。
僕の他には、会社員が2人。ワインをボトルで飲んでいた。右側にはおじさんが
ひとり。お上さんとその息子さんが中にいた。家族でお店を開いているのだろう。
熱燗は、超辛という銘柄だった。
値段も手ごろで、なかなかいい店を発見した。他にも試してみたいメニューは
あったが、次回にとっておくことにした。
やはり、おいしいものをいただく時間は、とても嬉しい。

3
2011/10/26
トルコ東部で、M7.2の地震があった。
僕がトルコを旅行したのは、1999年の夏のことだった。8月9日から18日で、
イスタンブールからイズミールへ行き、一番近い、ギリシャの島に渡ったり
していた。そのとき、まだギリシャはユーロではなく、自国のDの頭文字のお金の
単位だった。
日本へと戻る前の日、イスタンブールに戻ってきて、ブルーモスクの裏側の
旧市街地の小さなホテルに泊まっていた。ブルーモスクのバーで明け方3時くらいまで
ビールを飲んでいた。部屋へと戻り、数時間してからのことだった、地震が起こった
のは。部屋全体が揺れいた。もう、どうすることもできず、ベッドにしがみついてた。
死ぬかも、だたそう思った。
揺れがとまり、外へと出た。エレベーターは止まり、電気は切れていた。
他の宿泊客も外へと出ていた。日本と違って、耐震構造ではない、石を積み上げた
感じの建物が多いトルコでは、簡単に建物は壊れてしまうのだろう。
そのホテルは無事だったが、その後ずっと、ブルーモスクの芝生の上で、毛布を
敷きながら、ただ街が落ち着くのを待った。
阪神大震災が起こったのが、1995年。
そして、東日本大震災。
地震の前では、僕たちは何もすることはできない。しかし、その後の手を差し伸べる
ことはできる。
1ドルが、75円75銭の円高を更新した。

0
2011/10/25
NHKで、サッカーの漫画の『ジャイアント・キリング』の最終回を見た。
東京とそれほど強くないETUというチーム漫画だ。East Tokyo United。
東京の下町のチームに、タツミ監督という、イギリスの弱小チームを
強いチームしてきた監督が、入っているというものだ。
だんだん、段階的に強くなったところで、クラブチームで、サポーターも
交えて、カレーパーティーを開くというものだ。選手が、浅草の雷門の
前で、チラシを配っていた。
その当日、タツミを監督として、イギリスからETU に引っ張ってきた
ジェネラルマネージャーとタツミ監督が話しをしている。
「チームの選手と、フロントと、サポーターが一緒になって、ひとつの
ことを一緒に行う。これが、強くなっていくということなんだ」というような
ことを言っていた。
ジェイアント・キリングというのは、弱いとされているチームが、強いチーム
に勝つことだ。
北九州ギラバンツさん、もっと地元に入り込んで、サポーター増やさないとだめ
ですよ。
駅の裏にお金かけて、スタジアムつくるわけですから。

0
2011/10/20
まあ、自分にとってリビングみたいな場所だった「飲み場」に、
足を運ばなくなった。主が変わり、店の雰囲気が変わってしまい、その流れに
沿って客層も変わってきたからだ。
それは、決して、次の主が悪いというわけではなく、それでも、その雰囲気には
自分は馴染めないということで、ここ1ヶ月ばかり店には、足を運んでいない。
その店でよく話しをしていた常連と、太陽軒であった。太陽軒というのは、
北九州市小倉北区鍛冶町にあるラーメン屋さんで、夕方からの営業をしている
お店だ。福岡県という位置にありながら、白濁したスープの豚骨ラーメンでは
なく、塩ラーメンと味噌ラーメン(勿論、醤油ラーメンもある)を出すお店だ。
なかなかおいしい。
その常連の男の子は、美容師の男の子で、よく、そのお店でお酒を飲みながら
話をしていた。僕は、太陽軒に行って(今日は、博多で会議だった。その前日は
大阪での会議だった。目が回る)、ジムへといくつもりだった。
しかし、久しぶりに会った、その美容師の男の子と、SPAIN BAR O へと行った。
その男の子は、ジム・ジャームッシュみたいな髪型をしていた。
年齢的には、僕が若く結婚していれば、息子と言ってもおかしくない年齢の
男の子だ。参ったな。まあ、おいちゃんと飲む、若い男の子というところだろうか。
まあ、話をしていて、気軽に「コージー」雰囲気を楽しむことができる。
そんな「空間」がなんとなく、失われてしまった(僕にとってのということだけれど)
のは、ちょっと悲しい。
カナダのトロントで16日開催されたマラソンで、100歳のインド系イギリス人の
シンさんが、完走したらしい。8時間25分16秒。
シンさんは、89歳からマラソンを始めたらしい。凄いです。
人生を生きていく上で、年齢は、やはりひとつの重要な「指標」だけれど、
それでも、「遅すぎる」ということはないと、シンさんは教えてくれる。
ファウジャ・シンさん、ありがとうね。

1