2009/5/9

ロベルタ・マメリ ソロ・コンサート @日本福音ルーテル東京教会 5/8  声楽

5月8日、新大久保にある小さな教会で、ソプラノのロベルタ・マメリのリサイタルを鑑賞した。

彼女は「熱狂の日」に参加したラ・ヴェネクシアーナを代表するソプラノ歌手である。日本では、波多野睦美などの参加する「都留音楽祭」に講師として招かれた折、静かだが熱狂的な評判を呼んだほか、昨年まで行われていた目白バ・ロック音楽祭のラ・ヴェネクシアーナの公演でも話題となり、この2月にはマスタークラスとリサイタルで、その評判を確固たるものとした。波多野、つのだたかしとともに、「アリアンナの嘆き」を外題に録音までしており、その評価も高い。今回、「熱狂の日」音楽祭にラ・ヴェネクシアーナが招かれたため、マメリのソロによるアンコール公演が実現したものと思われる。

ベテランのリュート奏者、つのだたかしが伴奏についたわけだが、デュオとはせずに、敢えて「Solo Concert」としているあたり、つのだ等、主催者の想いが感じられる。

【マメリについて】

このソプラノはまだ若いが、歌唱のテクニックは天才的なものがあり、よく鍛えられてもいる。ヴァイオリンも習った経験があるのが影響しているのか、弦と響きあう声質の柔らかさ、そして、精確な音程を誇っている。少なくともイタリア語のディクションは図抜けて素晴らしく、これほどしっかりと歌詞の聞き取れる歌手もさほどいない。特にソプラノは、高音では歌詞が聞き取れないのも当たり前だという雰囲気があるが、マメリの歌を聴いてしまうと、そういった「常識」は一変するだろう。

さて私は、マメリの歌は、海底からてっぺんだけ少しあたまを出す、火山をイメージすればいいと思う。私たちが直接、聴くことができるのは、ほんのてっぺんの部分に顔を出すスイートな部分だけだ。しかし、水面の下に隠れている巨大な火山の存在を「感じ取る」ことはできる。つまり、実際は声にしていないどっしりした低音の支えが、彼女の美しいソプラノの響きを支えていることが、誰にでもわかるような歌なのだ。

これは実は、ラ・ヴェネクシアーナのリーダーであるクラウディオ・カヴィーナとも共通する(指導を受けたのかもしれない)。彼はマメリほどの美声ではないが、通常のカウンター・テノールと比べてより高い音域まで、ファルセットを使わず、自分の声を使っていることがわかる。そして、そのひときわ高いテノールの頂に達するまで、先程の譬えでいえば、火山の部分がしっかりできていることを確認できるのだ。ソプラノと役割がちがうので、その部分も実際に使うから、「海底火山」ではなく「陸上の火山」というべきだろう。ソプラノとカウンター・テノールというちがいこそあれ、このことが歌の響きをまろやかにし、自然な発声として聴こえる秘密になっているのではないかと思う。

【バロックの限界に挑む】

ところで、バロックというのは、どういう音楽だろうか。私は現代音楽にも近い「何でもあり」の世界だと思っている。シャルパンティエ、ラモー、リュリ、ヘンデル、そして、モンテヴェルディやジェズアルドなど、多くの作曲家の作品からは、かなり自由な発想が窺えるからだ。しかし、たくさん聴いていると、段々ちがいがわからなくなってくることもある。和声やその進行、作品を彩る雰囲気、楽器法、ひいては音色などに制限があり、楽器の物理的制限からできないことを含め、今日的な音楽からみたときの音色やエピソード、ダイナミズムのゆたかさからすると、やはり、一定の限界があるからだろう。

したがって、バロックというのは、限りない自由のなかで与えられた、ちょっとした自由・・・と考えてはどうだろうか。

今回、マメリが歌った曲目は15世紀後半生まれのフィリップ・ヴェルデロがもっとも古く、歿年で比べると、1679年(17世紀後半)のG.Fサンチェスが、もっとも下った時代の人ということになる。バロック、もしくは、それ以前の音楽というべきだろう。この間に200年ちかくの歳月の流れがあるにしても、音楽の発展は、ここ20年のそれと比べて、はるかにゆっくりしている。誤解を恐れず、ざっくり言ってしまうとすれば、どれも同じような音楽だということである。

しかし、もちろん、それは暴論であって、それぞれの作曲家に個性というものはあるはずで、それはマメリの歌唱でよく理解できた。本当に素朴なヴェルデロの音楽と、正にその時代の粋を凝らしたようなディンディア(約1582-1629年)の作品では、まるでちがうはずだ。否、同じにしようとすれば、できなくもないのだろうが、マメリの歌は、そうはさせない。それが、正しい姿勢であろう。バロックの限界は限界として、それをむしろ良いものとして穏やかに演奏するか、逆に、その限界を音楽家が打ち破れるものと信じて、こころを込めて歌うか。各々が正しいあり方だとは思うが、私は後者のほうにより大きな魅力を感じるのだ。マメリは、その行き方である。

