2007/10/5

新交響楽団 マラ9に挑む!  期待のコンサート

マーラーの交響曲第9番を、アマチュアが取り上げるのは無謀だ。私の持論だが、マーラーを演奏する場合は、技術よりも、指揮者とのコミュニケーション、それに基づく練り込みがものをいう。中でも9番はもっとも難物であり、その楽団のもつすべての音色、エネルギー、スピリッツが、すべて引き出されねば良い演奏にはならず、しかも、それだけでは駄目なのである。プラス、それまでに見えていなかった何ものかが見えてくるようでないと、本当に9番を聴いたという感動は得られない。これはという名盤も、さほど多くはない。スター指揮者が超のつく有名なオケを振っても、なかなか期待した結果にならないのである。

さて、今回、その無謀なチャレンジを試みるのは、新交響楽団である。10月8日(東京芸術劇場)の本番が、数日後に迫った。彼らはアマチュアであるから、指揮者とのコミュニケーションなどをいうには、あまりに条件が整わない。だが、まったく期待の一欠片もないかといえば、そうではないのだ。なによりも、今回の指揮者は高関健であり、マーラーのスペシャリストである。この楽団への客演も多く、昨年の奇跡のような「アルペン・シンフォニー」の名演や、2004年には、ブライトコップ新版によるベートーベンの交響曲第5番の鮮やかなパフォーマンスを演出した実績がある。その日はまた、石井眞木の遺作を見事に演奏しきったことも記憶に新しい。もしかして、マラ9が良い演奏になる可能性があるとすれば、アマチュアでは彼らをおいて他にはなかろう。

高関指揮のコンサート以外でも、2005年の飯守泰次郎による「ダフニスとクロエ」全曲版の堂々たる演奏も記憶に鮮明であったし、昨年11月、同じく飯守による「トリスタン」の目の覚めるような演奏など、このオケは武勇譚に事欠かないところである。ダフクロやアルペンは、プロの演奏でさえ、なかなか感動するような演奏にはならない。それを、新響が本当に素晴らしい演奏をしたのだから、今回も、その再現がないとは言えないだろう。そう願いたいものだ。

楽団のホームページには、公演プログラムに掲載されるはずの、高関自筆の解説が公開されており、彼らしくマーラーのスコアの版に関する詳細な考察が、それだけで成り立つ読み物になっている。群響とのツィクルスでは、現在、編集が進行中の「新批判版」に基づく演奏を、ときには世界に先駆けておこなっているが、9番はまだ編集が十分に進んでいないため、批判全集版の編集方針に従い、出版された下書き原稿のファクシミリを基に、1999年に群響で演奏したときの研究成果を踏まえて、さらに手直しした「手製」の楽譜による演奏が試みられる。下に、そのホームページのURLを示しておく。

 新交響楽団HP〜高関執筆のプログラム抜粋:
 http://www.shinkyo.com/concert/p199-2.html

次のフレーズを見逃してはならない・・・

>第9交響曲は私が指揮者を目指す原動力となった作品である。

>今回の楽譜についての考察も、私のマーラーへの私淑と敬意の表れと理解していただければ幸いに思う

私は、新響なんて、どんな難しい曲でも弾けると評価している。だが、マーラーの9番だけは、無理な選曲というほかはない。期待してはならないだろう。だが、そうもいかないと言っては、あまりに楽天的すぎるのであろうか。
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2007/10/3

プロットに含みありそうなルプパ 10/20 東響が上演予定  期待のコンサート

10月20日、東京交響楽団がヘンツェのオペラ「ルプパ」を日本初演する。まだストーリーしかわからないが、楽団ホームページでの特集がなかなか期待を増幅してくれる。このような特集は、確か、同じくヘンツェの「裏切られた海」の上演に際して、その前は、昨年の「マクロプーロス家の秘事」、さらに、大友直人の肝煎りによるエルガーのオラトリオの公演に際して、などの機会に試みられている。

