1960年前半(微妙)生まれの男の、映画について、音楽について、旅について、本について、そして人生とやらについてのブルース。自作の詩のおまけ付き。書いているのは、「おさむ」というやつです。
since 6.16.2005
To travel is to live. -H.C.Andersen
2005/7/31
7月最後の日曜日。
午後8時19分。渋谷の「ねぎし」の席に腰掛けている。牛タンのお店だ。テーブルの上に値段の変更についてのお知らせがプラスティックに入っている。米国牛の輸入禁止措置により、牛タンの仕入れ値が、4倍から5倍になり、今も高騰しているため、ねぎし定食を1,680円にせざるを得ないということが書いてある。通常価格から400円〜500円のアップだ。仙台に佐助という牛タンのおいしい店がある。大丈夫だろうか。
「ねぎし」のバックにはジャズが流れている。窓の外に地上にある山下書店が見える。24時間営業の渋谷店だ。外にずらっと雑誌が並んでいる。店の外側を埋めるように。万引きは大丈夫なのだろうか。レジスターのところには、"make poverty history"のキャンペーンの一環である300円の白いリストバンドが置いてある。300円で購入すると、その収益がそのまま、世界中同時に動いているキャンペーンの一部となり、アフリカの貧困をなくすために使われる。今までは、横浜の有隣堂が積極的に展開していたが、山下書店のしっかりとレジスターの横に置いて販売していた。おまけに、レジスターにいた女の子はちゃんとそのホワイトリストバンドをしていた。よしよしと思い、リーダーズダイジェストのAugust 2005版と『シブヤミライ手帖』ハセベケン を購入した。その山下書店の雑誌と本を手に持ち、「ねぎし」の階段を上がった。丁度、"FIY ME TO THE MOON"
が女性ボーカルで流れていた。
昔付き合っていた彼女は、ジャズピアノを趣味で習っていた。
「このあいだね、チャリー・パーカーのコンファメーションを習ったの」
「昨日はね、マイルスのセブン・ステップ。トゥー・ヘブン」
「今日は、フライ・ミートゥー・ザ・ムーンだった」
♪フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン♪
彼女は、僕の横で小さな声で指で鍵盤を叩くような振りをしながら、その曲を口ずさんだ。
♪イン・アダー・ワード・アイ・ラブ・ユー♪
僕たちは、日曜日の夕方、近くの公園までランニングをした。彼女はマウンテン・バイクに乗り、僕はランニングで。
午後早くの時間帯は、僕は、本牧にアメリカ人にプライベートで英語のレッスンを受けていたし、彼女は、桜木町の県立図書館で、翌日のレッスンの予習をしていた。(彼女は、勤めていた銀行を辞めて、1年間日本語の講師になるための勉強をし、日本語を外国人に教える先生になっていた)
ランニングから戻って、僕が料理を作った。バックにはいつもジャズが流れていた。彼女の好きなピアニストは、ハービー・ハンコックだった。
午後9時。定食も食べ終えて、2杯目のビールもあと一口。山下書店から出てきた若い女の子が袋の中から、白いリストバンドを取り出して、ビニールに包まれたそのバンドを夜空にかざし、眺めていた。
そうだね、自分が出したそのお金の行き先に在る命を想像しないとね。
店内が少し混み合ってきた。残りのビールを飲み干した。
FLY ME TO THE MOON
-おさむ-
採用試験をした
何人もの人たちが人生を抱えながらやって来た
一期一会になってしまうかもしれない人たち
採用する側のルールを守りながら職務を果たした
暑い
暑い
一日だった
仕事のあとのビールは
ほんのちょっと苦かった
苦味を感じることは
きっと
生きているということを実感するひとつの方法なのだろう
その苦味を消すためにまた冷えたビールを飲む
夜空には星はなかった
夜空には月はなかった
家の近くのお寺で蝉が最後の力を振り絞って鳴いていた
ぎっ ぎ ぎっ ぎいい
壊れたゼンマイ仕掛けのおもちゃのようだった
だから
だから
僕は
その星もいない
その月もいない
夜空に
こっそりと
口笛を吹いた
♪FLY ME TO THE MOON ♪ と

