2008/5/1

カール・マリア・フォン・ウェーバー クラリネット協奏曲  クラシック曲目分析室

もうすぐ開幕するラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008のプログラムに、ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番が組まれている。ウェーバーといえば、ジングシュピール「魔弾の射手」の作曲家として有名なのだが、このオペラ史にとって欠くことのできない輝かしい作品を書いた彼は、それに見合った評価をされているだろうか。例えばモーツァルトを、その後の音楽の歴史を語るときの中心に置いたとき、ベートーベンと同じくらいウェーバーは重要だと、私は思うのだ。

モーツァルトの凄さのひとつに、音楽の切り替えの鋭さがある。例えば、長調→短調→長調などと動く場合、それまでの作曲家はどうしても手数をかける必要があった。長調から大胆な転調で、哀切な音楽が展開することはある。だが、それをもういちど戻すためには、大抵の場合、楽章をおわらせてしまうか、そうでなくとも、相当の手数をかけてひっくり返す必要があった。ところが、モーツァルトは信じられないくらいシンプルに、たった一音、もしくは、短い休符などで、さっと音楽を切り替えてしまうことができた。これを徹底的に研究したのが、ベートーベンである。彼の作品を聴いていると、モーツァルト以前の作曲家がどうしてもできなかったことが、モーツァルト的なシンプルな語法で完璧に克服されており、さらに、そこにベートーベンなりの仰々しさを付け加えて、いかにもベートーベンらしい熱い音楽に仕上げてしまう。

しかし、モーツァルト研究では、ウェーバーも決して負けてはいない。ベートーベンほど強烈な個性は付け加えておらず、ウェーバーはむしろ、モーツァルトの音楽を継ぐということに重点を置いたかのようだ。そのことは、クラリネット協奏曲第2番に象徴的に表れている。冒頭の勇壮なフレーズから音楽世界が展開していく最初の部分は、モーツァルトの交響曲第39番に酷似している。そして、弦の軽く、輝かしいフレーズや、例の鋭利な切り替えが挿入されて、楽曲はいかにもモーツァルトらしい雰囲気を模倣していく。この楽章のおわりも、モーツァルトのような歌いまわしが独奏クラリネットに投影され、「フィガロ」の序曲のフレーズが、最後にしっかり模倣されていることには容易に気づけるのではなかろうか。

ウェーバーは、これらのことを堂々とやっているかのように見える。

いかにも「魔弾」の作曲者らしいミステリアスな雰囲気ではじまる第1番は、2番と比べると、ウェーバーがモーツァルトの語法をしっかり織り込んでいる作品だ。ウェーバーがこの作品を書いたとき、モーツァルトはとっくにこの世を去っている。だが、ウェーバーはモーツァルトその人が書いたように、くるくると絶え間なく回転するようなモーツァルトの転調を編みこみ、我々をどんどん惹き込んでいくのだ。しかし、もはや、ベートーベンも踏まえた時代にあっては、その詩情はよりドラマティックなものに生まれ変わってもいる。

ウェーバーにとって「クラリネット」いえば、モーツァルトのことを連想させるのかもしれない。息子コンヴィチュニーが「ティート帝の慈悲」の演出ではっきりと示したように、モーツァルトはクラリネットをしばしば大事なところに置いている。今日の指揮者の原型となるような活躍もみられ、もちろん作曲家として優れていたウェーバーが、そのことを知らなかったはずはない。

第2楽章。最初のクライマックスで、独奏クラリネットが痛々しいメロディを吹き上げたあと、短いパウゼのあと、ゆったりとホルンが入り、やや明るめの響きでクラリネットが姿を現す。フレーズがゆったりとまどろみ、沈んでいったあとに、後半、長閑ながらも芯のある響きが立ち上がるところの処理など、いかにもという感じだ。万事、このように進む。第3楽章は、基本的には快活なアレグレットで、ここの歌い方もモーツァルトにそっくりだ。しかし、その語法はより洗練されており、明→明、暗→暗へという関係でも、より細かな描き分けがみられる。

2つの作品は1811年に書かれているが、隣り合う op.73 と o.74 として、連続的に書かれたようだ。このときのウェーバーは30代半ばの、もっとも脂ののった時期にある。2つのシンフォニーをものにし、ピアノ協奏曲も同時期である。舞台音楽では、現代では忘れ去られた「アブ・ハッサン」がこの時期だ。これらの傑作群を通って、1813年にはプラハの劇場でポストを得ると、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を上演するなど、劇場を中興して指揮者としての名声も残す。作品としては、もうひとつのクラリネットの名品「クラリネット五重奏曲」(1815年)のあと、コンチェルトシュテュック(1821年)、「魔弾の射手」といった名品が、この世の中に次々と産み落とされることになる。

こうしてみてみると、クラリネット協奏曲の時期は、ウェーバーの最後の15年くらいの時期のうち、最初の重要な時期に当たることがわかる。1917年からザクセン時代を迎え、第2の重要な時期がやってくる。ここで前者の時期を象徴する重要な作品、クラリネット協奏曲にモーツァルトへのオマージュをもってきたのは、きわめて示唆的だ。しかも2つの作品で、ウェーバーはもはや自分が完全にモーツァルトの手法を受け継いで、自由に操れることになったと示している。コソコソとではなく、堂々とそうしているように見えるではないか!

