1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2007/8/22
大学を卒業してから、ずっと2006年の6月まで横浜に住んで
いた。それまでは、西宮に住んでいたので、実は、甲子園は、特に
高校野球は、阪神電車に乗ってすぐに行くことができる場所だった。
阪急ブレーブスが本拠地の西宮球場の方が近かったけれど。
高校野球の外野は、無料だった。(今でもそうなのだろうか)
外野にも、内野でも、バックネットでも観たことがあるような
気がする。この辺りで朝日新聞をとっていると、必ず、甲子園
球場の高校野球の内野席の指定券をくれたりする。
家族でバックネットでみたことがある。
栃木の作新学院のマウンドには、江川がいて、暴投で負けた試合
の時だった。僕が小学生の頃のことだ。小学生の頃は、軟式の少年
野球のチームに入っていた。
甲子園、決勝戦になった。佐賀県の高校と広島の高校との対決だ。
長崎が勝っていれば、長崎対広島で、おお、今年の旅行をかかわりがある。
これは、シンクロニシティだ。ユングさんと思い込もうとしたのに。
佐賀は、博多から長崎に行くときに通過した。何もないといわれるけれど
たくさんのお米があった。それで、いいと思う。立派だと思う。
決勝戦、あなたが応援するのは、どちらですか。

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2007/8/21
月曜日から会社が始まった。前日に夏休みが終了した。
ずっと伸ばしていた髭を剃り、長袖のシャツにアイロンをかける。
ずっとTシャツや鹿の子編みのポロシャツで過ごしてきた体には、
ちょっとした苦痛だ。
ネクタイは、通勤途中で締めることにする。着るあてものない
ジャケットを腕に掛ける。
着るものも、履くものも、時間の過ごし方も、1日で全く
異なる。
もう、平日は昼間からビールを飲んだりすることができないのだ。
ソファーで本を読みながら、知らないうちに眠っていましたという
時間も無しだ。
仕方ない、夏休みさえない人たちもたくさんいるのだから。
日曜日、『リトル・チルドレン』を観た。今年の2月25日の
第79回アカデミー賞で、3部門にノミネートを受けた作品だ。
(どれも受賞しなかったけれど)意外にたくさんの受賞をした
『リトル・ミス・サンシャイン』を神戸で観たのは、ずっと前の
アカデミー賞が発表される前後くらいだったろうか。
助演男優賞でも、『リトル・ミス・サンシャイン』に出演して
いたアラン・アーキンが受賞した。ドラッグ漬けのおじいちゃんの
役だ。
その助演男優賞の候補になっていたのが、ジャッキー・アル・へイリー
だ。『ヤング・ジェナレーション』という自転車の物語を知っている
人は、結構、ある程度年配の(失礼)かなりの映画通だ。(少し外れた)
その映画にも出演していたが、有名なのは(これまたある年齢以上の人)
『がんばれベアーズ』シリーズの髪の毛さらさらのちょっと涼しい顔の
男前の不良少年役を演じていた。
ちょっとこれを読んで欲しい。
プロダクションノート(上)のところの「ジャッキー・アル・へイリー」
と「見事なカムバックをしたジャッキー・アル・へイリー」の箇所だ。
http://www.little-children.net/
役も役だ。
幼児に対する性的思い込みで前科のついた40半ばの男の役だ。
その姿と「がんばれベアーズ」の頃の姿の違いに驚くが、その
役どころの違いがものすごく象徴的で、人生ってという感じなのだ。
不良少年のケリー・リーク役がそうだ。
http://easyrider3769.hp.infoseek.co.jp/bears/bearssp.html
役作りは圧倒的だ。僕は『リトル・ミス・サンシャイン』も
『リトル・チルドレン』も観たのでわかるが、(ついでに、
『ブラッド・ダイアモンド』も観た。主人公の黒人のジャイモン・
フンスーも助演男優賞にノミネートされていた)演技としては、
ジャッキー・アル・へイリーの大勝だ。
きっと役がリアル過ぎて、演技ではなく、役のためにもらえな
かったのだと思う。
演技をしてみて、やっぱり自分はこれがやりたいと思った。
とても素直な言葉だと思う。
やっぱり、挫折を味わったことがある人は、強くなったり、
優しくなったり、自分に厳しくなったり、誰かを許したり、
するこことができるようになるのだと思う。
『リトル・チルドレン』では、ケイト・ウィンスレットも
主演女優賞の候補にあがっていた。
菊池凛子が、『バベル』で助演女優賞にノミネートされて
いた回ですね。思い出してきましたか、本年のことです。
因みに、フォレスト・ウィッティカーが主演男優賞獲った
って知ってた?
