1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2008/12/31
(続き)
12月28日。
GO WEST
(PET SHOP BOYS ではない)
北緯34度14分、東経135度12分。
神戸。
僕が、小学生と中学生と高校生と大学生を過ごした西宮は、
神戸と大阪の中間に位置して、西にかの有名な芦屋市(村上春樹
は芦屋出身だ)、東に尼崎市に挟まれている。
大学以外はずっと地元の公立学校に通っていたので、神戸や大阪へ
行くのは、ちょっとしたイベントだった。といっても、電車で
15分くらいの距離だけれど(関西がものすごく短い距離でコンパクト
にまとまっているということを実感したのは、横浜に長く住んでの
ことだった)。
中学生の頃、何人かの友人で月に1度くらい、映画を神戸三宮へと
見に行くのが、その頃の贅沢なイベントだった。映画を見た後、
トワロードを南下して、マクドナルドでフィレオフィッシュ(その
頃のタルタルソースは、絶対、今よりおいしかった)を食べ、フレンチ
フライを食べながら、西へと向かい、元町の大丸の屋上でゲームを
して過ごした。勿論、コンピューターゲームなどない頃だ。
ピンボールなどが主体だった(そのうち、『1973年のピンボール』
のピンボールってボーリングかなんかですかという人が出てくると
思う。村上春樹が、ノーベル文学賞を受賞する頃のことだ)。
そんな友人のうちのひとり、栗林君は、2浪をした後、大阪大学へと
入学し、柔道の練習中に脳の血管が切れて、亡くなってしまった。
僕がまだ20代前半くらいのことだ。葬儀の日、久しぶりに中学時代の
友人(僕が通っていた大社中学の生徒は、県立北高校か、市立西宮
高校に分かれていた。僕は、市立西宮高校だった)と会った。
遺影の微笑む栗林君の姿を見て、ずっと泣きっぱなしだった。
今頃、天国でちゃんと年を重ねているのだろうか。
元町の立喰本舗へと寄る。明石や淡路島で獲れたあなごを
食べるためだ。立ち飲みは、小倉では「角うち・カクウチ」
と呼ぶが、関西では聞いたこともない。最近は、イタリアン
を出す立ち飲み屋さんも増えて、立ち飲み屋さんもきれいに
なったお店が多い。バックには、80年代のポップスが流れて
いた。U2が流れ、カルチャー・クラブが流れ、ストリート・
オブ・ファイヤーのテーマが流れていた。勿論、ダイアン・
レインは歌っていない。
本神戸肉 森谷商店 とある、お肉屋さんの前には、いつも
のとおり、行列ができていた。店頭でコロッケを売っている
のだ。いつも行列ができているが、それほどおいしいとは
思わない。きっと、そのお店の名前と口コミの誤解と行列
のせいだと思う。
そのお肉屋さんの近くにあるJAM JAMに入る。
地下1Fへと降りていく。ジャズ喫茶だ。
物凄く、広いスペースに、大きなスピーカーが置いてある。
神戸では、高架下にある茶房(JAVA)にもよく行っていた。
そちらは、ずっとこじんまりしている。
スピーカーなどに詳しいわけではないけれど、横浜に住んでいた
時から、よく桜木町の野毛の「ちぐさ」(もうなくなってしまった。
ジャズ喫茶ファンの間では、メッカのような場所だ)や「ダウン・
ビート」や「ドルフィー」や「ファースト」に行っていた。
「ちぐさ」で、キース・ジャレットの「ケルンコンサート」を聴く
のが好きだった。
西宮北口にも「コーナー・ポケット」というジャズ喫茶がある。
JBLパラゴンでレコードやCDを流している。その存在を知った
のは、小倉へと転勤になる数ヶ月前だった。数回、通って、
そこでも、キース・ジャレットの「ケルンコンサート」をかけて
もらった。音がクリアーだった。
JAM JAM で偶然、映画のチラシを見つけた。インディペンデント映画の
ジョン・カサベティス監督の娘さんの監督作品だった。
『ブロークン・イングリッシュ』、ゾエ・カサベティス。
お兄さんは、ニック・カサベティスで、『シーズ・ソー・ラブリー』
(ショーン・ペンがはまり役でした)の監督だ。
早速、JAM JAMのトイレでその映画を上映しているシネ・リーブル神戸
に電話をしてみたら、時間がちょうど合ったので、映画観へと向かった。
30代のニューヨークに住む独身女性の物語だった。『THE SEX AND THE CITY』
のanother woman's story in New York という感じで、おもしろかった。
