1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2010/1/30
『ライ麦畑でつかまえて』 The Catcher In The Rye
を初めて読んだのは、大学生の頃だった。大阪の千里(太陽の塔があるところ
ですね)へ向かう途中にある関西大学の学生だった。大きな総合大学の生協は
とても充実していた(しかし、僕が属していた社会学部は校門の外に校舎が
あったので、社外学部(校舎の外のという意味だろう)という輩もいた。
そこで、僕が専攻したのは、マスコミで、特に広告(公共広告)だった。
生協の本屋さんでは(その他も同様だけれど)通常の定価より、商品は安く
なった。だから、村上春樹の新作や村上龍の新作を買ったのは、生協での
ことだった。
大学の生協で買ったばかりの白水社のハードカバーの『ライ麦畑でつかまえて』
を手に抱えながら(鞄に入れる前にもう、少しでも読みたかったのだ)、阪急電鉄
の関大前の「サンドウィッチ伯爵」という喫茶店に入り込んだ。そこのミルクティー
がおいしかった。少し季節はずれの雪が舞っていた。
ある春がそこまでやって来ていた午後、とても幸せな気分で、ミルクティーを
啜りながら、その本のページを開いたのを覚えている。
J.D.Salinger は、すでに新潮文庫の本で、『ナイン・ストーリーズ』や
『フラニーとゾーイ』なんかを読んでいた(天才一家、グラース家の物語です、
ナイン・ストリーズのなかの「バナナフィッシュにうってつけの日」に出てくる
のは、そのグラース家の長男、シーモアです)。
サリンジャーの名前は知っていたけれど、本は読んだことはなかった。
高校3年生の時に、マイク・チャップマンにジョン・レノンが、ニューヨーク
ダコダハウスの前で撃たれ、死んだ。そのときに、犯人のマイク・チャップマンが
持っていたのが、『ライ麦畑でつかまえて』だった。
そのときに、また、サリンジャーが読まれた。
村上春樹が、『ライ麦畑でつかまえて』を訳したのは、数年前のことだ。
J.D.Salinger が亡くなった。アメリカのニューハンプシャー州で隠遁生活
をおくっていたらしい。『ライ麦畑でつかまえて』以降は、作品もなく、
謎に包まれていた。
今日も世界中で、たくさんの人たちが『ライ麦畑でつかまえて』を
読んでいるのだろう。
Rest in peace.

3
2010/1/29
小倉のコレットは、最近、大幅な赤字のために人員削減を打ち出した
井筒屋の上(あるいは中とでもいうべきか)にある。
大家さんは、ゼンリン・西部ガスなどが出資する北九州都市開発だ。
福岡銀行や西日本シティ銀行などが、60億以上を融資している。
PAUL SMITH があって、VILLAGE VANGARD があって、喜久屋書店があって、
BIG BANG があって、ちょっぴりの間、通っていたアビバがある。
僕の生活においては、大事なものばかりだ。
頑張れ、コレット、頑張れ井筒屋。
そのBIG BANG で、木曜日も軽くランニングをした。
今日の音楽は、迷った末、EAGLES のHOTEL CALIFORNIA にした。
以前に書いた、栗林君(大学に入ってすぐ亡くなってしまった)と石村君と
僕は、中学2年生の頃は、学校から夙川(桜で有名です)を下りながら
いつも帰っていった。時々、阪急電車の甲陽園線の苦楽園口駅の本屋で
ジャンプを読んだりした。りょうさんは、その頃からあった。
僕はその頃、あまり漫画は読まなかった。
時々、夙川駅の近くの手作りのハンバーガー屋(SEA MAN )に寄ったり、
そのまま阪急電車に乗って三宮(神戸)へと行ったりした。
石村君(今は、兵庫県西宮市に住んでいる)と栗林君は、ボーイスカウトに
ずっと入っていた。小学生の頃からだ。僕は、軟式野球のチームに入っていた。
1番バッター、セカンドだった。
石村君と僕は、中学生の頃、よくビートルズを聞いた。その頃には、もう解散
をしていたけれど、LET IT BE や ABBY ROAD は、発表されてまだ新鮮
だった(勿論、今でも新鮮だけれど、数十年という月日が経過してしまっている)。
栗林君は、「洋楽」には興味がなかったが、そのアルバム、イーグルスの
『ホテルカリフォルニア』だけは気に入って聞いていた。勿論、ウォークマン
は出たばかりで、カセットテープか、レコードで、CDなどは存在しなかった。
70年半ば後半のその時代の空気が、凝縮されたようなアルバムだ。
僕はHOTEL CALIFORNIA が終わってかかる、NEW KID IN TOWN が好きだ。
底抜けの明るさのカリフォルニアではなく、少し切ない感じのウェスト・コースト、
それでも、まだまだ希望がある空気に溢れている。
去っていく60年代と、70年代の成熟。
一体、あの頃の時間は、どこへと行ってしまったのだろう。
誰か、知りません?
か?