『グッド・モーニング・ベトナム』のロビン・ウイリアムスの
後釜のDJの役で出ていた人ですね。チャーリー・パーカー
(ジャズミュージシャン)を演じた『バード』なんかもあります。
これからのジャッキー・アル・へイリー注目です。

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2007/8/19
いくつもの島が瀬戸内海に浮かんでいた。30分くらいで
フェリーに乗る。高速艇フェリーだ。旅行でフェリーに乗った
ことを思い出す。トルコのイズミールからギリシャのサモス島
(ギリシャとトルコは昔から仲が悪い)へ行った時、プケーット
からピーピー島へ行ったとき、香港からマカオへと行った時、
それらは、1時間くらい距離だったと思う。
長距離ではなく、1時間くらいで海を渡っていくのは心地良い。
瀬戸内海は、どの海よりずっと波が穏やかだ。
そのフェリーに乗っているのは、7人だけだった。
通常は、JRの宮島口まで広島から在来線で行くか、路面電車で
宮島口まで行き、JRのフェリーに乗るほうが、宮島へと行くには
一般的だし、ずっと安い。宮島口からは、10分くらいで到着する。
フェリーの到着口には、たくさんの人がいた。世界遺産を見るために
と、たくさんの外国人もいた。フェリー乗り口に着いて、驚くのは、
鹿がえさを求めてやってくることだ。しかし、島の中を進むと
至るところに鹿がいるのに慣れてくるし、黒くて丸い鹿の糞にも
なれてくる。
宿泊した旅館のご主人が言っていた。
「野生だった鹿のうち何頭かは、人間を見てもなんとも思わなくなり、
逆にえさをねだりにくるようになったのです。奈良公園のように
鹿用のえさを販売しているわけではないので、人間がスナック菓子
を与えたりする。そのせいで糖尿病の鹿が出てきたりしているんで
す。えさを求めて、人家の庭を荒らしたりするんです」
「昔は、犬さえ飼うことは許されてなかったんです。野犬が出てきて
鹿を襲うといけないからです」
「私たちが、鹿を追っ払おうとすると。外から来た人は、かわいそうに
って言うのですが、かわいそうなのはこっちなんですがね」
宮島は、山があり、たくさんの野生動物がいるらしい。そのご主人は、
白いタヌキを見かけるとも言っていた。(白いタヌキは劣勢遺伝らしい)
森の中には、猿や白蛇もいたりするそうだ。
その旅館は、小高い丘の上にあって、窓から厳島神社の一部を見ること
が出来た。
干潮時には、厳島神社の支柱は海から姿を出している。大きな鳥居の
下までいくことができる。満潮時は、勿論、大きな鳥居も海に浮かんでい
るように見える。海に浮かんで見えるようんにちゃんと建築されているという
ことが、驚きだった。波の力を弱めるための建築的な工夫もなされている。
拝観は、午後6時で終了する。日が落ちてからの厳島神社周辺はひっそりと
する。フェリー乗り場までの参道のお店もシャッターを閉め、観光客も
ぐっと減る。フェリーは、午後10時くらいまでは運航している。
夜の海に向き合う厳島神社は宮島を守っているかのようだった。
薄暗い道には、親鹿と小鹿が、並んで座っていたりする。
宮島で鹿の鳴き声をはじめて聞いた。
鹿は、神様の使いとされている。
しかし、そこで暮らし続ける人にとっては、時々、困った存在になる
のかもしれない。
夜、旅館のテレビで『千の風になってドラマスペシャル−はだしのゲン・後編』
を見た。漫画のドラマ化だ。実写の映画も制作されるらしい。
作者の中沢啓治さんは、実体験に基づいてこの漫画を書いている。