フランシス・フォード・コッポラの娘のソフィア・コッポラとは友人らしい。
映画館を出た後、大丸5Fのメンズコーナーで、バーゲンで安くなった
ネクタイを買った(特に、品揃えがものすごく多いというわけでは、
ないけれど、そこに行けば、結構、気に入ったネクタイを見つける
ことができた)。そのデパートの屋上で、僕たちがピンボールマシーン
で遊んでいたのが30年以上も前だということが、ちょっと不思議だった。
GO BACK TO WEST
梅田の「たこ梅」でおでんを食べる。
店舗は違うけれど、開高健もよく寄っていた店らしい。福島の「花くじら」
の次くらいにおいしいおでんを出すお店だ。平日も祝日も、いつも混み合っている。
小倉でのおでんのお気に入りのお店は「お多幸」というところだ。
銀座がオリジナルらしい。そこで出てくる熱燗は、西宮の辰馬酒造のものだった(僕が通っていた、大社小学校にその酒造所の息子が通っていた。お父さんは、
西宮市長だったこともあると思う。1995年に阪神大震災が起こるずっと前の
ことで、日清食品のカップヌードルやソニーのウォークマンが出始めた
頃のことだった)。
日本でイタリア料理店を経営するあるシェフが、あるイタリア人のシェフを
おでん屋さんに連れて行ったらしい。
そこで、そのイタリア人のシェフは言ったそうだ。
「こんなにうまいものがあるのに、なぜ、わざわざイタリア料理をつくる
んだ」
その日本人のシェフは、「そうだね」と言いながら、ただ笑うしかなかった
らしい。
ということで、本年もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
暖かくして、よいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いします。
ということで、誰でもできるクリック募金
http://www.dff.jp/
追伸)本年最後に読んだ本。『起こることはすべて正しい』勝間 和代
『情熱大陸』に出演する前は、ただのがちがちのプラグマティスト
かと思ったら、ちゃんと、よりよい社会をつるためにという目標を
持って、Chabo (Chabo に登録されている本が売れると、その本の
印税の20%が世界中の難民や被災民の教育支援や自立支援に使われる
というもの)などを運営したりもして、きっと、来年もガンガンと
活躍する人です。

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2008/12/29
06年9月10日にジムでアキレス腱を切ってほぼ3ヶ月。
1ヶ月半くらいのギブス生活とその後の装具生活を脱して
約1週間。出張や研修などをなんとかこなしていった。
ごく普通に歩けることの素晴らしさを実感している。
パラオリンピックの日本の短距離のある女性スプリンターの選手の紹介があった。
高校から運動を続けながら(アスリートとしては、国体に出るなど
かなり活躍していた女性だったと思う)、建設会社に就職して、工事現
場で事故に遭い、脚を切断せざるを得なくなった女性についての紹介だった。
アキレス腱の断裂は、基本的には数ヶ月はかかるが、手術をするにし
ても、保存療法(自然治癒、最近はこちらの方が主流らしい)で治すにしても、
ちゃんとゴール(治癒する期間)が見えるものだ。それでも、仕事のこと
やプライベートのことなど様々なことを考え、暗澹たる気持ちになったもの
だ。ましてや、残りの生涯をずっとその状態で過ごさなければならない人
がたくさんいることを考えると、その人たちの気持ちが部分的にせよ、
わかるようになった。
だから、ごく普通に歩けることは、ありがたいことなのだ。
会社関係の飲み会があり、家へと帰る前に、天王寺、難波へと行った。
その日は遅くなったので、難波の御堂筋ホテルというところ宿泊した。
天然温泉があるホテルだった。難波のこんな都心でも、どこまでも掘って
いけば、温泉にあたるのだろう。「ぼてぢゅう難波温泉」というらしく、
各部屋にもその温泉が流れるようになっているようだった。
単純泉(箱根や伊豆の温泉も単純温泉が多かった。盛岡や新潟や秋田
に行くと、硫黄分が含まれる温泉が増えるような気がする)だった。
大浴場は広く、なんとなくお湯がやわらかい感じがした。
