1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2008/11/22
バーのカウンターや木の扉を押す時(引く時)、日常の世界から
少し違った線を越えることになる。バーの入り口を抜けるのは、
通過儀礼の一種なのだ。
アルコールの萌芽と音楽とお客さんの会話が溶け込んだ空気が、
外にゆっくりと流れてくる。その流れに包まれ、自分のお気に入りの
場所へと腰掛ける。
9月10日にアキレス腱を断裂して、久しぶりに、よく行っていたバー
に寄った。松葉杖1本で入っていた。Northern Crown 19M 。
冬になり、空気が澄み、星が見える時期になってきたから。
そう、『コンタクト』なのだ。
カウンターには、すいかといちごとざくろが並んでいた。
少しずつ、アキレス腱の状態がよくなり、それまでの「日常」
が戻りつつある。それが嬉しい。
今が、再断裂注意の時期であるらしい。
また「非日常」への扉を押さないように注意しないと。

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2008/11/20
山口県でも、福岡県でも、雪が降ったらしい。
北九州では・・・という感じだけれど、僕が気づかなかっただけ
なのかもしれない。
北九州は、それ程寒くはない。そう思っていた。体感的には、ずっと
20年近く住んだ関東の寒さが記憶に残っているからだ(勿論、東北や
北関東や北海道の寒さにはかなわないけれど)。
ここ2年間すんだ関西の記憶は、ずっとその前の関東での記憶に押し消される。
しかし、昨日からの寒さは、風は、結構、本格的に冷たい。
昨日は、アキレス腱を切って久しぶりに、外へと飲みに言った。
関東から客人が来たからだ。昨日は、振り替え休日だったので、5時くらいから
合流して飲み始めた。カクテキスタイル(立ち飲みっすね)で飲み、ノーザン
クラウンへと行こうとしたら、閉まっていたので、旦過まで行ったが、そこも
閉まっていた(そう、平日の6時前なのだ).
ぐるっと回って、SPAIN BAR O に行った。
2ヶ月ぶりだった。
松葉杖の姿に、どうしたんですかという質問。ここ2ヶ月、200回以上質問
されてきた。本部(大阪)での研修で、会議で、応えてきたように、「アキレス腱
を切ってしまいまして」「ジムで」と繰り返した。
SPAIN BAR O で客人は、その日の夜の最終の羽田行きの黒い飛行機に乗るために
7時30分くらいに出て行った。
カウンターに座って、グラスを傾けるのは、やはり、素敵だった。
SPAIN BAR O の後に、太陽軒で塩ラーメンを食べ、南京バーへと寄った。
カタールとの試合が始まる。午前1時20分。ワールドカップ予選だ。
がんばれ、日本。
たくさんの人が、ライブで、この試合を見ているのだろう。

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2008/11/18
今日は休日出勤の振り替えで、のんびりと寝ようと
思っていたが、5時くらいに目が覚め、また眠りの中に
すぐに戻ることができなかった。
ボルビック(もう、アフリカに井戸をのキャンペーンは
終わりましたが、いまだにボルビックです)の水を飲み、
デジタル・オーディオプレイヤーのイヤホンを耳に入れた。
カレン・カーペンターの声を子守唄代わりに、まだ眠り込む
つもりだったが、さらに目が覚めてしまった。
仕方なしに、ビートルズをかけてみた。
そのデジタル・オーディオプレイヤーには、リボルバーや
ラバー・ソールやサージェント・・やアビー・ロードや
レット・イット・ビーやマジカル・ミステリー・ツアーが
入っていた。
とりあえず、アビー・ロードをかけた。
ビートルズは、中学の頃にずっと聞いていた。回りにも
たくさんのビートルズ好きがいた。そのときには、もうすでに
彼らは解散して、ソロ活動を行っていた。中学のときに、
ヒットチャートで流れていたのは、カーペンターズや、
イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』やコモドアーズの
『永遠の人に捧げる歌』(THREE TIMES A LADY ですね)や
ELO のテレフォン・ラインや、オリビア・ニュートンジョンや
プレイヤーのBABY COME BACK だったりした。
そのときには、ビートルズは「過去」だった。
「過去」だったので、僕たちは、ビートルズを俯瞰するように
次々からと聞いていった(歴史の勉強のようなものですね)。
初期・後期。
両耳をデジタルな音が抜けながら、脳に刺激を与えた。
歌詞はほとんど、なんとなく口ずさめるくらいに聞き込んだ曲
ばかり、その歌詞の意味や、バックで重なるひとつひとつの
音が新鮮だった。
アビー・ロードの次は、サージェントペッパーズ・・・を聞き、
レット・イット・ビーを聞いた。後期の傑作作品ばかりの連続
だ。
あらためて、ビートルズの偉大さと深さを知ったような気がした。
僕は、高校生の時から、NHKの英会話のラジオを聞いて、集中的に継続的に
ときから英語を勉強し、自分の英語力の基礎をつくったが、実は、中学生
の頃、何百回と聞いたビートルズが、英語のリズムやストレス、イントネーション
を身につけるのに役立ったのかもしれないと感じた。
レット・イット・ビーのジョージの FOR YOU BLUE のボーカルを聞きながら
眠りの中に入ったみたいだ。
次に目を覚ましたのは、9時だった。
冷たい、冷たい風が街を駆け抜ける朝だった。
また、しっかりと、4人を「聴いて」みようと思う。
残念ながら、そのうち2人は、もういない。

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2008/11/18
City が、更なるリストラを発表した。
35万2千人の人員を30万人にするということだ。
つまり、5万2千人が削減されるということだ。
その5万2千人には、それぞれ家族があって、生活があって
もっと広い「フレームワーク」でいうと、人生がある。
5万2千人には、10数万人の人生が、かかっているのかもしれない。
会社を永遠に存続させることはできない。
会社は常に、何か将来につながるように新しいことを探しだ
さなければいけないのだ。
職を失うこと。
人生が変わること。
最後には自分のことは、やはり自分でつくっていくしかないのだろうか。
ゴールドサックスマンの経営陣7人が、ボーナスを辞退した。
アメリカの経営陣は、首を切られるのも早いが、やはり日本に比べて
もたくさんのものをもらっているようだ。
昨年7人に支払ったお金は、66億円だって。
といっても、ほっとしながら飲むコーヒーや、お気に入りの人と
飲む一杯のビールを飲みながら過ごす時間は、なによりのものだと
思う。

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2008/11/16
市川トミさんが亡くなった。91歳ということだった。
昭和53年(1978年)8月、市川修一さんは、鹿児島吹上浜で
北朝鮮に拉致された。10月20日、拉致されて30年間、生きていれば
54歳になっている。
NHK の『ドキュメント日本の現場』というドキュメント番組で、
市川修一さんの家族を追ったものだ。
その番組の中で、じっと窓の外を眺める市川修一さんの母親の
市川トミさんの姿が切なかった。
自分の出来ることをちゃんと行ってきた。その繰り返される
日常で、一時も修一さんのことは忘れたことはないと、ふと
テレビに漏らすシーンは、とても、とても、痛い。
番組がエンディングになった頃、市川トミさんが本日亡くなった
というテロップが流れていた。
一体、何なんだ、拉致って。
突然、自分の人生がそこで消えるんだよ、それまでの人生が。
消しゴムできれいに消されてように。

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