 東京交響楽団 HP 「ルプパ」特集ページ:
 http://www.tokyosymphony.com/concert/sp_lupupa.html

【中心となる2つのプロット】

プロットは数段構えで、含みがありそうである。まず、大プロットとしては、ルプパに魅せられた老王が、3人の息子たちにルプパを探しに行かせたところ、年長の2人は怠けて相手にせず、末弟のみがルプパを連れて帰ってくる。兄たちは弟を罠にかけて、その成果を奪おうとするが、結局、悪さがばれて追放され、弟が父親の祝福を受けるというものだ。

だが、もうひとつの中プロットとして、ルプパを探しにきた国で、別の国にさらわれた王女を助けてほしいと頼まれ、敵王の懐中で彼女と仲良くなり、2人の関係をまぶしく思った王様は、2人を解き放つという「後宮からの逃走」さながらの救出劇が挟まっている。

【老王の寂しさ、デーモンの正体】

さらに、隠れプロットとして、いくつかのサブ・ストーリーがある。1つは、ルプパに見せられる老王のことである。まず、彼がなにゆえルプパなどに夢中になっているのかというのが問題だが、彼は息子たちに困難な仕事を押しつけ、2人にまで裏切られたうえ、命を果たした末弟までも、デーモンへの義理立てのために旅立ってしまう。信頼した2人の娘にお荷物にされて放り出され、自分が疑った最愛の娘に助けられそうになりながら、結局、彼女まで失ってしまうというリア王さながらの悲劇的な体験だ。末弟は帰ってくるのかもしれないが、それは、オペラのなかではわからない。また、せっかくのルプパも、最後には逃がしてしまうのだという。

末弟=アル・カジムと、デーモンとの駆け引きもある。特集にある「プログラム連載より」の2番目、岡本久美子の記述では、このデーモンを「アラビアン・ナイト」などによく出てくる「良い悪魔」だとしているが、さて、本当にそのとおりであるかは、容易に決めがたい気もする。では、なぜ「デーモン」などという誰だってワルだと思うような名前をつけるのであろうか。名前だけに騙されるなということなのか。確かに、筋をみる限り、デーモンは悪さをする風でもなく、アル・カジムを助けているようだ。

しかしデーモンは、アル・カジムに謝意を示す方法を問われて、「生命の赤いりんご」を要求している。これがいかなるものであるかは、劇中には明確に示されないようだが、これが問題であろう。先の岡本は、これをペルシアの「外魂伝説」に関係があるとし、デーモンは不完全な存在であり、アル・カジムからリンゴを貰うことで、完全な存在として永遠を生きることができるようになる・・・としている。なるほど。だが、この話はどこかグロテスクな読み方もできる。というのは、次のようにも考えられるからだ。つまり、このときをこそ、デーモンは狙っていた。デーモンはやはり、文字どおりのデーモンでしかなく、アル・カジムからリンゴを奪って、その国にとってかけがえのないもの(それがアル・カジム自身かもしれない)を手に入れて、愚かな人間たちを支配するのだ!

このリンゴが、ストラヴィンスキー「兵士の物語」におけるヴァイオリンのようなものだとすればどうだろうか。デーモンがいかに苦労し、アル・カジムや他の者たちがなにを手に入れたとしても、このヴァイオリンさえ手に入ってしまえば、デーモンの思いのままになるのだとすれば、彼らは結局、お金ばかりたくさん手に入れても、ついに何に使っていいのかもわからない、「兵士の物語」の主人公の途中の境遇に似ているのではなかろうか。そこまでダークに考えないとしても、リンゴが何であり、デーモンが何であるかがはっきりわからない限り、この疑いは消えないのである。

【欧州的なもの/中東的なもの】

さらに、プロットを彩るいくつかの要素がある。特集のジェンス・ブロックマイヤーの退屈な文章には、物語の中核をなすカップルが、ひとりはイスラームであり、もうひとりがユダヤ人だということを指摘している。ヘンツェが第2次世界大戦中のドイツで、どんな態度をとっていたかは詳らかではないが、戦後は反戦的な立場に身を置いている。彼らヨーロッパ人が中東に置き残した問題が、こうして取り上げられているのも皮肉なことだ。パレスティナをめぐるアラヴ人とユダヤ人の対立の問題が、ここに織り込まれているのは想像に難くないが、その代表であるアル・カジムとバディアトだが、彼らは結局のところ、初夜さえも共にすることなく、すぐさま引き離されることになる。そこに、「デーモン」なるものの意図が絡んでいるのも皮肉である。デーモンは一体、彼らをどうしようとしているのであろうか。