0
2005/7/29
会社の研修の関係で、3日間、大阪へと行っていた。大阪は物凄く暑かった。よーし、たこ焼きだあと思っていたが、仕事の後は、グループでの飲み会とかがあって、たこ焼きにたどり着くことができなかった。だから、菊名で、関西風と冠のつくたこ焼き屋さんで、たこ焼きをかって、オリオンビールを飲みながら、むしゃむしゃと食べた。
ある女性から、「童顔な顔しているから、なんか少年って感じよね」といわれた。
昔から、年より下に見られてきた。中学のときは小学生に、高校のときは中学生に、それがとても嫌だった。
大学生になって、それはもうどうしょうもないことだし、それを好きになることが自分のことを理解するために重要なことだと理解した。20歳前の頃のことだ。ただ、本当の今の自分の外見をそのまま、ありのまま受け入れることは、なかなか難しい。それは、ちょうど、テープに取った自分の声を聞くようなもので、えっつ、これおかしくないという風に感じてしまう。それは、写真でもそうだ。えっこれ写真おかしくない。そういった写真はたいてい他人から見ると、その通りに写っていたりするものだ。
少年の心をもった。少年の心は純真とは限らない。少年の戸惑いは、自分ではどうしようもない現実に対する震えなのだ。何かにぐっと熱中して、それをとがめられないこと、それが少年時代だ。
もう一度、少年時代に戻してあげるといわれても、僕が選択するのは、きっと日曜日のユニフォームを着ての少年野球の練習のときだったり、友人の団地の周りでローラースケートを履いて、ローラーゲームをしているときだったりするのだろう。その時は、掛け値なしに集中できそうな気がする。
もう一度、小学校の頃に好きだった女の子の前に戻してやると言われても、きっと気のきいたことも言えないまま、少し顔を赤くして、その子の髪の毛を引っ張ったりするのだろう。
小学校2年生のときに好きだった礼子ちゃんや、小学校6年生のときに好きだった真理ちゃんが、今の自分と同じように年を重ねて、今の自分と同じ年であるという、その事実だけが、想像の枠を超えている。
そして、おそらく、その2人と会うことはこの先もうない。
そして、それが、なんとなく悲しい。
南風 おさむ
やけたアスファルトに裸足で立ちながら
少年は途方にくれる
足の裏から伝わってくる熱は
頭上に居座る太陽の熱のメッセージ
少年は前方を見つめる
目を凝らす
蝉がスローバラードを歌う
森の夕暮れを探す
いくつもの木に閉ざされた光の届かない場所で
その少女が待っているのだ
きっと少年はやって来る
両手でひっそりと林檎を持ちながら
少女は裸足で土の上に立つ
足の裏から伝わってくる冷たさは
薄暗い闇をつくる木々の揺れのメッセージ
風は吹く
南から
少年は背中に風を受け
少女は頬に風を受ける

0
2005/7/26
夜遅くに横浜桜木町の野毛に行った。仕事の後で、ディーセントな一杯のビールが欲しかったからだ。平日の終電まで1時間をきった雨の野毛はひっそりとしていた。(まあ、晴れていてもひっそりとしているのだけれど)
それでも、馴染みの椅子に陣取り、お気に入りの飲み物を抱えながら割りきれない時間をやり過ごしていた。(ビリー・ジョエルのピアノマンという曲のなかで、♪makin' love his tonic&jin ♪という歌詞があったと思う。それに近いニュアンスだろうか)外から覗いたいくつかのバーの止まり木には、不規則な間隔でポツンと誰かが腰掛けていた。
どこに入ろうと迷った挙句、「史」に入った。先客が2人。奥に入り、エビスの瓶をたのむ。バックには歌謡曲(というより昔の表現でのニューミュージック?)が流れていた。オフコースが流れ、ペドロ(?)&カプリシャスが流れ、河島英悟が流れていた。おっと、終電がなくなるよといいながら、隣の会社員風の2人が出て行った。もろきゅうと、塩焼きの魚をたのんだ。週末に魚料理はたのむな、『キッチン・コンフィデンシャル』というニューヨークの有名シェフが書いた本にそうあった。魚の市場が週末は休みなので、日曜日のランチなどに出てくる魚は、在庫一掃のために出てきたものが多いということだ。まあ、店によって違うし、日本の場合の事情はちょっと違うのかもしれないけれど。
塩焼きとたのむと、史さんが選らんだ魚を塩焼きにしてくれる。その日は、鯖だった。分厚い鯖で脂ががのっていた。「サバー」おいしくいただいた。さんまが出ているけれど、かつおと一緒で、初ものはぱさぱさしておいしくないよねと話をした。鰹も戻り鰹がおいしい。栄養をたくさんとっているからね。初物に対する執着心というのは、どうも、ただの特権意識のような気がして、南・西部出身の僕にはちょっとピンとこない。
史さんは、歌謡曲のCDをイーグルスに替えた。ライブだった。ビールのおかわりをした頃には、もう終電の時間は過ぎていた。
史さんは、棚の上からコンサートのパンフレットを出してきた。1976年や75年あたりのコンサートだった。史さんは、まだ高校生で、月に1回は、コンサートに行ったと言っていた。チケットは、3,000円くらいだったらしい。EAGLES,DOOBIE BROTHERS,BOZ SCAGSS(?),ROBETA FLACK,
ERIC CLAPTON,NEIL YOUNG その他。パフレットは、300円くらいの薄いやつで、たくさんの広告とたくさんの文字が並んでいた。勿論、写真に写るミュージシャンたちは若かった。ほぼ、30年前のことだ。
「高校生にしては、行き過ぎじゃないですか、これは」
「そうだね、あの頃はさ、バイトして、金持ってたからね」
史さんは笑いながらそう答えていた。
バックには、スパニッシュギターを使っての「ホテルカリフォルニア」が流れ、ドン・ヘンリーの声が優しく響いていた。
台風が近づいていた。終電はとっくに過ぎ去って行った。
桜木町の東横線の高架下には、壁面にずっとグラフィティが並んでいる。様々なタッチのものだ。真っ直ぐに見える薄暗い通路は、どこかの遺跡の回廊のようだ。その通路の端にポツンと段ボールで囲ってあるところがあり、年齢不詳のおじさんが眠っていた。横を何台ものタクシーが鮫のようなスピードと勢いで濡れたアスファルトを駆け抜けていた。
なんとなく、歩いてみたかった。夜にすっぽりと沈み込んだ街は、たったひとりの人間には、全く無関心だった。
桜木町から横浜まで歩き、横浜でタクシーに乗った。
部屋へと戻り、歯を磨いて、深く眠った。ほんの少し遠くで雨の音とドン・ヘンリーの声が聞こえたような気がした。