今上映されている『ヒロシマ・ナガサキ』(原題 White light / Black Rain)
の中にもインタビューを受ける側として出演している。8月6日には、
そのドキュメンタリーは、4千万人が加入するケーブルテレビで放送された。
「原爆により戦争終結が早まり、米兵士100万人以上とそれ以上の日本人
が助かった」とするアメリカの公式見解に、違った見方を投げかけるもの
だと思う。ジョー・オダネル氏の95年のスミソニアン博物館での企画中止の
理由も、そんな見解からきているのだろう。
人を動かすのは、数字としての事実以上に、具体的な証言、映像、写真、物語
なのだと思う。そういったものは、自分のことや、自分の家族などの自分が
本当に愛するものに置き換えやすいからだ。
写真や映像や物語は部分であり、全体を捉えていないという人がいるかもしれ
ないが、その部分から想像する具体的なイメージが大事なのだ。
自分のことに置き換えてみるというイメージだ。
長崎の原爆資料館には、1873年(明治6)日本で徴兵制が始まった
頃から、日清戦争、日露戦争、韓国併合、辛亥革命、第1次世界大戦、
関東大震災、治安維持法、満州事変、国連脱退、大本営設置、日独伊三国同盟、
太平洋戦争、アメリカの対日石油輸出前全面禁止、ハルノート提示、
真珠湾攻撃という過去からの流れを記載したコーナーもあった。
そういった流れを知っておくことも重要なことだ。
世界で、原子爆弾が落とされた都市は、たった2つしかない。
広島と長崎だ。そして、その2つとも日本にある。
ジョー・オダネル氏の死を知ったのは、8月12日に宮島の珈琲館
というコーヒーショップで読んだ中国新聞の記事だった。
8月9日(現地時間)テネシー州ナッシュビルの病院で死去。85歳。
宮島からJRフェリーに乗り、宮島口から広電に乗った。そのまま、
市街地へと向かい、路面電車になる電車だ。
強い太陽が街を照らしていた。
市街地に入り、たまたまナイトゲームの予定を見かけ、見ることにした。
5位と6位のスワローズとカープのゲームだ。
一塁側自由席の前売りチケットを買い、お好み焼き村へ行き、その後、
京橋川のそばにある牡蠣亭というオープンカフェでビールを飲みながら、
牡蠣のカルパッチョを食べた。
ビールのお代わりをしながら、本を読んだ。
強烈な太陽の日差しが、大きな傘の外に広がっていた。
原爆が投下された日、この京橋川の中にたくさんの人が「熱いよ」といい
ながら飛び込んだのだろうなと思った。
市電が走る音がする。隣の店で小さな女の子がアイスクリームを買う。
その店の先のカフェの店員の男が、暇そうにゆっくりと背伸びをする。
そんなごく普通の素敵な日常が、突然、大きな光と共に切られてしまった
のだ。
傘の外に広がる太陽の光を見ながら、静かな川の水の流れに目をやり、
僕は、ビールのお代わりをした。
-FIN-

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2007/8/18
仕事が仕事なので、夏休み、冬休みに海外へと出かける
同僚は多い。周辺にそういう人が多いと、チェイン・リアクションの
ように、増えていたりする。
ある同僚は、母親を連れてイタリアへ行き、ドイツにいるお兄さんに
会ったらしい。(お兄ちゃん、ドイツで留学中の教授、かっこいい)
なかなか、親孝行だ。その同僚は、英語よりフランス語の習得に力を
入れている。仕事とはあまり関係ないが、その同僚にとっての目標なの
だろう。
ロンドンに行った同僚は、秋の気配でジャケットを着ていたとメールを
してきた。ジャケットですか?