0
2010/1/28
Tuesday night,
カクウチスタイルありありで で、ねむれねむれ を飲んだ。芋焼酎だ。
鹿児島に立ち寄ったシューベルトが、この芋焼酎にインスパイアされて、
ねむれ、ねむれの歌を作曲したらしい。…・・・・・そんなわけないか。
1杯だけ飲んで、spain bar o へと行き、さっぽろ黒生を頼み、恒見の牡蠣を
たのんだ。おおぶりで、オリーブオイルがかかっている。2つの牡蠣にそれぞれ
レモンとライムの輪切りが添えてある。
カウンターの後ろには2人のスタッフ。今年になって5:00くらいまで空けている
らしい。店を終えた同業者の人が、眠る前の「自分のための1杯」を飲みにやって
くるのだろう。
Wendesday night,
小雨が降る夜。仕事の後、ジムへと行く。
軽く、軽く走るつもりだった。3月20日の若松での「ひびきマラソン」に出る
からだ。あと2ヶ月で、走りこむ必要がある。
デジタル・オーディオ・プレイヤーで、ストーンズのFORTY LICKS (ベスト)
をかけた。JUMPIN' JACKFLASH からSTREET FIGHTINGMAN へ、そして、SATISFACTION
へと続いた。
いつもは馴染みのメロディーの裏がしっかりと耳に入ってきた。
裏というのは、ベースラインとかキーボードの音だったりする。
I CAN'T GET NO SATISFACTION で、日本「ちゃちゃちゃ」、日本「ちゃちゃちゃ」
というタンバリンが鳴り続いているということがわかった。凄い。一体、誰が
タンバリンを鳴らし続けているのだろう。チャーリー・ワッツだろうか、
キース・リチャードだったりして、それともミック・ジャガーか。
ローリングストーンズが、ブルースロックのバンドだと言うことが、よく
わかった。結局、ずっとストーンズを聞きながら、3kmを走った。
今年の目標は、ランナーに戻って、ハーフマラソンを走ることだ。
Run,Rabbit,Run

