1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2007/7/31
日曜日の夜で、「情熱大陸」もなく、「世界遺産」もなく、
選挙一色の月曜日へ向かう真夜中。
田原さんが出てきて、前原さんと枝野さんが(れんほうさん、あなたは、
完全に、レースクイーン化していますよ)ロジカルに受け答えをして
いた。憲法改正にかんしてのスタンスは、前原さんの場合、安部さんに
近いので微妙だけれど、民主党は、やはり前原さんが引っ張っていく
べきだと思った。
永田議員の事件は、前原さんにとってのアンラッキーだった。
前原さんのポスターは京都でよく見かける。京都は、一種、共産党
の牙城(実際はそうではないのだけれど)的なイメージがあり、
そこ出身の前原さんは、目立つ(どすえ)。
自民党の河野さんも結構、いいぞって感じだ。茅ヶ崎の河原での
茅ヶ崎市のイベントにからんだことがある。子どもたちの
マラソン大会のスポンサーだ。
場所が、相模川の河原だったので、平塚が選挙区の河野さんが、
挨拶をして、子どもたちと一緒に走っていた。
10年近く前のことだ。
世代交代。そんな時期なのかもしれない。
そして、政治は、僕たち、ひとりひとりが、ウォッチして、
意思表示して、参加できるところで、参加するものなのだ。
小田 実さん、黙祷。

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2007/7/29
僕の横浜在住は、大学を卒業して、前の会社に勤務したときから
始まった。86年4月のことだ。3年半の間、渋谷と原宿で勤務し、
今の会社に入社したのが、1989年の10月16日のことだった。
途中入社だ。(当たり前か)
そこから、2006年6月まで、僕は横浜に住み続けた。
長いようで、短かったような気もする。20年、たいした期間だ。
人生の半分は、横浜で過ごしたことになる。
前の会社での僕と横浜の接点は、中華街にある。仕事を終えて、
山下公園近くの「ディスコ サーカス」へと行き、真夜中に
中華街のバー「オラフ」に逃げ込み、朝まで、アルコールを
詰め込みながら時間を過ごすのが常だった。(そこ頃に、カウンター
の向こう側にいた、スウェーデン人のカルロも亡くなってし
まった)
中華街から、桜木町の野毛へと僕のお気に入りの場所が移って
いったのは、30歳近くのことだっただろうか。
ジャズ喫茶の「ちぐさ」というところに行き始めたからだ。
その頃付き合っていた女性が、ジャズが好きで、ジャズピアノを
野毛で習っていたりした。その頃には、今の会社に移っていた
ので、休みは日曜日が中心だった。僕は、本牧の現役アメリカ軍人の
ところへと英語を習いに行っていた。(話す機会が欲しかったのだ)
英会話関連の仕事をしているからといって、英語を話す機会が
あるとは限らない。むしろ、少ない。だから、日本で、ある程度の
レベルに達した学習者は、自分の英語力(スピーキング力)を
キープするのに苦労するのだ。
その本牧からの帰り、いつもその女性と、横浜の県立図書館で
待ち合わせをした。その女性は、銀行勤めを辞めて日本語を
教える教師になるために、専門学校へと行き、フリーランスの
日本語教師になっていた。自分でクライアントを探して、
そこで教えていた。その女性は、僕が本牧にいる間、図書館で
翌週のレッスンプランを予習したり、調べ物をしていたのだ。
そして、僕たちは野毛のお気に入りのお店になだれ込んだ。
あの頃に開店して、行き始めた店もたくさんある。「史」
さんなどもそうだ。10年前。
「キネマ」も10年近く前になると思う。その頃の野毛は、
今みたいに洒落たバーなどは少なかった。
野毛は、ものすごく狭い町だ。特別ファンシーな雰囲気は
ないが、たくさんの馴染みになった人たちや、落としていった
たくさんの思い出があるから、僕にとっては特別な町なのだ。
http://www.noge-net.com/
昨日は、ずっと野毛にいた。清香楼から、味噌タンタン麺がおいしい
ラーメン屋さんへと行った。(覚えられないんだよな店名。漢字
2文字で、中国語だったと思います。三幸苑の通りにある店だ。
いわしの村田屋さんがある柳通りをトポス方向へ行った、角のお店です。
そして、Down Beat(ここも伝統があるお店 ジャズを流すバー)へ
行った。そこには、ノートがあって、何かを書きたい人がなんでも
書き残していけるようになっている。そこに、結構昔から、僕は好き勝手
なことを書いてきた。様々な背景の人たちが、様々な観点から書いていた。
昔、28年前にここへはよく来ていました。店の雰囲気も変わらなくて
びっくりしています。なんか、昔に戻った気分になります。
なんてことがかいてあったりすることもある。50歳過ぎの人が、
昔よく行っていた店に立ち寄ったという感じだ。
その昔。「風の歌を聴け」の頃の村上春樹の顔を店で見たことが
あります。
なんていう書き込みもあった。村上氏が群像新人賞を取り、デビューした
頃のことだ。村上氏が30歳あたりの頃のことだ。国立でジャズ喫茶を
開いていた氏が、ジャズバー(喫茶)の老舗のDown Beatへ顔を出しても
おかしくはない。事の真偽はわからないが、僕は、かなり信憑性が高い
と思っている。その時、「ちぐさ」にも寄ったのだろうか。
前回、仕事関係で出張があった3月にも、そこに寄って、ノートに
何かを書いている。昨日もちょこちょことメッセージを残した。
入ったときに、かかり始めたのが、Lee Morgan の Candy だった。
Down Beat では、ジン・ライムと決めている。
会計のところで、亡くなったマスターの奥さんが、「夏休み?」
と聞いてきた。「いや、会議で、こっちに出張です」と答えた。
Down Beat の後は、ル・タン・ぺルドュへと行った。ベルギービール
を中心に出すお店だ。ハウス生ビール(その店のハウスビール、勝手な
造語)は、ヒューガルデンとエビス生だ。ちゃんとハッピーアワー
があって、普段、800円のヒューガルデンを500円で飲めたり
する。
今、ヒューガルデンが全国的(全世界的)に不足しているらしい。
西宮北口の Barley というビールこだわりの店のマスターも
言っていた。ユーロと円との為替の問題もあり、結構、値段を
あげないといけないという張り紙があった。
ヒューガルデンの代わりに、ハッピーアワーのドリンクとなって
いたビールが、 Leffe Blond だった。同じようにベルギーの
生ビールらしい。
カウンターの向こう側には、おなじみの白シャツ姿の女性のバーテンダー
がいた。そこでは、あまり話はしないので、「お久しぶりですね」
なんて会話はない。
その代わり、スティーリー・ダンやヴァン・モリスンの話をしたり
する。ジャズの演奏会なんかもあるので、ジャズのお店ということに
なっているのだけれど、そういった音楽が、かかったりするお店なのだ。
昨日は、かかっていたノラ・ジョーンズの話をした。ノラ。ジョーンズの
コンサートに行ったのは、2年前だろうか。武道館で立ち見のコンサート
だった。会社の帰りに、急いで行ったのを覚えている。
アルコール漬けの1日。「キネマ」のカールスバーグと新潟の茶豆で
しめたかったが、空いてなかった。
地下鉄に乗り、新横浜へと向かった。
サントリーのモルツプレミアムと一緒に買ったのは、「お弁当の王様」
崎陽軒のシュウマイ弁当(700円)だった。