30歳から毎年、夏・冬とどこかに行っていたが、05年の夏のコペン
ハーゲンとストックホルムを最後に(確かに、そのあたりになると
今は、長袖ですね。半そでの人もいますが、少数派です)海外へとは
行っていない。
8月11日。平和記念資料館は、大きな建物だった。長崎の原爆資料館
はどちらかというと、コンパクトにまとまっていた。
何人もの外国人と自分の子どもたちを連れてきたという感じの家族連れも
多かった。
長崎も広島も、62年を経て、きれいな賑やかに都市になり、「原爆」
という形が残っているのは、そういった資料館や爆撃中心地やドーム
になっている。しかし、実は、被爆者の人たちや、家族を失った人たち
の心と体にいつまでもその形跡を残しているのだ。
厳島神社がある宮島へとは、JR宮島口からフェリーに乗って10分
くらいで到着するのだけれど、広島港からフェリーに乗って行った。
平和記念資料館から乗ったタクシーのドライバーが、「目の前に
見える島が似島です。原爆の犠牲者をたくさん埋められているそうで
す。最近、掘り出しているそうです」そう言っていた。
(続く)

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2007/8/17
8月11日。ルートイン福岡という駅前のビジネスホテルには
天然温泉がある。そういえば、秋田に仕事へと行った時、宿泊した
ところも、ルートインで、天然温泉が付いていた。
温泉でなくても大きな湯船で、ほわーっとするのは、とてもリラックス
できる。
その日の朝も博多にも強い太陽が照り付けていた。
ルートインのネットを使って、厳島神社への行き方と宿泊先を
探した。全く行き当たりばったりの旅だ。
広島への目的は、原爆ドームと平和記念資料館を訪ねることと、
厳島神社へと行ってみることだった。テレビの『世界遺産』でも
取り上げられていたし、よく台風が中国地方に近づいてきたりすると
映像で映っていた。海の中に建つ神社なのだ。
世界遺産として登録されたのが、平成8年12月のことだ。
1400年の歴史を持ち、12世紀時に平清盛によって造営され、現在
の平安時代の寝殿造りの基本を形成した。
博多の駅前には、ぽつんと三井住友銀行があった。見渡したところ、
他の都市銀行がすぐには目に入らなかったのは、やはり、三井三池炭鉱
を持っていた三井財閥のホームグランドだからだろうか。
新幹線のチケットは、ネットでとるようにしている。会社の出張の清算
システムが、それで統一されているので、普段でも新幹線のチケットを
取るときも、利用している。チケットが取れた時間がわかるので、動き
やすくなる。
博多から広島の移動はずっと窓の外を見ていた。
広島も暑かった。まずは、ルートインでメモをした厳島神社がある
宮島の旅館に連絡をした。15くらいのホテル・旅館があった。
ネットでみるとどこもいっぱいとなっていたけれど、なんとか
料金が高くなるけれど、部屋を見つけることができた。
駅ビルで、早速、広島風のお好み焼きを食べた。
原爆ドームへは、路面電車で行った。長崎のものより、大きい
やつがあったりした。ドイツで使用されているものをそのまま
使用していたりするみたいだ。そういえば、ミュンヘンに行った
時に見たものと同じような感じだった。
長崎の路面電車は、街のサイズに合わせてこじんまりとしていた。
長崎では100円均一だった路面電車の料金は、広島では、150円
均一になっていた。きっと距離の問題もあるのだろう。
雰囲気ということではないが、05年の夏にコペンハーゲンから
ストックホルムへ行った時の感じだった。コンパクトな街から、大きな
サイズの街へ、そんな感じだ。空気も微妙に違っていた。
原爆ドームは、街の中にあった。すぐそばに、広島市民球場があったの
が意外だった。広島市民球場は、50周年を迎えるらしい。
ドームの姿はおなじみのものだった。
原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により
1915年(大正14年)4月に広島県物産陳列館として市民に親しまれて
いた。
1945年8月6日午前8時15分。米軍B29爆撃機が、人類初の
原子爆弾を投下。原爆は、広島産業奨励館の南東約160メートルの
地点の地上上空約600メートルで炸裂し、建物は全焼、館内にいた
全員が死亡した。広島に落とされたのは、ウラン型原子爆弾で、
長崎に落とされたのは、プルトニュウム型原子爆弾だ。
1945年4月の第1回目標検討委員会では。東京、川崎、横浜、
名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、
熊本、福岡、長崎、佐世保の17都市とされ、5月の第2回の委員会
では、京都、広島、横浜、小倉に絞られた。
8月9日、小倉が焼夷弾のため、見えにくかったので、代わり
に雲の切れ間が見えた長崎に、原爆が落とされた。
どの都市にも可能性があったのだ。そういったことは、なかなか
知られていない。長崎の原爆資料館や、広島の平和記念資料館で
初めてわかる場合が多いのでは、ないだろうか。
自分が住んでいる、住んでいた場所の近くの都市に落ちていた
可能性がある、そんなところに自分の想像力を発揮して、ifという
ことを考えてみるといいのではないかと思う。
ここでの、if は絶対に必要な if なのだ。
(続く)

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