ウェーバーを従兄弟のモーツァルトのような、優れた音楽家にしようとした父親の目論見に反して、ウェーバーの前半生は、ひどく揮わないものだった。プラハの劇場に職を得るまで、ウェーバーは自らの才能を認めてくれるパトロンを探して、放浪生活をつづけた。その間、ミュンヘンでチャンスを得たウェーバーは、2つの作品を土地の国王に捧げたのだ。その情熱は、第2番最後の楽章の燃え上がるような響きに詰め込まれている。クラリネットの妙技をうまくダシに使いながら、尊敬する従兄弟のモーツァルトの力を借りつつ、彼は自らの筆力を絞り出して、必死に訴えかけているように見える。だが、作品を捧げられた権力者は、その訴えをかえってうるさく感じたのか、ウェーバーの価値に気づかなかった。すこし古くさいと感じたのかもしれないが、そうだとすれば、ある程度はセンスがよかったものとみえる。作品は役に立たなかったが、これらの作品をものにしたことは、ウェーバーを力づけたにちがいない。

ウェーバーの影響は、ワーグナーなどドイツ・オペラにおいて強調される。だが、クラリネットというところに注目すると、どうしてもブラームスの名前が浮かぶ。そして、ブラームスのシンフォニーの一部には、このクラリネット協奏曲に似た部分があるように思う。ブラームスというと、ベートーベンの影響ばかりが強調されるのだが、ウェーバーとベートーベンの両方から、ブラームスは相当の果実を得ているのではないか。2つの橋が架かっていたからこそ、ブラームスは古典の世界にも旅立つことができたし、一方、かつてのウェーバーのような立ち位置で、大胆にも一歩前に踏み出すことだってできたのだ。

ウェーバーという音楽家は、本当に大事な位置にいるのではないか。確かに地味な存在ではあるが、その40年の生涯は、モーツァルトほどではないが、密度の濃いものだった。ウェーバーに対するルネッサンスがやってくることを待ちたい。
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2008/2/10

サロメについて考えています。  クラシック曲目分析室

11日、新国に「サロメ」を見に行くのに、いろいろと頭をひねっているところです。一般的なイメージでは、R.シュトラウスというと耽美的な、底の浅い作曲家であり、豪華絢爛のサウンドを浪費する贅沢音楽の極みのように考えられていないでしょうか。確かに外見的にはそうかもしれないのですが、もう一枚、ヴェールをめくってみると、いやいや、どうして、なんとも深い世界を描いているように思います。この「サロメ」は、我がままな王女様が意のままにならない聖人を、無理やり自分のものにするために、色仕掛けで王様をたぶらかし、そいつの首を胴体から切り離して弄ぶという、エロ・グロの世界であります。しかし、裸になったサロメは、実はもう1枚、ヴェールを被っていたような気がしてならないのです。

いろいろと考えてはみましたが、情報を集めれば集めるほど、混乱は深まるばかりという気がしました。謎は、たくさんあります。まず、王はなぜサロメを殺害したのか。これは、意外と早く結論を得ました。それは、嫉妬したからです。誰にといえば、それは胴なし首となったヨカナーンにです。王はサロメの魅力にやられ、彼女の踊りのあと、国の半ばさえ与えても構わないと言っていますよね。ところが、サロメはヨカナーンの首を所望し、そいつを愛しそうに扱って接吻する。ここに、王の嫉妬が爆発したのです。王は、サロメのおぞましい行動を倫理的に罰したのではなく、正しく男としての激しい感情の発露として、殺すに至ったのです。

次なる疑問は、サロメは、どうしてヨカナーンの首を所望したかです。これも、わりと簡単に答えを得ました。それは、まだ内心が成長しきっていないサロメの、不安と、幼い幻想や妄想の世界として、考える必要があります。不安というのは、自分をみる王の特別な視線によっています。サロメの生きる世界では、王はすべてを想いのままに操ることができる最高の権力者であります。ヘロディアスへの遠慮などがあって、まだ王は、サロメへの想いを爆発させてはいませんが、元の妻を実家に帰して、ヘロディアスを娶ったような王のこと、サロメへの想いをやがて、何らかの形で満足させるために動いてくるであろうことは目に見えています。このことから、サロメは、王から逃げたいと考えていたはずだと推察できます。でも、どれだけつよく願っても、それは叶えられることではないのです。

