1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2008/6/13
北九州市小倉加治町というのが、職場の住所だけれど、
その同じ番地のところに、小さな観音堂がある。
近くにお気に入りのタイ料理のお店がある。そのお店での
ランチの帰りに、いつもそこでお参りをする。
小銭を賽銭箱に入れて、両手を合わせて祈りを捧げる。
小さな小さな祈りだ。そう、半径1mの祈りだ。
ボルビックを買うと、アフリカに安全な井戸水をつくる
ことが出来る。昨年もボルビックが行っていたキャンペーンだ。
今年も始まっている。
結構、長い期間行われるキャンペーンだ。
ペットボトルの購入を増やすのはいただけないが、(といっても
僕のペットボトル消費は、結構高い。
それでもこんなキャンペーがあると、どんどんボルビックを買って
しまう。
ボルビック、買いましょう。
祈りをこめて。
http://www.volvic.co.jp/1Lfor10L/index.html

0
2008/6/12
小倉で住み始めたのは(因みに、北九州市小倉という住所表記ですね)、
5月19日からなので、1ヶ月が経とうとしている。
ジムへも10日間くらい行っているから、3日に1回くらいの割合だ。
小倉駅のそば、職場より5分、近いのがとてもいい。
マニュアルどおりなのだけれど、トレーナーが頻繁に声を掛けてくる。
と言っても、結構飲みに言っているので、体重などはそんなに変わらない。
ということで、違う話題。
あまり、漫画は読まなかったけれど、ここ1年間ではまったのは、『スラムダンク』
や『神の雫』や『ブラックジャックによろしく』だ。
そんな漫画は、たまに行くまんが喫茶で読んだりする。
まんが喫茶には、たまにしか行かないが、はじめは、詩のサイトに投稿した
詩のプリントアウトのためだ。今のコンピューターには、プリンターを設置
していない。場所を取り、線だらけになるからだ。
コピーしてテキストファイルで画面上に保存でもすればいいのだけれど、
やはり紙ベースでないと、なんか物足りない。
(その詩のサイトの人たちも、これを読んでいると思いますが、過去
からのやつ、全部プリントアウトしてバインダーにファイルしています。
凄い量でしょ)
漫画に四面を囲まれた空間は、きっと漫画好きにとっては、聖地なの
だろう。コンピューターを使ってゲームをする人もいる。
ワードやエクセルも使える。
ネットカフェで寝泊りする人が数千人いるといわれるが、シャワーも
あるので、寝泊りは出来る。BGMがないので、一種、図書館のような
空気に包まれている。
ネットカフェ=漫画喫茶だ。
その四面に存在する漫画の多様さを見ると、本当に圧倒される。
世界で、MANGA が受け入れられるのがわかるような気がする。
そんななかで、最近、『ドラゴン桜』にはまっている。
倒産寸前の私立高校を立て直すために、その学校から
東大合格者を出そうという物語を実現していく過程の話だ。
ということで、別の話題。
大阪の梅田の紀伊国屋書店では、なんかなあと思いながら
買わなかった『阪急電車』 有川 浩 を買った。
阪急電車の今津線を舞台とした小説で、ベストセラーに
なっていた本だ。
なかなか面白い。もの凄く、懐かしい感じがする。
しかし、そこにあるのは、阪神大震災後の西宮北口だ。
ACATAのことも出ているので、ここ5年以内の話だ。
今、西宮球場の跡地に、阪急デパートが建築されている。
また、あのあたりの風景が変わるのだろう。
『阪急電車』の出版社は、幻冬舎だ。

0
2008/6/9
新旦過(たんが)通りは、旦過の駅から徒歩2分くらいの
ところにあり、結構、小倉でも昭和的な(横浜の野毛的な)
街並みが残る場所だ。
そんなところに数件の食べ物屋とバーが数件かたまっている。
その中のひとつに入った。以前にその地域のあるバーに入った
ことはある。
土曜日に仕事を終えて入ったバーは、「バンビーノ」という
バーだった。いつもその店は一杯だった。
土曜日の夜、日付が変わる頃には、その店には一人だけしか
お客がいなかった。
バーの向こうにいたのは、眼鏡姿の女性で、その後の話で
30歳になったばかりで、子どもが2人いるということが
わかった。
他のお客さんとの会話で、元は美容師で、今でも時々手伝って
いること、3代目の雇われバーオーナーであることがわかった。
その会話の中で、北九州市で、お産をするときに予約が必要で、
順番待ちになるということが信じられないということを言って
いた。
お医者さんの数は地区によっては圧倒的に不足している。
ましてや、産婦人科になりたいという医者は少ないらしい。
「なんかおかしいですよね」
そのバーのカウンターの後ろの気の強そうな女性は、僕に
同意を求めてきた。
小倉の人たちは、初めての客でもどんどん自分の会話に
巻き込もうとるする。
『情熱大陸』は、助産師永原 郁子さんが取り上げられていた。
神戸市で助産院を経営する。何人もの赤ちゃんを世の中に取り上げて
きた人だ。
小学校や中学校で性教育についての講演も行う。
命について語るその言葉はとても重い。
http://www.mbs.jp/jounetsu/

