1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2009/10/30
菊池雄星君は、西武ライオンズに決まった。
やはり、花巻、宮沢賢治さんの故郷。岩手県。
南の県の仙台のチームに行って欲しかったね。
でも、渡辺監督はピッチャーだし、涌井もいるし、帆足もいるし、
岸もいるし、おかわり君(ああ、ピッチャーじゃないか)もいるし、
所沢だし、人気もあるし。まあ、いいところかもしれない。
しかし、たくさんのメジャーの球団も面接に来たりして、まだ10代の終わりの
少年には、それは、それは重い決断だったろう。メディア・アテンション
と、おそらく学校に届けられるたくさんのファンレター、外野の大人たちの
「話」「お話」「忠告」「進言」「アドバイス」「予告」など等。
でも最終的には、どうなるかはわからない。
スポルトが、丁度1年前に、大リーグ行きを決めた田澤純一にインタビューを
していた。自分の選んだ道は正しかったのだろうか?スポルト、そんなのわかる
はずないだろうが(まあ、番組でもそう結論付けていたけれど)。
初先発で、ニューヨーク・ヤンキースのA・ロッドに「さよなら」ホームランを
打たれたのは、それはそれで、メモリアルだ。2勝3敗 防御率7.46
その結果が相対的に(何と?)どうだったのかとうことは、比較がない。
だから、いいのだ人生は。選んだ道が、今の道だからだ。
田澤選手は、まだ社会人だったからいいけれど、本当に高校出たばかりの
(それでも、マー君やダルビッシュや松坂やその他、高校球児は、結構、
プロ入りして、2年目くらいには、立派なインタービューの受け答えをして
いたりするものね)青年には、ちと、過大なる注目は「痛い」かもしれない。
ドラフト会議。
1位の選手が必ずしもトップになるとは限らない。怪我などをしてしまうと、
全ては自分との戦いになる。高額の契約金をもらえるのも、活躍し続けるという
条件でのことだ。全員が活躍することなどない。誰かが打たれるか、誰かが打つか、
そういった世界なのだ。
人生が決まってしまう、ドラフト会議。
小学生の頃、僕は4年生くらいから少年野球のチームに入っていた。
小型の硬式ボールを使うのではなく、ゴム製の軟式ボール(OK-A)とかを
使っていた。日曜日毎に練習をして、時々、試合をした。監督とコーチ2人。
3人共、大人だった。おそらく今の僕の年齢より少し若いくらいだったと
思う。というより、監督やコーチの年齢を考えたことがなかったし、彼らが、
グランド以外で、どんな生活を営んでいるかも想像がつかなかった。
僕は、セカンドで、1番バッターだった。白地にブルーでSと入っていた。
安井スターズ。安井の星たち。西宮市立大社小学校に通っていながら、
安井小学校のチームに入ったのは、友人の紹介で、大社小学校には、野球の
チームがなかったからだ。
草野球のチームはあった。草野球では僕はピッチャーだった。カーブを
投げることができないピッチャー。よくキャッチャーの塚本君を困らせた。
「ふっくん、カーブのサイン出したやろ」
「ごめん、ごめん」
マウンドのところであやまった。
やがて、塚本君は直球しか要求しなくなった。やれ、やれ。
セカンドでその頃好きだった選手は、ジャイアンツの土井選手だった。
何気ない守備と、グリップの太いバットが好きだった。そして、ドラゴンズの
高木守道選手。小学生のくせに、なかなか渋い趣味だ。土井選手、ご冥福を
お祈りしています。セカンドではないけれど、シンシナティ・レッズのショート
ストップ、コンセプションも好きだった。小学生の頃ではないけれど。
安井スターズのサードは、同じ大社小学校だった、坂枝君だった。背が
高くて、カッコよかった。スラムダンクの桜木花道みたいな感じだった。
それでいて、グラブもバットもローリングスを使っていた。
