2009/7/17

ピアノ小品 シャブリエ「アルバムの綴り」 ムソルグスキー「最初の罰」  クラシックの名曲たち

今回は、チャーミングなピアノ小品を2つ紹介します。

【シェブリエ アルバムの綴り 1891年】

 参考録音:アンジェラ・ヒューイット(Hyperion)

エマニュエル・シャブリエは若いときからピアノの才能に秀でていたようですが、人生の当初は、父親のつよい願いもあり、内務省の官僚となっています。今回、紹介するムソルグスキーもはじめは軍人になったのですが、2人ともその傍ら音楽に対する情熱も人一倍だったといえます。アマチュア音楽家から名前を遺した作曲家としては、シャブリエ、ムソルグスキーのほか、ボロディン、リムスキー=コルサコフなどがいます。

アマチュアというと、どういうイメージがありますか。下手の横好き、しょせんは二流、プロになりきれなかった・・・そうした悪いイメージよりも、私の場合、単にプロではない人という感じが強いですね。プロだから偉いとは限らないし、アマチュアがプロを批判できないということもない。例えば石川遼は、プロをしのいで、ツアーで2度も優勝しました。プロとはその道でカネを稼ぐ人であって、アマチュアリズムはカネとは別にその道を究めることであります。道を究めるということでは、プロとアマチュアは同じ道の上にあります。アマチュア・スポーツの祭典であるオリンピック(最近のオリンピックは多分にプロ的ですが)をみても、そのことは明らかです。

さて、シャブリエは39歳のとき、音楽家として完全に転身することを決めたのですが、彼の寿命は53年と長くはなかったので、今日、評価される作品としては、歌劇「エトワール」をはじめとして、狂詩曲「スペイン」、「田園組曲」、ピアノ小曲集「絵画的な10の小品集」など、さほど数が多いわけではありません。しかし、それぞれの作品に施された気の利いた意匠は、同時代のフォーレやヴァンサン・ダンディといった作曲家の作品に見劣りするところはありません。

この「アルバムの綴り」は、遺作として収められている5曲のうちのひとつです。「アルバムの一葉」などとも訳されます。2分ちょっとの短い、本当にとるに足りないようなシンプルな曲想の作品で、ノスタルジックでチャーミングな旋律が、ゆったりと広がっている作品です。ラヴェルは「逝ける王女へのパヴァーヌ」について、シャブリエからの影響を明言していますが、それと対応するような雰囲気のある作品です。でも、それよりもずっと素朴で、飾り気のないこんな作品を書けたのは、シャブリエが若いころのアマチュアリズムを捨てていなかったせいであると思います。

アマチュアの精神は、ときにプロよりもいいものをもたらすのです。

【ムソルグスキー 最初の罰 1865年】

 参考録音:ブリジット・エンゲラー(harmonia mundi)

モデスト・ムソルグスキーの「最初の罰」は、2曲から成る「子どものころの思い出」に収められています。第1曲は「乳母とわたし」、第2曲が「最初の罰」です。「乳母は、わたしを暗い部屋の中に閉じ込めた」という副題がついています。なお、チャイコフスキーにも「子どものころの思い出」という作品がありますが、それにインスピレーションを受けたものかどうかは、私にはわかりません。

これも3分ほどの短い作品で、やはりとるに足りないような単純な構造の小品です。少年の頬を伝うような涙が描写されるかのような序奏、そして、暗闇のなかで不安に駆られる想いを示したかのような、メランコリックな曲想がそれにつづきます。しかし、よく注意して聴いていると、そこには閉じ込められた子どもの側だけではなく、閉じ込めた乳母のほうの心情も同様に描かれています。子どもに罰を与えるのに、嬉々として喜んでいるのは一部の人格破綻者だけなのです。子どもたちも、その愛に気づいています。

結局のところ、作品には、閉じ込められた者と閉じ込めた者のこころのつながりが描かれているのです。暗闇の不安に怯える子どもの心情は、中で怖がっているであろう相手を気遣う乳母の心情と重なっています。閉じ込められた原因を後悔する子どもの気持ちは、乳母自身が愛する者を閉じ込めたという罪の意識と、ぴったり背中あわせになっています。そして、暗い部屋の内と外で、彼らは確かに愛し合っているのです。

最後、感情の昂ぶりを示すように激しいトレモロが打たれますが、締め括りの一打は、ついに扉を開けた瞬間に、きつく抱きあった子どもと乳母の姿をイメージさせます。

この作品のことを実は詳らかに知らないので、こういうイメージが合っているのかどうかはわかりません。しかし、私にはそのようにきこえるのです。

ムソルグスキーも、「ボリス・ゴドゥノフ」のような凄い作品の書き手でありながら、その作品には未熟なものも多く、作品をみたリムスキー=コルサコフやラヴェルのような作曲家は、嬉々として彼の弱点をカヴァーし、後世に「展覧会の絵」や「禿げ山の一夜」を残すことになります。しかし、私は、ほとんど無防備ともいえるような原曲の「展覧会の絵」が好きなのです。この「最初の罰」という作品も、あまりに作為がないゆえに、かえってムソルグスキーのリリシズムの特徴を雄弁に物語っています。
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2009/7/9

ヨーゼフ・シュトラウス ポルカ・シュネル 憂いもなく (1870年)  クラシックの名曲たち

 参考録音:
  クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル

ヨハン・シュトラウス(父)の3人の息子たちのなかで、今日、もっとも有名なのは同名の長男です。彼は俗に「ワルツ王」と呼ばれ、もっとも作品が多いですし、例えば、ウィーン・フィルの新年のコンサートでも毎年、もっとも多くの作品が演奏されています。また、舞台芸術のなかでも重要な位置を占めています。しかし、このヨハンがイチローのようなアベレージ・ヒッターだったとすれば、弟のヨーゼフ・シュトラウスは、より人々のこころに突き刺さるようなホームランを打てる天才打者だったのではないでしょうか。

