2008/6/22

アンチェル ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」 CPO/1961年  CDs

カレル・アンチェルが1961年に、チェコ・フィルと録音したドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」のディスクが、XRCD化されて再発売されている。それを買ったわけではないが、以前から所有していた通常版のCDを聴きなおしてみた。

【わたくしごと】

これを手にしたのは多分、4−5年ほども前のことだが、当時、私はこの録音にさしたる魅力を感じなかったので、ラックのなかに長く納まっていた。この頃は、私にとっては、クラシックを本格的に聴き始めたという時期に当たる。その後、ピリオド演奏が急速に常識化し、私の好みもそちらにつよく傾倒し、のちの下野竜也のように、「新世界より」をピリオド的に演奏するなどということは考えてもみなかったが、よりシャープな演奏を求めて、満ち足りない感じがしていた。そこへ、弦の響きを極限まで抑え、音符をスキーのスラロームの旗門に見立てたようにして、小回りしながらアクロバティックにタッチしていく下野&読響の演奏が、私に衝撃を与えた。こうして聴くドヴォルザーク最後の交響曲は、名旋律に満ちみちた田舎くさい交響曲ではもはやなく、現代音楽にも擬せられるような、恐るべき一歩を踏み出した大傑作としてイメージされた。

【演奏の特徴と聴きどころ】

さて、アンチェルである。私は最近、この古いディスクを聴いて、以前とはまったく別ものを聴いたような衝撃を受けた。この録音の特徴は・・・

@節々に巧みに織り込まれたチェコの風物。そのリアルな質感。
A上にも絡むが、弦の奏法や音色に織り込まれた、スコア外の様々な工夫。
Bベースとしてある響きの清々しさ。比類をみない響きのキレの鋭さ。
Cその上で展開されるデフォルメの深さ。
Dやはり感じられる、ドヴォルザーク最後の交響曲の新しさ。

こうした点に集約される。思いきって一口で言うとすれば、アンチェルの演奏は、スコアにいのちを吹き込む演奏だ。同じように下野の演奏を評すれば、スコアそのものを活き活きと蘇らせる演奏だ。この微妙なちがいを感じてほしい。私は、どちらが正しい演奏姿勢なのか、いまのところ結論を得ていないが、アンチェルの優れた録音が、現代的な演奏を地でいく下野の演奏を相対化する。

全編にわたって徹底した響きのコントロールが行き渡っているが、今回、特に感心したのは中間の2楽章である。ここでは有名な旋律線から焦点を移して、正しくチェコの透き通った空気が、弦のバックに乗り移っているのを感じたい。同じように、主要な部分から後ろに注目を移し、中間部を聴くと、軽く舞踊のステップを踏みながら、明るい霧がさっと広がっていく美しい光景がイメージされる。完全に明るくなる部分では、鳥たちが口々にさえずり、蛙たちが鳴き交わし、獣たちが走りまわる大地の息吹きが一挙に立ち上がる。このような部分の生感は、他の演奏ではなかなか味わえないものだろう。これらのイメージが浮き上がってから聴く冒頭の主題は、1回目とはまったく別もののように生命を感じさせる。

スケルッツォも、ひとつひとつの音符をしっかり踏みしめるような重みのある響きが印象的で、先日の、エリシュカの6番の演奏などを思い出させる。とりわけ、後半のトリオが面白く、馬のいななきなどが聴こえる独特の雰囲気は、やはり、その土地を知り尽くした者だけがイメージさせられる質のものであろう。両端の激しい部分では、舞踊のリズムが強烈に効いている。それをダシに使った最後のブレイクは、マーラー並みだが、ここで一気に第1楽章の最初の場面に戻って、船が祖国に辿り着いたような快活なファンファーレになるまでの、テキパキとした構築は正しく得がたい。

【楽曲について、両端楽章の演奏の特徴】

ここで、「新世界より」の全体像を考えてみたい。ノスタルジックな第1楽章の開始は、汽笛のようなホルンの響きが印象的なこともあり、船上の風景をイメージさせる。波おだやかな夜の海というところであろうか。ドヴォルザークの時代は既に蒸気船だろうが、帆船の時代の遠い記憶から、静かな海は航海にとっての安心であると同時に、停滞をも意味する。波もない凪のイメージを抱きながら、打楽器を伴って、チェコの大地の巨大なエネルギーが、ドヴォルザークの郷愁を激しく衝く。場面はスラヴの草原に移り、勇ましい民族の気高さが、リズミカルな舞踊のリズムで描かれる。前半では勇ましさ、後半では陽気さが強調されている。最後のギャロップは、これらの要素が程よくミックスされている。