大抵が、ミズノのカラーグラブとかを使っていたときに、坂枝君は、
アメリカのメーカーのローリングスだった。背番号「24」。渋い。
安井スターズではなかったけれど、同じ大社小学校の同級生に辰巳君が
いた。辰巳君は、ブラック・ジャガーズにいた。
中学の時(大社中学校だ)、クラス対抗のソフトボールの大会か何かで、セカンドと
ショートを組んだことがあった。センターへ抜けそうなボール、僕が取り、
辰巳君にトスで渡した。4-6−3のダブルプレーだった。
「ふっくんが、野球やっとたら、こうやっていいセカンドとショート
やったのにな」と、辰巳健一君がその時、つぶやいた。辰巳君は、野球を
中学でも続けたが、僕は、陸上部に入ってしまっていた。
その、辰巳君がもらした言葉が、10代初めの僕にとって、少し嬉しく、
そして、なぜか悲しかった。
そのとき、僕は、「失われた時間」の悲しさ、「そこにあったかもしれない時」
の悲しさを感覚的に学んだのかもしれない。
辰巳君、坂枝君、元気ですか。

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2009/10/28
下関と門司港の関門海峡で、護衛艦と韓国の貨物船が衝突してニュース
になっていた。
大阪のある同僚から、「爆発音聞こえました?」というメールが届いて
いたので、「そんなん聞こえるわけあらへんがな、小倉と門司港は、
三宮と西宮くらいはなれてんねんで(本当だろうか)」と返信を打った。
土曜日。晴れ。小倉北区。
太陽の橋の東の先のクエストを出て、東へと向かう。スーパーの丸和が
ある。その店先には花が並んでいる。パレットというお店だ。結構、色々
なものが安かったりするので、よく買う。カクウチスタイルありありで
にも毎月(?)くらいのペースで花を届けているようだ。店の中央に
様々なテーマで花が飾ってある。どの花も少し酔っている感じがする。
なかなか配色がいい感じで、季節感がある花がアレンジメントされている。
あの店に来るお客さんで、あの花に気付いている人は、48%くらいだと思う。
さらにチケット売り場の左奥に鎮座する福助の置物の表情がもの凄くいいという
ことに気付いている人は、23%くらいだと思う。
スーパー丸和は、北区魚町4丁目にある。魚町銀天街を南に横断歩道を渡ると
右手に丸和があり、そして、旦過市場が始まる。夜中の旦過市場を歩いたこと
がある(勿論、昼もだ)。チャッターが閉まって、それでいてなんとなく積み重なった
人が重ねてきた「音」や「ぬくもり」が沈殿していたりする。
夜中に横浜の中華街や野毛の裏通りを歩いているような気分になった。
バーキネマの吉井さんが好きそうな雰囲気だ。吉井さん、どうすか。あと、神戸
元町の高架下へは行ってみてください。
少し東へ行くと、新旦過飲食店街がある。なかなか「癖のあるお店」(癖が悪い
ではないですよ)が集まっている場所だ。
ムーン・シャン
バンビーノ
バラック
まるしえ
へと寄ったことがある。ムーン・シャンは突出しておもしろい場所で、
マスターは、着物を着ている。材料が足りない時には、本当に丸和に材料を
買いに、走る、走る。丁度、その姿を見かけたこともあるし、僕が、焼きうどん
をたのんだときも、ちょっと失礼と行って、外に出て行ってしまったことがある。
そして、帰ってきたときには白い袋を手にしていた。
新旦過飲食街を抜けると、東京そば萬作がある。平日の振り替え休日のときに、
昼間からそこで、そばを食べながら、お酒を飲んでいたときがある。
熱燗をたのんだけれど、確か、冷酒しかなかったような気がする。出てきたのは
広島のお酒だっただろうか。「東京そば」一体どういう「形容詞」だろう。
お家が蕎麦屋さんの同僚がいる。東京の下町の蕎麦屋さんだ。大晦日はいつも