難波で勤務していた時によく行っていたRock Bar Merry Makerは休み
だった。
ホテルのテレビで『中田英寿 ドイツへの道』という番組流れていた。
Sunny Side Up(中田英寿のサッカー以外の活動をマネージメントする会社だ)
制作のものだった。2007年のものだ。
02年6月18日の宮城スタジアムでの日本代表対トルコ代表の試合から始まり
ジーコ監督になって初めての試合の02年10月16日の国立競技場でのジャマイカ
戦、そして時間が流れ、06年5月18日の福島県Jビレッジでの合宿初日、
06年5月27日のボンでの合宿初日、06年5月30日のドイツレバークセン
でのドイツとの試合、06年6月12日、カイザースラウテルンでのオーストラリア戦
、06年6月18日のニュルンベルクでのクロアチア戦、06年6月22日のドルムント
でのブラジル戦へと続く。途中に、中田英寿自身の過去のインタビューを交え
ながら、構成されていた。中田選手が、日本代表での自分のポジショニング
と日本代表について語っていた。ブラジル戦が終了し、3敗で、予選敗退が
決定し、ピッチに寝転ぶ中田選手に、ブラジル代表だったアドリアーノ
(中田選手とは、パルマでチームメイトだったのだ)が声をかけるシーン
が印象的だった。ブラジルはポルトガル語なので、アドリアーノと中田
選手は、イタリア語で声を掛けたのだろう。イタリア語とスペイン語と
ポルトガル語は親戚みたいなものなので、それぞれの言うことはわかる
らしい。ジーコ監督と中田選手もイタリア語で話をしていたらしい
(ジーコ監督もセリエA でプレーをしていたことがある)。
GO NORTH
梅田の地下街でインディアンカレーを食べた。
インディアンカレーは、口当たりは甘いが、あとから辛くなる
カレーだ。大阪に数店舗と東京に1店舗だけある。
関西のカレー好きの間では、結構有名なお店だ。
個人的には、横浜のアルペンジローに次いで、2番目くらいの
カレーだ。但し、1回だけでは、なかなか味の本質を感覚的に
捕らえることができないので、数回通う必要があると思う。
同じフロアーの成城石井(関東資本です。成城石井を関西の
色々なところで見かけるようになったのは驚きです。阪急電車
の夙川駅の構内で店舗展開をしていたりします)のワインの試飲
(グラス400円とか500円とか800円で好きなワインを飲ませてくれ
るカウンター)コーナーへと行って、カレーの辛さを白ワインで
洗い流そうと思ったが、まだ開いてなかった。午後3時からという
ことだった。そうか、まだ昼日中だったのだ。
GO WEST
阪急電車に乗って西宮北口へと向かう。『阪急電車』という本は、
阪急宝塚線を舞台にした小説だ。なかなか、おもしろかった。
スターバックスの BOOK FOR TWO(古本を回収して、その古本を
販売した収益で、目の不自由な人たちに点字の本をつくるという
キャンペーン)というキャンペーンで、小倉のスターバックスに
持参した23冊の本の中に、その『阪急電車』も入っていた。
電車の中で、産経新聞を読んだ。イスラエルが、パレスチナ自治
区ガザ地区への爆撃が1面に載っていた。原理主組織ハマスを
狙っての爆撃ということだ。300人近くが死亡したらしい。
OBAMA PRESIDENT-ELECT は、どう対応をするのだろう。
中東でのイスラエルとアメリカとフランスの関係は複雑だ。
フランスもイラクに核開発の援助をしながら、イスラエルにも
援助をしていた。1979年のイラン革命で、パーレビ国王が追放
され、さらに中東での各国間での環境が変わった。
阪急電車の中で、他にも新聞を読んでいた男の人はたくさん
いたが、ほとんどが、競馬新聞だった。有馬記念だ。
競馬はやったことがないけれど、はまり込んだら、きっと
抜け出れなくなるかもしれない。中には、馬が好きだという
人も多い。大学生時の友人は、馬が走る姿を見にいくと言っていた。
馬券は買わないらしい。
まあ、JRA は多額の利益を出いそうだし、あれだけメジャーな
タレントを使ってテレビでコマーシャルをしているのだから、それ
だけ社会的にも認知されているということなのだろう。
小倉競馬場、行ってみようかな(今、住んでいるところからモノレール
で2駅のところに競馬場がある。一駅先には競輪場がある。その競輪場
で11月にダライ・ラマが講演に来ていた)と思った。