第2楽章のラルゴでは、「家路」として知られる旋律線もあるように、強いノスタルジーが、聴く者に対して正面から訴えられるのだが、スケルッツォは、それを裏返したようになっている。船は、いよいよ祖国に近づく。終楽章のアレグロ・コン・フォーコは、序奏が除かれているが、第1楽章に似たようなつくりになっている。クラリネットを中心とした、いわゆる第2主題は、ヴェルディの影響(例えば、『運命の力』の序曲の一部を想像させる)を故意に利用しているような感じがする。それがいつの間にか、スラヴ民族的なものにすり替わっていく。これに限らず、ベートーベンの引用とも考えられる部分も複数あり、それらが自らの主題と組みあわされ、祖国の描写に埋め込まれているのが面白い(もっとも、これは終楽章に限ったことではなく、いろいろと論じどころがある)。

結局、しまいは祖国に辿り着いたことを想像したドヴォルザークの、再び祖国に立てたことの力強い感動が表現されているかのようだ。これらは祖国の自然、馬のギャロップ、舞踊のリズムなどのナチュラルな様子と、機関車などに彩られた近代社会のイメージが、巧みに重ねあわされている。例えば、コーダの最後の部分は、大草原に馬を走らせて去っていく感じともとれるが、機関車が汽笛を鳴らしながら、スラヴの草原のなかを走り抜ける風景ともとられるのである。

【アンチェルの卓越したバランス感覚】

前置きが長くなったが、アンチェルの両端楽章は、こうした叙事詩的な雰囲気(しかし、これを叙事詩というのは相当に工夫した言い方で、叙景詩・抒情詩と見られる雰囲気も多分にある)をイメージさせる。第1楽章は録音にやや問題がある部分もあり、尻上がりという感じがするのだが、終楽章は終始、緊張感が途切れることがない。特に、後半のポエジーのゆたかさは、ほとんど隙なく完璧に、音として表現されているように思われる。しかも、デフォルメがない。一見、強烈なリズムと、民俗性がゆたかに彩られた奔流のような響きだが、そこに組み込まれたドイツ的な響きの整然たる構築感が、しっかりと意識されていることは見逃されがちかもしれない。その間のメリハリが、このアンチェル盤では実に鋭いのである。

ベースとしては、きわめて清潔なノン・ヴィブラートの響きがあるにも関わらず、要所でのヴィブラートの華々しさや、レガート奏法、ポルタメントなどが、鮮やかに、しかも無駄なく、上品に効果を上げているのが、特筆に値する。このような奏法は、現代では排除される方向にあり、下野の演奏などは、正しく、そのような装飾のないところで、ドヴォルザークの書いた音符がどのように輝けるのかを、極限まで追求した響きになっている。

こんな発見は、世間的には何でもないことなのであろうが、私としては、少しく新鮮なのだ。エリシュカのような「生き証人」がやる場合はともかくとして、もはや現代人がアンチェルのような演奏に立ち返ることはできないが、そこには、ヒントがある。名盤とされるディスクだが、もしもお持ちでないならば、XRCD化された再録は狙い目であろう。私としても、この世界でいちばん有名な交響曲を聴く楽しみが増えたというものである。
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2008/2/24

幸田浩子 初のソロ・アルバム モーツァルト・アリア集  CDs

ソプラノの幸田浩子さんが、ようやくというべきなのか、DENON(コロムビア)から録音デビューを果たしました。できれば、2、3年前に1回入れておきたかったですね。彼女のキャリア初期の頂点を迎え、新国「ホフマン物語」のオランピア役やガーシュイン「キャンディード」のクネコンデ役で、揺るぎない評価を得た彼女の黄金時代。抜けの良い高音の軽妙な響きが、信じられないくらいに美しく、酒脱だったものです。その後、彼女の声はやや成熟し、一昨年の7月末、小森輝彦とのデュオで歌ったリゴレット役で、そのことが確かめられました。このあたりまで、私は彼女のことを知っていますが、それから少しご無沙汰しました。しかし、このアルバムも、その延長線上にしっかり位置づけることができるでしょう。

デュオ・リサイタルのとき、「今後は、ピチピチして若々しい彼女の声も、いささか熟成に向かっていく方向にあるらしい」という見立てをしたのは、当たらずともというところだったようです。それは私の感覚が鋭いなどということではなく、自分の声をどうもっていくか、あるいは、つくっていくかということに対して、彼女が明確なヴィジョンをもって歌っていたことの表れであろうと思います。いつまでも、可愛らしいツェルリーナでいるわけにもいかないでしょう。今回のアルバムは、幸田浩子の本当にスイートな時期の記録ではなく、これから彼女がなにを目指し、どんな方向に進んでいくのか、その前の磨きかけの原石の美しさを披露するもののように思えます。