0
2005/7/25
それぞれに、それぞれのサイズできっと痛みは存在する。他人から見て大したことのないものでも、本人にとっては自分ではどうしようもないものもあるのだ。まあ、生きたくても餓死してこの世からなくなってしまう生命と比較したら大したことはないこともあるのかもしれないが。
生きる? おさむ
飢餓がないところで、生きていくことも、それなりに大変なこともあるのだ。
例えば、目が見えないまま生まれた現在小学校4年生の女の子。そのお母さんは、もう全く普通に過ごしているが、ふと、自分がいなくなったら、この子の面倒は誰が看るのだろうと思う。今のうちに何でも自分で出来るようにしておかないと。
例えば、怪我をして右手が動かなくなってしまった30歳の会社員、男性。なぜ、俺が、なぜ、俺が。繰り返すのはその言葉ばかり。愛する人のサポートがなければ、生きてはいけないだろう。
例えば、離婚をして子どもを育てながら働かなければいけない24歳の女性。3歳の子どもの毎日の成長が生き甲斐。短い時間で交わす言葉の一言一言が大事な宝物だ。
例えば、あと2年もすれば癌が発見される35歳の会社員、男性。場末のバーにとまって冷えたビールのグラスを傾ける。ビールを傾けながら、しばらく会っていない両親のことをふと思い浮かべる。入ったばかりのボーナスのうちのいくらかを送金したばかりだ。
どんなに満たされている気がしていても
どんなに元気一杯な振りをしても
どんなに気持ちが充実していても
そう
僕たちには必要なものは
さびしいぞお といいながら
誰かの手をぎゅっと握ったり
誰かの体をぐっと抱きしめたり
誰かの声を聞いて涙することなのだ

0
2005/7/23
本日、16:35分あたり、強い揺れがあった。縦の揺れだった。出窓の外には、谷が広がる。谷には住宅や木々が張り付いている。丘の上にあるアパートメントだ。そのせいで揺れは激しくなる。部屋に積みあがっていたCD、400枚近くのうち半分くらいが、がしゃんと落ちてきた。半分はジャズで、残り半分はロックとポップスとクラシックとブルースのコンビネーションだ。これは、どうにかしなさいというお告げだと思い、ネットで中古CDを購入してくれるところを探して、半分を処分してしまうことに決めた。部屋で最近流れるのは、INTER-FMだ。CDは必要ない。
横浜市の震度5の地区に入っていた。
1995年の阪神大震災で実家が被災した。幸い、両親も妹も無事だった。数日後に現地に行って、近くの幼稚園で家族と一緒に過ごしたけれど、そのときも余震が続いていた。縦ゆれの余震だった。
1999年、夏にトルコの旅行に行ったとき、イスタンブールで地震に遭った。
日常的に積み上げたものは、きっとあっけなく消えてしまうことがある。本当にあっけなく。生きているということが、確固たる絶対的な安定性の上にのっかっているのではなく、物凄くはかないものであるということを時々思い出す必要があるのかもしれない。
地震の前に、その谷の木々の中にヒグラシがいた。都会でヒグラシの鳴き声を聞くのは久しぶりというより、横浜では初めてのような気がする。アブラゼミと違って、ものがなしい音だった。

0
1 2 3 4 5 | 《前のページ |
次のページ》