手伝いなんですよ、なんて言っていた。その同僚は、元ツアーコンダクターで、
大昔の同僚(結婚して北海道に嫁いでいった旧姓佐藤さん)が、その同僚のことを、
バブリー○○といつも言っていた。
そばを啜りながら、日本酒の熱燗。これは冬の楽しみのひとつだ。
旦過あたりで気になっているが入ったことのない店がある。
「すし 十河」 と「くればわかる」だ。
どちらも入ったことがないんで、「わからない」。
信号を渡ってさらに東へ、紺屋町へと入る。紺屋町と古船場町の堺に
菅原神社(といっても古船場ですが)がある。『無法松の一生』の富島松五郎は、
古船場に住んでいた。
梅子(入ったことがある)を右手に、カクウチの平尾酒店(入ったことはない)を
左手に歩く。おじいちゃんが、小2と小4くらいの男の子たちを連れて、左から
右へ、北から南へと僕の前を横切る。
「この辺りは、大人がお酒のみよう場所よ・・・」そんな台詞が聞こえてきた。
さらに東へ。道路を渡り、cafe あらら を見つける。偶然、その先に、ぎょらん亭
の紺屋町店を見つけてしまう(とんこつラーメンに関しては、僕の中では、一番の
お店だ。といっても、とんこつ詳しいわけではないですが)。
しかし、cafe あらら に入る。オープンカフェマンスのお店で、最東端に位置する
お店だ。そのカフェマップの中で、そのお店のカレーが紹介されていたからだ。
美人ママのつくるオリジナルカレー、そういうコピーがついていた。
「ビール冷えてます」というのぼりが出ていたので、入って、ビールをたのむと
冷蔵庫が壊れているということだった。残念。
カレーは食べた。巨大ホットドッグの後は、カレーだ。なかなかおいしかった。
分量も多かった。ただ、辛いカレーが好きな僕にはちょっと辛さが物足りなかった。
まだまだ昼が続いていた。
人通りの少ない紺屋町は、欠伸をしながらほわーんとしていた。
東京の人形町の裏通り辺り(イメージ)の感じと似ていた。
旦過へと戻り、パレットで、キャッツテールを買った。西インド諸島原産らしい。
よく来たね、遠くから。

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2009/10/27
10月は、小倉では、一部の地域とお店で、オープンカフェマンスという
イベントが開催されている。秋の心地よい日差しや空気を楽しもうという
企画だ。週末の臨時のオープンカフェと、協賛店のイベントだ。
今年が2回目らしい。よくいくTully's もそのイベントに協賛している。
もっとよく行く、プロントともそうだ。協賛店のほとんどは、オープンカフェ
ではない(まあ、許してあげてください)
土曜日。
眼科へと行った後(定期的に眼科へと行く必要があるのだ)、西小倉へと
行った。sun dog へと行くのは、3回目だった。極選プレミアム・サンドッグ
(620円)を食べた。ソーセージは、世界ハム・ソーセージの品評会suffaで、
連続金賞を受賞した「豊前みやこハム」の特大フランク100gだ。
そして、自家製ジンジャエール(380円)を買った。そのお店も、オープン
カフェマンスに参加している。店内でその大きなホットドッグを齧った。
外は薄っすらとした雲に覆われていたが、太陽の光は、その薄いカーテンの
ような雲を通り抜けて、小倉北区の室町あたりに降りていた。
サンドッグを出て、あらた酒店の位置を確認する。JR貨物の光さんに教えて
もらったお店だ。もの凄く、安い値段でお酒を出しているところだ。しかし、
きっと飽きてしまうかもしれない。おいしい食べ物と、安価で良質なお酒に
追加して大事なものは、その店に集うお客さんと、、勿論、カウンターの
向こう側にいる店員さんなのだ。いわずもがな。
国道3号線を南へ。小倉城を左に見ながら歩く。右に見えるのが、小倉警察署。
向かい側が、松本清張博物館だ。まだ行ったことがない。