アルバムは、モーツァルトのもっとも素晴らしいモテットにして、かつ、最難曲のうちに入れるべきと考えられる「エクスルターテ・ユビラーテ」に始まります。ここで我々は、以前よりもずっと重みのある中低音を開拓しつつある、幸田さんの姿に気づくはずですが、最初の1曲は少し硬さも残っていますね。レチタティーボは、その部分がしっかりした支えとなり、緊張感に満ちて素晴らしい。〈聖処女の冠よ〉〈アレルヤ〉は、現時点での彼女の到達点を示す基準点であり、「かつての彼女」(抜けのよい清々しい高音)と「現在の彼女」(ふくよかで艶のある中低音の開拓)のバランスがうまくいっています。特に、〈聖処女〉しまいの淑やかな弱奏から、気品ある〈アレルヤ〉が立ち上がる受け渡しの部分が秀逸です。

このアルバムの優れている点は、言葉と表現に対する幸田さんの拘りが、隅々まで行き届いている点です。言語はイタリアとドイツですが、それぞれのお国柄からすると対照的に、イタリア語ではフォルムがカチッカチッと決まっており、二期会員らしい言葉への執着が聴き取れる一方で、ドイツ語ではぐっと情熱的で、一語一語に体重が乗っている感じがします。これは、歌っている曲目にもよるでしょう。

スザンナとツェルリーナに対して、コンスタンツェと夜の女王という対照的なレパートリーが並ぶのも、このディスクの面白さです。スザンナやツェルリーナでは、かつてよりも女の芯の強さみたいなものが、よりはっきりと前面に出てきています。とりわけ「薬屋の歌」の最後の艶かしさは、男性のファンには堪らない部分でしょう。思わせぶりな伴奏の助けもあり、とても官能的に仕上がっています。コンスタンツェや夜の女王では、彼女たちのなかにある迷いや、悲哀のようなものを、表面的な強さと対置して、見事に、奥ゆかしく表現しています。コンスタンツェのアリア「あらゆる苦しみ」は、モーツァルトの書いたアリアのなかでも、特に難しいアリアのうちに入るでしょう。技術的なものや音域の問題もあるが、まず歌詞からして歌いにくいのです。完璧とはいわないものの、幸田さんは大事なキーワードを上手に織り込みながら、自在なディクションで、コンスタンツェの強さと弱さを同時に表現し得ています。夜の女王は、やや迫力不足でしょうか。

幸田さんは演技の人という感じがしていたけれど、歌曲風の歌いまわしが特徴的な、「劇場支配人」のアリア〈若いあなた!〉が、意外に良いのですね。楽曲への共感がよりナチュラルで、楽しそうに歌えています。こういうときの幸田さんは、本当にいい。アルバムの終盤には、そうした曲目が並んでいます。モーツァルトの大曲「ミサ曲ハ短調」のクレドにあるソプラノ独唱〈精霊によりて処女マリアより御体を受け〉は、宗教曲というよりは、女としての聖母への共感が、優しく滲み出ています。これは、夜の女王の、隠された母親としての顔とも共通し、このパートをモーツァルトのコンスタンツェ夫人が歌ったされる伝承から考えても、プログラム構成としても興味ぶかいところがあります。

最後は、名曲中の名曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」で、しっとりと締めています。技巧的なコンサート・アリア K.418 などと比べて、いまの彼女は、こうした曲目をゆったり歌いきることに賭けているように思えます。全体的に若いアーティストが陥りがちな、スポーティな表現ではなく、今回は(オケがつくといっても)1人だけの歌なのだし、たっぷりと自分の感情をのせて聴いてもらいたいという意図が明確です。その分、時折、かつてのような切れ味の鋭さが犠牲になっている感があるものの、全体としては、とても味わい深い録音に仕上がっていると考えます。本来、幸田さんは相手役を得て、どんどん輝きを増すところにも魅力があるのですが、それは次回以降の楽しみとしておきましょう。

伴奏は、先ごろ新日本フィルにも客演し、わが国にも若干の足跡を印していったチェコの若手指揮者、ヤークブ・フルシャが指揮するプラハ・フィルハーモニア。ビエロフラーヴェクが育て、いまはフルシャが受け継いでいるが、ケラスやファウストの録音のバックでも活躍する、国で随一のハイテク集団です。ただ、今回の録音では、音色などの美しさでは聴きどころもあり、温かみのある響きが優しげなのに、全体にやや重めであるのは気になるところです。

ここのところ、こうしたソロ・アルバムが流行っており、バルットリ、カサロヴァ、ヴィリャゾン、ダムラウ、ジェンキンス、ヘイリーなど、数多くリリースされています。日本人では、ほかに森麻季といったところが期待されているようです。フリットーリはともかくとしても、ただ叫ぶばかりで聴いてられないダムラウや、勘違いしたカサロヴァのインチキなオッフェンバックと比べると、自分が大事に育ててきたところを真摯に歌った幸田さんの録音は、とにもかくにも繰り返し聴くに堪えるものに仕上がっていますし、彼女のこれまで、いま、そして、未来を貫くプロの仕事として評価することができます。それは同時に、良くも悪くも一回きりの、ヴィジュアル系アーティストとの違いも示していますね。
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