3
2010/1/25
月曜日の夜。きっとごく普通の月曜日の夜。
カクウチありありで で、芋焼酎の「白玉の露」と「海」を飲む。
明日は、季節はずれの健康診断のため、21時以降は何も食べてはいけない
ことになっている。最後の晩餐。
25度の芋焼酎を(時々、もう少し高いアルコール度)ストレートでずっ
飲んでいる。10月からのことだ。いつも、ありありでおすすめのものを
飲んでいる。today's pick up というやつだ。
平和通りからではなく、旦過からモノレールに乗る。
人通りの少ない月曜日の小倉の夜。魚町サンロード、下にNEW ROBIN とある。
黒いコート姿の30歳になったばかりという感じの男が自転車を押している。
左側に同じように黒いコートを着た20代後半くらいの女が一緒に歩いている。
資さんの横を通る。左側に、スナックあずまやという看板が見える。セット3000円。
地下へと向かう店だ。かいりゅうから5人のサラリーマンが出てくる。
2人の姿は、まっすぐと魚町サンロードを歩いていく。バーのNORTHERN CROWN
(北野さん、最近、行ってないです、すんません)を通って、旦過へと向かっていく。
2人は夫婦なのか、夫婦になろうとしているのか、付き合い始めたばかりなのか、
つきあって5年目なのか、1週間後には別れるかもしれないのか。
自転車を押す姿の男の左腕と、そっと寄りそうような女の右肩が触れ合いながら
まっすぐと歩いている。
2人がどんな状態であろうと、どんなことになろうと、少なくともその2つの姿は、
どこにでもある月曜日の冬の夜を言葉少なげに、ただ、ごく普通に幸せに過ごして
いるように見えた。サンロードを抜けると、視界が開け、信号が変わるのを待った。
黒い雲の隙間から、お椀の形のような月が見えた。
列をつくって並んでいるタクシー。
右手にスーパーの丸和の赤い文字が目に飛び込んできた。
旦過のモノレールのプラットフォームで、デジタル・オーディオ・プレイヤー
を出す。アース・ウィンド&ファイアのベストを選び、After The Love Is Gone
を聴く。
For a while to love was all we could do♪
We were young and we knew in our eyes♪
と始まる。to love was all we could という歌詞が素敵だ。
そして、途中で、
something happened along the way
yesterday was all we had
と流れる。yestreday was all we had という歌詞が哀しい。
モノレールが流れてくる。
月曜日の何気ない夜。月が雲に時々隠れ、現れる。
明日は、晴れるのだろうか。

0
2010/1/23
小学校1年生まで、福岡県の田舎に住んでいた。
ほとんどそこから外にでなかった僕の世界は、山と小学校と
神社と泳ぎに行った川とふるい映画館だった。
そこに彩りを添えたのが、たこ焼き屋さんだった。北川のたこ焼き
だった。当然、マヨネーズなどかけない時代のことで、あつあつの
その味が印象的だった。
中学生のときに、学校の帰りに、兵庫県の西宮にある商店街で食べた
肉屋さんのコロッケ。勿論、コンビニは少なかったし、コンビニで
コロッケなど販売していなかった。
神戸の元町商店街の入り口にある肉屋さんのコロッケ、大阪の此花区の商店街の
コロッケ、東京の江東区の商店街のコロッケ、横浜市保土ヶ谷区の商店街のコロッケ。
コロッケ屋さんを見かけるとコロッケを齧りたくなる。ソースはつけない。
中学の陸上部の記録会の帰りに食べた吉野家の牛丼。
JR西宮駅のところにあった。部員みんなで並んで食べた牛丼は圧倒的においしかった。
つゆだくなんていく、オーダーの仕方はなかった。
豚丼なんかもなかった。狂牛病が話題になるのは、その10数年後のことだった。
牛丼好きのキンニクマンもまだ世に出てはいなかった。
中学生のときに、友人3人で電車に乗って、よく三宮(神戸)へと行った。
映画を見に行くことが多かった。ダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォード
が出ていた『大統領の陰謀』(ALL THE PESIDENT'S MEN)なんかが上映されていた。
そんな僕たちは、神戸のフラワーロードのマクドナルドでフィレオ・フィッシュ
を食べて、フレンチフライを齧りながら大丸の屋上のゲームセンターへ行くと
いうのがお決まりのコースだった。
タルタルソースというものもあまり普及はしていなかった頃、フィレオ・フィッシュは
とんでもなくおいしく感じられた。一緒に三宮へとよく行った3人のうち、ひとりは
20歳になる前に亡くなってしまった。浪人をして大阪大学に入学して、柔道部に
入部して、その柔道部の練習中に投げられたときに、脳の血管が切れてしまった。
過ぎ去ったいくつもの年月と、買い食いしたたくさんの食べ物。
一体、どこへと消えてしまったのだろう。
栗林君、僕はもう君の人生の2倍以上を生きています。元気ですか。

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