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2007/7/28
金曜日に出張で、東京へと来た。土曜日は休みだったので、
泊まってしまえと思い、野毛のBreeze bay hotelの地下の
カプセル風のホテルに宿泊した。新宿で仕事を終えたのが、
19時過ぎ。そこからBerg へと行き、ピルスナーのビールと
パンとハムのセットを頼んだ。新宿駅西口の改札の近くの
バーで、こだわりの商品を出す。ビールもおいしいし、食べ物
もおいしい。いつもお客さんで混んでいる。
以前に、大阪梅田の成城石井や阪神デパートの地下で、一人で
ワインを飲んでいたり、イカ焼きを食べたりする若い女性が
多いと書いたけれど、新宿のベルクでも、そんな女性がいた。
たくさん。テーブル席はいつも埋まっているので、ほとんどが
立ち飲みになる。
ビールを片手に壁に貼ってあるポスターなどに何気なく目を
やる姿は、なかなか自然でカッコイイ。そこには、周辺の目を
気にしない自然さがあるからだ。そういう自然さって、場数を
踏まないと身につかない。
湘南新宿ラインで横浜へ。電車の中では、Hally Pooter の7話目の
作品を読んでいた。ずっと2年遅れくらいで、ペーパーバックで
読んでいたが、今回は、最終ということもあり、ハードカバーで
購入した。600ぺージあって、今は半分くらいだ。
最終回で初めて、hogwarts にいかないシチュエーションの設定
から始まる。
横浜を少し歩き、plaza(ロゴ同じですが、実は、もうsony が取れています。
もうソニー・プラザはありませんね)でミントとボールペンを買った。
ジョイナスの下には、伊勢丹のフードコーナーが入っていた。
伊勢丹は、関西では見かけない。
野毛へ行き、breezbay hotelでチェックイン済ませ、外へと出た。
「史」へ寄った。
「ああ、久しぶり、戻ってきたの?」
「いや、仕事で出張です」
「そうか」
バックにはサザンがかっていた。
今年、野毛の「史」は、10周年を迎えるらしい。
魚を塩焼きにしてもらった。
いわしだった。
最高においしかった。冷酒の半田郷を飲みながら、もろきゅうも
食べた。味噌は手作りだ。
朝、野毛から伊勢佐木町辺りを歩いた。馬車道のコーヒーショップで
ずっと馴染みだった風景を眺めた。20年住んで、うろうろとした街
だ。転勤して1年だけれど、その記憶は、いたるところ残っている。
「ちぐさ」の跡には、マンションが建ち、「日劇」はその姿を消して
いた。
私立探偵マイク濱の事務所は、「日劇」の2Fで撮影されていた。
もう、その事務所も形はない。
そうやって、記憶の風景の部分が、時間の流れによってはがれていく
のかもしれない。
それが、時の流れなのだろう。
野毛の昼は、清香楼に入り、おいしい中華料理を食べた。
青島ビールを飲みながら。
テレビでは、甲子園の神奈川県の予選が放送されていた。
ビールを飲み終える頃には、横高が、東海大相模に敗れて
いた。
店の外には、夏の匂いをさせた太陽が溢れていた。