有馬記念は、千葉の中山競馬場で行われる(大阪の有馬ではありません、
念のために)。
サイバー・エージェントの藤田社長が、1500万円の賞金を獲得した
らしい。有馬記念で。
西宮北口で降りる。
阪急西宮ガーデンは、268店舗が入る西日本最大のショッピング
モールらしい。西宮球場の跡地に出来たものだ。
西宮球場には、2度くらいしか行ったことがない。小学校2年生から
大学4年生(関西では、4回生といいますね)までの間でのことだ。
西宮球場は、阪急ブレーブスの本拠地だった。
2回のうち、1回は、高校生の時だった。アメリカから大リーグの
オールスターがやって来た時のことだった。スティーブ・ガービー
やニークロやピート・ローズ(超人ハルクを思い出す)やデーブ・
パーカーなどがいた。
そのメジャーリーガーの相手が、全日本選抜だった。
ロッテの村田投手が、フォークボールで、三振をいくつもとった
のを覚えている。
平日だったの、友人3人と6時間目の化学の時間を抜け出して、
西宮球場に駆けつけた(ごめんなさい、化学の伊藤先生)。
阪急デパートに、イズミヤが入り、東京でも馴染みのブランド
が軒を並べる。フードコートもあり、佐世保バーガーなんかも
入っている。
TOHO シネマも入っている。少し小型の横浜のランドマークプラザ
のようだった。果たして、収益を上げ続けることが出来るのだろうか。
といっても、テナントビジネスは、家賃収入が固定で入ってくるので、
最終的な収益は、それぞれの店子の問題になるのだけれど。
西武セゾングループのパルコがあれだけ大きくなったのも、
「箱」を提供したからだ。魅力的なインショップがたくさん入れば、
集客力はアップする。
西宮球場は、競輪場も兼ねていた。
阪急西宮ガーデンズの場所に、西宮球場があったとは、全く
想像もできなかった。

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2008/12/26
26日は、会社納めのところも多いかもしれない。
しかし、僕は、もう冬休みの中にいる。本日から4日
までの休みだ。
Thanks God It's Friday という表現があるが、僕の
場合は、double meaningの金曜日だ。
朝、起きて、書き残していた年賀状を書く。
いつものとおり、バックにクロスFM(北九州のFM
STATION)を流す。そのFM局は、エコフレンドリーな
エネルギーで運用されている。
早く投函したほうが、昼の集荷に間に合い、元旦に
ちゃんと着く可能性が高くなる。
グローバー・オールのダッフルコートを着る。
毛布のように暖かい(ダッフルコートは、元々
イギリス軍が作った軍用のコートだ。ピーコート
も、デザートブーツも軍用だ。軍用は、機能的な
のだ)。しかし、ダッフル・コートのイメージは、
予備校生という感じだ。『1973年のピンボール』
で主人校が、ゲームセンターで、ピンボールを
していたときに、ダッフル・コートを着込んでいた
のを思い出す。世代的に、村上春樹もダッフル・コート
が好きだったと思う。村上龍は、20代の頃に、
ダッフル。コートなんて着てなさそうだけれど。
年賀状を無事投函し、本屋さんで本を買い、
旦過市場へと向かう。
旦過市場近くの昭和館という映画館の向かい側にある
「東京生そば万作」に入る。
午後1時20分前。テレビでは、連続テレビドラマが
流れている。NHKだ。双子の主人公が出ているドラマだ。
あまり、視聴率が芳しくないということを何かの記事で
読んだことがある。
そばをたのみ、熱燗をたのんだが、熱燗がなかった。
海外へ行ったとき、結構、昼間から飲んでいた。
別に酔っ払うほどではなく(勿論、夏はビールが中心だけれど)
、軽くという程度だ。
ベネチアへと行ったときも、マルコ広場へ
と向かう途中の地元の「立ち飲み屋」さん風の店に寄って、
午前中から白ワインを飲んでいた。
Vino blanca,por favor.
スペイン語とイタリア語とポルトガル語は親戚みたいなもの
なので、ちゃんと、白ワインがグラスで出てくる。
観光局は他にはいない。周りには地元で働く商店のおやじさん
という感じの人ばかりだ。1杯200円くらいの白ワイン。
きりっと冷えていて、おいしかった。
平日の昼下がりにお酒を飲むことができるのは、お休みの
特権なのだ。
そば屋さんといえば、熱燗なのだけれど(東京スタイル?)