0
2008/6/8
先日も書いたが、小倉の駅には、食堂街があって、
ひまわり通りと呼ばれている。新横浜のラーメン博物館の小型
のようなラーメン屋さんが集まっていたり、リンガーハットが
あったり、居酒屋があったりする。奥にあるのが、小倉食堂と
いうフードコートで、10店舗くらが入っている。どこにでも
よくあるような感じのフードコートで、テレビのモニターからは、
ただ、テレビの番組が流れている。
仕事の後、ビールを飲みながら、そのモニターで流れるバレーボール
を見ていた。日本がオリンピック出場を決めるために勝たなければ
いけない試合で、相手はアルゼンチンだった。
日本のほとんど、反対側に位置する国だ。ウォン・カーウェイの
『ブエノスアイレス』では、ブエノスアイレスは香港の反対側だと
主人公は、モノローグで語る。
最終セットから見始めた。それまでは、NHK BS 「FOOTBALL MUNDEL」
が流れていた。リヒテンシュタインのサッカー事情だった。
勿論、画像だけだ。BGMは、小倉食堂にいる人たちの話し声だ。
最終的には、日本の男子バレーはオリンピックに出場することに
なった。総合で、イタリアに次いで2位になったからだ。3位が
アルゼンチン、4位が韓国だった。1位になるか、アジア圏(オーストラリア
も含む)で1位になるかが条件だった。
日本はその条件を、アルゼンチンに勝利することで得た。
16年ぶりのことらしい。16年前であれば、僕がかろうじて20代だった
頃のことだ。
僕が小学生か、中学生か、高校生だった頃(幅広すぎ)、日本のバレー
ボールは男子も結構強かった。オリンピックは出場するもので、
予選でどうのこうのというレベルではなかったような気がする。
それとも、選出システムが変わったのか。あいまいな記憶のせいなのか。
高校の頃も、大学生の頃も、そして会社に入っても、バレーをやっていた
という人はいて、その人物もなんとなく「バレープレイヤー」(和製英語?)
という雰囲気を漂わせていた。
たぶん、現代では、少子化とサッカープレイヤーやバスケットボールプレイヤー
の増加で、バレーボール人口は減少しているのだと思う。
アスリートの卵は、結局のところ、どんな競技もこなしてしまうのだ。
最終的には、球技は、バネとスタミナと筋力とその体躯のバランスによるもの
だからだ。勿論、メンタル面も重要だけれど。
がんばれ、日本。
そして、話は変わるが、ヒラリー・ロドム・クリントン上院議員が
民主党の大統領候補から withdraw することを表明した。
HPのトップには、ヒラリーからの支持者へのメッセージが映像で
流れるようになっていた。皆さんの支持がなければ、ここまでやって
これませんでした。ありがとうございます。とてもシンプルな内容
だった。一方、これでペンタゴンの大統領執務室の椅子へとまっしぐら
なオバマ・バラク上院議員は、ヒラリーはすばらしかったという
ような長めのスピーチをしていた。
そんなスピーチを部屋でコーヒーを飲みながら見ることが
出来るなんて、なんて時代なのだろう。
その一方で、そんな映像は、コーラと炭酸のお菓子を混ぜて
ペットボトルを爆発させるというようなYOU TUBE の映像と
並列的にならんでいる。そのことが、今の時代の「リアル」って
何なんだということを、思わせる。
オバマ氏は、映像の中で、ブルーのタイを身につけている。
攻撃的な赤ではなく、精神を落ち着かせるブルーだ。
おそらく、コーディネーターがいると思うが、ブルーは、
ヒラリーへの鎮魂の証明だ。
そして、オバマ氏のスピーチは、ヒラリーへのレクイエム
なのだ。
http://my.barackobama.com/page/s/thankyouHRC?source=feature_thankyou?source=feature_thankyou

0
2008/6/6
小倉の駅には、ラーメン屋さんや定食屋さんや居酒屋さんが
集まっているところがある。リンガーハットもある(いくつもの
小倉のちゃんぽんを食べたが、やはりちゃんぽんは長崎だという
ことを実感している)。
その中のフードコートで、ジムへと行く前、エビスの生を飲みながら、
鯖の定食を食べた。
あたりは、なぜかとても昭和な感じで(といっても昭和30年代という
より、なんとなく昭和60年代という感じ)、とてもカジュアルだった。
鯖は大きかった。
備え付けのテレビで流れていたのが、ポール・ポッツだった。
イギリスのオーディションの番組でオペラ歌い(誰もねてはならぬ
という曲ですね)、優勝し、CDを出して、今ではスターになった
元携帯電話のセールスマンだ。
そのオーディションの時のシーンは、YOU TUBE でも何度も流れている。
少し太ったうだつのあがらない風体からは想像も出来ないような
声が出てくる。はじめは、誰も期待しなかった聴衆や審査委員たちが
歌声を聴いて、表情を変えていくのがおもしろい。
今、そのCD「ONE CHANCE」を聴いている。
今は、フィンランドでコンサートらしい。日本にも来日した
(渋谷の文化村だけの公演だけれど)。
CDの中にある「CAVATINA」は、マイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』
にも使用されていた曲で、ある公演で、この曲を歌い始める前に、
「この曲は僕を支え続けてくれた妻に捧げたい曲です」とアナウンスを
していた。
そして、その曲は、SHE WAS BEAUTIFUL と始まる。
http://www.paulpottsuk.com/home

0