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2007/7/25
サンボマスターの『僕と君の全てをロックンロールと呼べ』の
2曲目の「手紙」を聞いている。途中、サンボマスター的に
騒がしくなるが、始まりのリリシズムやギターのフレーズの
カジュアルさは、山口さんちのリリシズムという感じだ。
夜中にサンボマスターはまずいだろっとことで、
Ann Sally の moon dance に変えた。
最近めっきりと手紙を書かなくなった。最後に書いたのは、
昨年の年末のことだ。
メールがない頃は、恋人たちは、ねえねえ、郵便屋さん、
私宛(僕宛)の手紙届いてないかなあ、なんて歌が恋の歌に
なるくらいだった。僕が生まれる前か、辺りのことだ。
プレスリーは、「この宛名にはこんな人はすんでまへん、だから
送り主に手紙かえしなはれ」という歌を歌っていた。
前の会社(今の会社に入社して18年が経とうとしている、ひええ)
に手紙好きな女の子の同僚がいた。いつも手紙を書く(80年代後半)
女の子で、ちょっと変わっていて、原田しんじとプログレが好きな女の
子だった。「出すの忘れたのー、ごめんねえ」と言いながら1ヶ月遅れの
年賀状を2月に手渡しでもらったこともある。
僕たちは、全国でも一番売り上げが高い渋谷店(お店ですね)に配属され
わけのわからないまま、同年代のパンクなバイトたち(実は優しくて、
生き方がうまくない奴ばかりだった)と繰り返される飽くなき、発注と
チェックと棚卸の繰り返しの中で途方に暮れていた。
レジスターはなりっぱなしだった。ポスもバーコードもまだその細かいもの
を扱う雑貨店には普及しておりませんでした。
(今は、もうひとつひとつのアイテムにバーコードがついている)
カリカリしながら、夜遅くまで発注書を書いていると、その女の子の
素っ頓狂な「ああ、いけない、梱包しなきゃ」というような台詞が、
僕を和ませたものだった。
とっくの昔に結婚したけれど、子どもはいるのだろうか。
葉子ちゃん、元気かー。
「おげんきですうかあ」(岩井俊二 『ラブレター』風)
「今でも、手紙かいてますかああ」

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2007/7/22
テレビ番組で、多摩川を上流へと上り行く魚たちの姿をみた。
特に、天然のうなぎの稚魚が、夜に多摩川をのぼっている姿には
驚いた。天然のうなぎは、価値が高い。あの番組をみて、密漁する
人が出てこないといいけれどと思う。
うなぎは淡水での海の中でも泳いでいく。3,000kmの
距離をうなぎは、泳いでいくらしい。(日本近郊のうなぎ)
マリアナ諸島くらいまで下っていき、戻ってくるらしい。
いしいしんじの『ポーの話』もそんな移動をベースにしている
のかもしれない。
多摩川を上っていく、うなぎの稚魚の姿は、そんな数千kmを
移動するようなものには見えなかった。
多摩川は、昭和40年代には、死の海といわれ、魚が住めなくなった
川となっていたらしい。
その川を、たくさんの人が努力をして、うなぎや鮎やその他たんさんの
魚な戻ってくる姿になったらしい。
多摩川のずっと上の日野市の一部では、うなぎは、神の使いとされていて、
その地域の人たちは、あまりうなぎを食べないらしい。
新宿に勤めていた3年以上前、みんなで飲んだりした後、品川から川崎に
歩いて帰ったことがよくあった。川崎からタクシーに乗って、横浜の妙蓮寺
まで帰っていった。
その時、いつも多摩川の上を歩いた。1級河川だけあって大きな川だった。
浮浪者の人がビニールの囲いの中で暮らしているのが、上から見えた。
down to the river
川を下っていくと海へとつながる。たくさんの命をはぐくむ場所だ。
命は、川の流れに逆らって、上へ上へと上っていく。少しでも栄養の
多いところで、自分の子孫をつないでいくために。
down to the river
キッチンに流した水は、洗濯水は、下水を通って、海へと流れていく。

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