その先を左に折れて、勝山公園へ。小鳥のさえずりが聞こえる(おでんで、鯨の
さえずりというのは、鯨の舌のことだったと思う)。今は、伊豆高原でペンション
を経営している元同僚の夫婦がいる。2人共、僕の同僚だった。2人共、ピュアな
ハートの持ち主で、「素直」(とっいっても、それぞれに、いい意味での「癖」
はあるのだけれど)であるというシンプルなことが、彼らの共通点だ。
だから、東から、西から、昔の同僚が次々へとやって来る。人は、素直な心の
そばにいると落ち着くのだ。彼らが、立ち上げているブログに、ペンションの
外で、死んでいる鶯を見つけたとあった。2人は、その鶯のためにお墓をつくって
あげた。そんなことがブログに出ていた。
犬同伴可能な、ハッピーチッピー(彼らは、小さなちわわを飼っている)という
宿泊場です。
勝山公園を右手に見ながら、橋まで歩く。紫川の両側を「渡す」し合う箇所には
いくつもの橋がかかっている。その白い橋は、太陽の橋だ。それぞれの橋には
名前がついている。一番北に位置するのが、常盤橋だ。
その太陽の橋には、7体のオブジェがある。僕は個人的に7体のことを、マカロニ
ちゃんと言っている。
太陽の橋の西から、太陽の橋の東へ。クエストへと入って、新潮文庫の棚で、
織田作之介の本を探す。そこにもなかった。『夫婦善哉』だ。最近、その続編
が発見されたらしい。織田作之助は、よく別府へと行っていたようだ。
難波の自由軒では、「織田作之助好み」というようなコピーがついている。
なぞのカレーだ(本当においしいのか、何回食べてもわからん)
ということで(どういうこと?)、今日はここまで。
おまけ)HAPPY CHIPPY http://plaza.rakuten.co.jp/happychippy/diary/200910220000/
わんちゃんも泊まれるぞなもし、の宿泊場。ペンションでしょうか。
経営者は、笑顔の素敵な2人です(今度、広告料を請求しとこっと)。
伊豆高原、静岡県です。

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2009/10/23
昨日 悲別で
という倉本聡さん脚本のドラマがあった。1980年代のことだ。
北海道の悲別(かなしべつ)という架空の街から東京へと上京した
(因みに、日本どこからでも東京へ向かうのは、上りだ。なんて
中央集権的なのだ。逆は勿論、下りだ)若者たちの物語で、
「22歳の別れ」がテーマ曲になっていた。タップダンサーの
主人公は、一時期、とても人気があった。今は、どこへと行ってしまった
のだろう。今でも、タップを踏んでいるのだろうか。
昨日、カクウチスタイルありありで
2人のBRITISH に出会った。NATALIE とDAN の2人で、ケンブリッジから
やって来た2人は、北九州で、日本語を勉強していた。専攻は、FILM だと
言っていた。
好きな映画の話になり、僕が、TAXI DRIVER だと言うと、とても驚いていた。
3人でビールを飲みながら、僕は、白波を飲みながら、話をした。
なかなか楽しかった。日本映画のドキュメンタリーを教えて欲しいと言われた
ので、携帯のアドレスを聞いた。
日本のドキュメンタリー、そう言われると難しい気もする。
YASUKUNI やHIROSHIMA は、日本人によるドキュメンタリーではないからだ。
2人共、頭が切れ、それで、とてもオープンマインドだった。そこにいるお客さん
とすぐに親しくなれるようだった。
2人共、もの凄く背が高かった。
その日は、ジムには行かないで、仕事の後に、竹屋で、さんまの棒寿司と
もつ鍋を食べた。そして、カクウチスタイル ありありで に行ったとこ
ろ、そこで、2人に出会ったのだ。
山ほど、話続けているうちに、日付を超えてしまった。