そへきて、ヨカナーンとの出会いがありました。ヨカナーンは、声だけでサロメを魅了したとされます。そうなのかもしれませんが、私を悩ませる謎のひとつは、サロメがなぜヨカナーンを愛してしまったかです。それは今、結論を得ないので置いておきますが、ヨカナーンを求めて拒絶されたサロメは、結局、ヘロデとヘロディアスの間に生まれた運命を嘆くようになりま
す。そして、ヨカナーンは自分を愛しているが、その境遇のために結ばれないのだと考えるようになります。否、サロメがそう考えたであろうということを証明するものは、何もありません。ただ、そう考えると自然だということに過ぎないのですが・・・。

さて、この2つの感情が結びついて、サロメはヨカナーンの首を所望するに至るのです。この世で結ばれないならば、せめて、あの世でと思ったのでしょう。サロメは、王から何でも所望のものをやると言われるまでは、ある程度の理性を保っています。しかし、ヘロデのしつこい求めをかわすうちに、思いついてしまったのです。まず、ヨカナーンの首を胴体から切り離し、自由にする。これで、ヨカナーンを縛るものは何もありません。それだけでも彼女は満足なのですが、接吻までしてみせることで、王の嫉妬に火がつくとまで見抜いていたかどうかは分かりません。しかし、公衆の面前でそうまでしてみせれば、いずれ王は自分を罰するであろうと、サロメは予想していたのではないでしょうか。これで、サロメは自らの身を滅ぼすことができる。そうすることでしか、王から逃げ、ヨカナーンのもとに歩み寄る道はなかったのです。

ヘロディアスは、娘への嫉妬に駆られているように見えますが、私にとっていちばん難しいのは、この母娘の関係についてです。ワイルドが改作する前の聖書の記述では、サロメは自らの意思ではなく、母の望みを叶えるために、ヨカナーンの首を所望しています。ここでは、ヘロディアスこそがワルのなかのワルで、娘まで使って王を動かし、邪魔な預言者ヨハネを始末しようとしたのです。サロメはさほど重要でなく、福音書には名前も記されていません。ところが、ワイルドはそこを変えて、ヘロディアスを冷笑的な母親に仕立て、サロメという人格を独立させています。そのため、このドラマを考えるときには、この2つの人格がどのような形で関係しているかを読み解く必要があるのです。

ヘロディアスは、サロメが踊るのを制止しようとしていますよね。これは、どうしてでしょうか。多分、夫の邪まな意図を見抜いているからです。王が何でも与えるというのは、要は、そのことですべてを奪うことを意味するからです。例えば、サロメが国の半ばを所望すれば、そこを与えて、ヘロディアスの目の届かないような場所で、要は囲いものにしてしまおうという腹でしょう。だから、その魂胆を先取りして、娘を守るというよりは、王の謀略を事前に潰してしまおうとしているのです。母親はまた、娘のことを警戒してもいます。彼女の美しさがあれば、王を唆して、ヘロディアスを葬り去ってしまうことだって可能なのです。この2つの意図から、ヘロディアスはサロメが踊ることを阻もうとするのです。

踊りのあと、ヨカナーンの首を所望するサロメの言行に対して、この母親が喜びをあらわにするのは、邪魔なヨカナーンが自分の手を汚さずに消えてくれるということよりも、自分が思っていたほどサロメが成長していなかったことへの安堵を感じ、そして、夫の想いが脆くも打ち砕かれたことへの愉快さがこみ上げてきたからではないでしょうか。

こうして見てみると、単なる官能小説の世界と思われた「サロメ」の世界に埋め込まれた、奥のふかい心理劇の様相が形を表してきたのではないでしょうか。それでも私は、まだまだヴェールが覆っているような気がするんですよね。それにしたって、単純すぎませんか。男女の嫉妬と、少女の妄想だけによって、この作品の世界が語り尽くせるのでしょうか。それは無理です。例えば、ヨカナーンは、キリストの出現を予言する重要な預言者ですよね。ユダヤ世界では、聖書に出現する最後の大預言者として扱われると言います。それが、こんなことで首を刎ねられていいものでしょうか。これはキリストの「受難」と比べると、あまりに陳腐で、重みがありません。まるで、死んでなお、愛人に見向きもされないナラボートのようです。

私はここに、原作のワイルドやそれに共感したR.シュトラウス自身の、信仰に対するひとつの見方が投影されているのではないかと考えていますが、そこをいま、掘り下げていくことは避けたいと思います。また、ここに出現する登場人物たちは、R.シュトラウスの時代の何らかの政治的、もしくは、文化的人物のイメージに重ねあわせられているような気がしますが、そこまでは私の見識が及びません。

まだまだ完璧というには粗すぎる考察ですが、観る前に、こうして書いておいて良かったかなと思います。上演自体の評価は消極的なもの7に対して、好意的なもの3くらいかなと思いますが、オペラほど周囲の評価が当てにならない世界はありません。
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