、冷酒しかなかったので、冷酒をたのんだ。180mlの
広島のお酒が出てきた。酔〜という名前だった。
買ったばかりの『竹中式マトリックス勉強法』竹中平蔵を
開いた。
太陽が、街を照らし、白い雲が浮かんでいる。冷たい風が
塵を飛ばし、空気が澄んでいる。
夜、6時から知り合いと屋台のフレンチへと行く。
平和通りに面していて、韓国の屋台のようにビニール
がはってある。オープンなスペースが、分厚いビニール
で覆われている。しかし、味は確かで、もの凄くおいしい。
シェフの梅崎さんは、結構な腕で、関係者もたくさん
くる。5月にその店を開いたばかりだが、12月で
閉じてしまうらしい。門司のホテルのレストランで
働いた後、福岡の大きなホテルのレストランで料理長
として働くらしい。
おいしいものを食べて、飲んだくれようと思う。
Thanks God it's Friday.
バックで、本屋さんでかったばかりのCDのインタビュー
が流れている。昨年はよく聞いた、deep voice の声だ。
アル・ゴアとボーノのインタビューだ。
アル・ゴアとハーバードの寮でルーム・シェアをしていた
トミー・リー・ジョーンズは、今頃、鈴木京香と遅いランチ
を食べ、そろそろ屋台の準備をし始めている頃かもしれない。
世界は、ゆっくりと回っている。

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2008/12/25
東経130度53分、北緯33度53分。
北九州市。
小倉北区。
平和通りから小倉城の方向に歩いていく。
角うち(立ち飲み)の店やバーは開いているが、
服屋さんや、雑貨屋さんは、シャッターを閉じている。
イタリアンのお店の向かい側のシャッターの閉じた店の
前で、おばあさんが手を振っていた。
小倉城の方向だ。その視線の先にデパートの井筒屋があって、
その手前の信号にそのおばあさんの娘らしき女性が、信号が
赤から青に変わるのを待っていた。時々、そのおばあさんの
方を振り返っていた。その自転車の後ろには、そのおばあさん
の孫らしい女の子がいた。
その孫の女の子は、おばあちゃんの方は振り向かなかった。
おばあちゃんは、いつまでも小倉城の方向に向かって、手を
振り続けていた。
少し微笑んだけれど、色々な意味で、ちょっと苦かった風景
でもあった。
小倉城へとは向かわずに、右へと折れ、京町の方向へと向かった。
歩く方向から冷たい風が吹いていた。
明日はきっともっと寒くなるだろう。
まだ開いている飲み屋さんから、BGMが無造作に冬の通りにころがって
きた。
曲は、Eagles の Please Come Home For Christmas だ。
歌っているのは、John Bon Jovi だった。
そして僕は、また角を曲がり、バーへと向かった。
ちょっとした苦味を、苦味で洗い流すために。

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2008/12/24
23日の休日は、仕事だった。
子どもたちに英語を教える仕事関係で働いている。
23日のイベントは、会館を使っての発表会だった。
幼児と小学生低学年、小学校高学年の2部制で行われた。
にわかサンタのカッコをして、ヘルプをして挨拶をして、
コメントをした。
よくこういったイベントは、数年前までは行っていた。
久しぶりに行ってみて、子どもたちの出来に、驚いた。
薄い英語の絵本があるのだけれど、それをすいすいと
読んでいた。低学年も高学年も1年目の生徒さんも、
4年目の生徒さんも。
現在の中学の検定教科書(ニューホライズンとかニュー
クラウンとかですね)の3年間の分量をペーパーバック
に換算すると、約19ページにしかならない。
日本の公立中高の6年間の英語授業数は約1000時間
と言われている。
日本の英語教育での英語との接触量が圧倒的に少ないのだ。
まあ、日常的に使う機会がないということが正しいの
かもしれない。言葉なのに、英語を勉強するときだけに
しか、触れないということもある。
高校生の指導要領案が発表された。
英語は、基本的には英語の授業は、英語で行いなさい、
という基本案が出されている。
自分が通っていた高校の時の英語の先生を思い浮かべた。
吉田先生は大丈夫だけれど、松尾先生は、だめでしょ、
だめだめ、きっと。なんて思った。
自分の仕事がどういうところに成果となって現れている
のか。エンドユーザーにどう使われているのか、
そんなことを確認することは、大事なことで、実は、何気ない
ことを目にしたりすることで、またやる気になったりするの
だと思う。

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