先程の話を踏まえると、次のようにも読めてくる。ヨーロッパ的にみると、悪魔に善人が唆されるドロドロした話、中東的にみれば、良い悪魔(ジン)が善人を助けてくれる美談・・・なんと皮肉なこと!

【去っていく3人の王】

3人の王たちの、どこか孤独な姿にも注目しよう。彼らは、それぞれに大事なものを手放したあと、魂が抜けるようにドラマの舞台から後退していく。アル・カジムたちの父王はルプパに夢中になり、末弟の働きで念願の鳥を手中にするが、それは放してしまって、あとを息子に託そうとしているようだ。バディアト姫の母王は、自分たちの庭に潤いを与えていたルプパをアル・カジムに差し出し、娘は助けてもらったものの、彼女も妃として出さなくてはならない。バディアトを奪ったもうひとりの王は、「後宮からの逃走」のセリムの立場を考えるとわかりやすいが、彼もまた愛しい者を失って身を引くことになる。しかも、大事な宝物までアル・カジムに与えてしまうのだから、気前が良すぎる・・・というよりは投げ槍になっているような印象さえ受けるのだ。この3人が演じる、ほとんど自滅的な消え方が、どのように描かれているのか観てみたい。

【結語〜幻想か現実か、あるいは・・・】

このように、劇を観るまえから、本当に見所がいくつもみつかるプロットの豊満さである。そして、ここには過去の大作曲家たちの音楽やオペラに対する、いくつかのイディオムも盛り込まれて、パロディ的な意味でも楽しみがありそうだ。特集の白石美雪は、この劇の筋の一部を「魔笛」になぞらえており、楽団もこれが気に入っているようだ。言うまでもなく、「魔笛」はモーツァルトの最後のオペラだ。ヘンツェも当時、この作品が最後になるかもしれないことを明言していたという。「遠ざかるカジムを見守る父親とバディアトの静かな後姿にはさびしさが漂う。(中略)夢中になって冒険を続けるカジムはかつての自分。そして黄昏の中に立ち尽くしている老王はいまの自分。《ルプパ》を自ら『最後のオペラ』と決めたヘンツェの惜別の思いが、このラスト・シーンに凝縮されている」と、白石は結ぶ。

だが、この作品を老人のみる悪い夢で構成されているのでは、と見ているブロックマイヤーは、同じ場面を、まったく別物としてみている。すなわち、リアリズムというキーワードを用いて、「ルプパ」は「彼の音楽にある夢のもつリアリティに私たちをいざなってくれる」と述べ、(中略)美しい庭園と神秘的な鳥が存在する世界に住みたいというヘンツェの願望が表せる形になっているこのオペラ」は、「引力を超越した音楽つまり無重力の音楽という彼の考えを表すもの」であり、「最後の場面の昼から夜へと移り変わる『青い時間』に、空を舞う鳥にそれが象徴されている。それでいて、じっと耳を傾けると、ここでもまた、大都市の反響音が遠くから聞こえてくることに気づく」と、白石とは対照的な合理性を謳う。

老作曲家の寂しさを同時に感じながら、白石とブロックマイヤーは、ヘンツェが最後に描いたアル・カジムの旅立ちに、まったく異なる感慨を抱いているのがわかる。多分、ブロックマイヤーは私が述べたような、ヨーロッパ的な見方を織り込んでいるのかもしれない。白石にはそのような観点はないが、アル・カジムの旅立ちには、どこか理不尽なものを感じている。もうひとりの岡本は、それは中東のおとぎばなしには付き物という感じで、すこしも不思議がっていないので面白い(というよりは、読みが浅すぎるというべきか)。

あとは、実際の舞台を観てからの判断すべきだろう。
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