彼らは、日本へとやって来て、まだ数ヶ月と言っていた。なんで、みんな
私たちのことをジロジロと見るのと言っていたので、小さな赤ちゃんを見ると
みんなじっと見て、笑いかけるだろ、それと一緒。ただ、君たちに笑いかけない
だけだよ、と説明すると、そうか、わかったと言っていた。
2人の日本での滞在が、実りある楽しいものになるといいと思う。
僕だけ先に帰った。
TAXI DRIVER は、数年前の自由化によって増えたタクシーの台数に文句を
言っていた。無口なロバート・デ・ニーロのタクシー・ドライバーとは
異なっていたし、トム・スコットのサックスホーンのテーマも聞こえなかった。
そう、それでいいのだ。
カクウチスタイルありありで 少し飲みすぎた夜の次の日の朝、
ソルマックを飲み、ブレスケアをがりがりと齧った。
昼食には、創業30年の「藤王」に行って、中華そばと焼き飯のセットを
たのんだ。シンプルな中華そばが、胃に優しかった。
本格的な中華そば、鶏がらスープにちじれ麺だ。
ある同僚が、先日の会議に、もの凄く色あせた古い鞄でやって来ていた。
「おやじのなんですよね」と、少し照れながら、その40歳くらいの同僚は
言った。おやじさんが使っていたか鞄をその息子が使う。
とても素敵なことだ。
もう命がなくなっている皮であっても、そこに人の思いが宿っていき、
また生命を吹き返すのだろう。
皮は生き物、呼吸をしている。
そう、僕たちが今呼吸をしているように。
昨日、深呼吸しましたか?
あなたのお気に入りの場所で。

1
2009/10/21
オリオン座の流星群を見たからと言って、もの凄く好きな人が、突然、明日に
なって、「あなたのことが大好きでした」なんて告白してくることもないし、
午前7時に「すみません、フェデラルエクスプレスですが、○○さんに1万ドルの
お金が届いています」なんて、宅急便が届いたり、昼のランチの時間に、ケプラーの
第13法則(あるすぎやろ)を突然発見したりすることもない。
しかし、今も、日本中のたくさんの人たちが、枕にしっかりと頭を埋め、
non-rem 睡眠に入り込んでいる時間であっても、あと1時間10分と思いながら、
何度も繰り返される「酔っ払いのたわごと」に付き合っていなければいけない仕事人
も、道路で、交通整理をしている人も、明日のプレゼンテーションの準備をしている
人も、1年後のテストに向けて日本史を勉強している人も、ほんのちょっと、星が
見えるところに行って、両手で回りの光を遮って、じっと空を見ていると、ごく普通
にそこにある星のほかに、その囲った両手の円の中で、ちらちらと輝くものに
目が慣れてくるはずだ。よく映画で出てくるような、流れ星ではなく、ちらちらと
ちかちか輝くのだ。shooting stars 素敵な英語だ。一瞬の星。
空を見ることで、ほんのちょっと見ることで、空には星が浮かんでいた、いつも
そこに星があったということを「思い出す」だけでも、いい機会になるのでは
ないでしょうか。
空は、そこにあり(ずっと昔からね)、
星もそこにいた(ずっと昔からね)、
そんな「意味のないことを」「思い出す」のも大事なんだと、思うんだよね。
だから、僕は、今日、カクウチありありで で、森伊蔵を飲んだ。
大したことなかった(ごめんなさい)。
だから、白波を口直しに飲んだ(ごめんなさい)。
普通の中にこそ、真実があるのかもしれない(多分)。
普通じゃないもの中には、神と悪魔が宿っているのだ(広辞苑に書いてあった?)
だから、普通の中で、輝きを見つけ、心を「笑わせる」ことが大事なのだ。
笑え、笑え。
ですよね、ルイスおじさん。
LOOK UP , IT'S ON YOUR HEAD, REALLY.

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