それは例えば、シュトラウス・ファミリーのワルツの形式から、そう大きくは抜け出ていないにもかかわらず、どこかはみ出たようなスケールを感じさせる「天体の音楽」1曲を聴くだけでも明らかだと思います。兄同様、結局は200以上の作品を遺した多作で、職人的な作曲家だったことは否めないとしても、兄の作品より、ヨーゼフの作品は人間の内側に鋭く切り込んでいくような、深い要素をもっています。

父の教えに従って進んだ実業界に、大いに未練のある弟へ発破をかける言葉だったのかもしれませんが、兄・ヨハンは自分よりもヨーゼフに、よりゆたかな才能があると語ったとされているぐらいです。

【1870年ごろのオーストリア】

ポルカ・シュネル「憂いもなく」は、1870年の作品です。原題は、”Ohne Sorgen”となり、直訳して「憂いなく」ですが、間に「も」を入れることで、より優雅で、余裕綽々たる雰囲気になっている訳題でしょう。

1870年はどういう年だったかというと、まず1月に、1837年に発足したウィーン楽友協会の尽力で、今日につづくムジークフェライン・ザールが開場しています。同じ年、かつて領邦だったプロイセンはフランスとの戦争に突入しますが、1866年の普墺戦争の敗北により帝国から弾き出されていたオーストリアは、幸か不幸か、関係がありません。

この時代、オーストリアは興味ぶかい状態に置かれています。まず、政治的にみると、どうやら凋落の一途を辿っていきます。先の普墺戦争の結果、自立を危ぶまれた国家はハンガリーとの関係を強め、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成することで、ようやく生き残りを図るという状況です。かつて欧州の中心的な位置を占めたハプスブルク帝国の勢威はもはやなく、政治の表舞台から、オーストリアの重要性は削られてしまいそうな状勢です。

しかし、経済や文化の面でみると、どういうことか、上昇局面にあります。市壁が取り払われて都市の再開発が企図され、工業化や、鉄道など交通インフラの整備が一気に進みます。ウィーンの人口は、1869年の63万人から、僅か40年ちかくの間に3倍以上に増加することになるのです。1873年にウィーン万博が開催されるように、当時のウィーンはなかなかの勢いだったのです。

世紀末ウィーンは政治的な没落傾向にもかかわらず、そのように不思議な活気に満ち溢れていました。万博の年、ウィーンの株価が大幅に下落したというのに示されるとおり、勢いはさほど長続きしませんでした。とはいえ、ポルカ・シュネル「憂いもなく」は、そんな時代の風景を遺憾なく物語っています。そのなかで、ヨーゼフ・シュトラウスは一体、どんな時代観をもっていたのでしょうか。

【隠れているメッセージ】

ヨーゼフは、技術者の出身です。彼らの父、ヨハン・シュトラウス・ファーターは、音楽で身を立てることは難しいことを身を以て知っていたので、、息子たちがその道を歩むことを望みませんでした。ヨハンはそれに反発して自らの楽団を組織し、一方、ヨーゼフはその忠言の正しさを認めて、技術者の勉強をしました。音楽家としてよりも、テクノクラートとして国家に貢献していきたいと考えていたであろうヨーゼフにとって、彼の同僚たちが成し遂げるであろうウィーンの発展を、つよく信じることは自然だったと思います。

確かに、「憂いもなく」には、太鼓がゴーン、ゴーンと鳴り響き、突貫工事でウィーンの開発が進んでいることが示されます。そして、「ハ、ハ、ハ、ハ」という笑い声によって、ウィーン市民の自信と達成感が象徴的に描かれてもいます。

しかし、同時に、この作品はすこしアイロニカルでもあります。例えば、2分にも満たない演奏時間は、この景気が一時のものでしかないことを示しているのかもしれないし、そのためにわざわざ「ポルカ・シュネル」という急速な曲のスタイルが選ばれている可能性もあります。

参考録音として挙げたクレメンス・クラウスの演奏は、耽美的なウィリー・ボスコフスキーの録音などと比べると、より厳しさのある演奏といえましょう。そこでは軽快なノリのなかにも、なにか張り詰めたものが感じられて、ウィーンの再生にかける市民の情熱と、「こんな時代は二度とないから、いまを生きろ」というようなメッセージが伝わってきます。

この時代の美点は、野心的なビスマルクの治めるドイツ人国家から切り離され、戦のつよいハンガリー人と結びついたことで、戦争の驚異からウィーンが遠ざかったことです。太鼓の響きはしばしば大砲の音に擬せられましたが、この曲では、それが大槌で鉄棒を打ちつけるような音に取って代わっています。大砲は遠ざかり、都市建設の響きがちかくにやってきたのです。ヨーゼフは、そのことにも注目したと思います。

【まとめ】

こうして見ていくと、数分にも満たない「憂いもなく」のなかに、抱えきれないくらい多くのメッセージが潜んでいることがわかります。これを読み解こうとしないことには、シュトラウス一家のウィンナー・ワルツは面白くも何ともないのですが、「憂いもなく」もその例に漏れません。

この作品は、ワーグナーが「ラインの黄金」を示し、ヴェルディが「ドン・カルロ」や「アイーダ」を上演し、また、ブラームスが「ドイツ・レクイエム」を初演するような時代に書かれているのですが、たった数分にして、それらの作品と向きあうだけの力を持っているといっては、さすがに言いすぎなのでしょうか。
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