【古い時代から並べただけだが・・・】

とはいえ、ヴェルデロの作品がいちばん最初に置かれたということは、なにか運命めいたものを感じる。否、今回のプログラムは概ね、古いものから並べて、漸次、時代が下るように構成されている。唯一の例外は、やはり、ここに並ぶ名前のなかではもっとも知られている巨人、モンテヴェルディを、やや時代の新しいG.G.カプスベルガーやG.F.サンチェスと入れ替えて、メインに持ってきていることである。それだけのことなのだが、マメリの声を追っていくにも、また、時代やそこに流れる精神の対比を追っていくのにも、このプログラムは意外と核心をついたものになっているようだ。

例えば、ヴェルデロの作品「天使のような微笑みで」は、その微笑みで愛を拒むオトコへの恨み言をうたうが、そこに与えられた表現は意外と穏やかで、声も感情もゆったりと推移していく。同じく「逃げるのだ 私の心よ」は、「逃げるのだ 私の心よ」「盲目の愛の運命は 虚しさを悔い 悲しみのうちに終わるだけなのだから」というタイトな歌詞に対し、相当に寛いだ、明るい響きが当てられている。まず、こうした曲目を涼しげに歌い上げるマメリの美声を、我々はゆったりと堪能した。

これは、会場である教会堂の雰囲気にもよく合っており、プロテスタントの控えめな美しさを湛える、新しいが、十分に機能的で、落ち着いた雰囲気のある空間に、自然にとろけていった。

つのだのリュート・ソロを挟み、「アヴェ・マリア」(真作でない?)で知られるカッチーニの作品になると、がらりと風景が変わる。「アマリッリ、麗しの君よ」で代表されるように、そこには、ヴェルデロの作品からみると一ひねりも二ひねりもした世界が広がっており、ルネッサンス文化の爛熟したメディチ宮廷で歌われるに相応しい、謎めいたポエジーが広がる。感情の表現はより直裁になるが、そこにはまだ、はっきりとは言わないという美徳がある。懐の奥に愛の短剣をしのばせたような、マメリの歌唱は一段と深みに満ちて、味わいぶかい。

つづくディンディアになると、表現はかなり明けひろげになる。技法的には未だ素朴なものが多かったここまでの作品に比べ、当時の最先端をいくような新しさも感じられ、技巧的には相当に難しそうなものになっている。アジリタやフレージングといった問題もあるが、表現の押し引きをバランスよく決めるには、かなり精緻な表現のデザインが必要と思われるのである。

例えば、「この槍よ この弓よ」の前半では、女王・ディアーナに対し、槍や弓、黄金の矢を捧げるという内容を反映し、ソプラノとはいえ、メッツォやコントラルトに迫る勇ましい歌唱をみせている。声量も凄い。だが、後半はそのディアーナの栄誉を讃える歌詞であり、とろけるように柔らかく、かつ、敬意に満ちている。この硬軟の入れ替えの凄まじさは、全編のなかでも、かなり印象的だった。そうかと思えば、「天球よ 止まれ」では、カルメンを思わせるような妖艶さで、ミステリアスな空間を演出し、そこに「天球」というキーワードを埋め込むことで、ダイナミックな表現を誘う。こうしたバランスの難しさは、音やリズム、和声の緊張に支えられ、ディンディアの作品の特徴をなしている。

【様々なる嘆き】

パフォーマンスも、後半に入る。ここまでの歌唱で明らかなように、今回、取り上げられた作品は恋が実った喜びとか、男女の幸せな一時について歌うものもなくはないが、ほとんどは、恋人にふられたり、相手にされなかったり、自らの真心に振り向いてくれない、死にそうなのに恋人にそれを伝えられない、自分の想う人はほかの人が好きとか、そういう残念な方向のものが選ばれている。イタリーというと、やたら能天気なイメージがあるものだが、ここで歌われた作品は、ままならぬ愛のなかでこそゆたかに輝く、「嘆き」の歌が多いのである。

さて、それらを一気にまとめ上げるメインに置かれたのは、モンテヴェルディの作品、とりわけCDの外題にも選ばれた「アリアンナの嘆き」であることは言うまでもない。

だが、その前に、リュート独奏による2曲のトッカータ(地動説のガリレオの弟、ミケンランジェロ・ガリレイと、G.G.カプスベルガーの作品)による小さなプレリュードにつづいて、G.F.サンチェス(約1600-1679年)によるそこはかとなく哀切な、嘆きの作品「他の男が暴君のように」で、最初のクライマックスが築かれる。

ラテン風の・・・といったときに想像されるものの裏に、いつも必ずへばりついている甘く、切ない響き(例えば、ピアソラを想像しよう)が、そこにあった。だが、フレーバーとばかりは言えず、実らぬ恋にあくまでもこだわり、「リッラ 冷たくして私を苦しめるがいい/歳月は私に『誠実な男』という名前を与えるだろう」という辛口の愛情表現が、ぴりっと効いているからだ。情感をしっかり込めて歌う表現は、ロマン派ほど見せびらかさないが、ヴェルデロと比べると、かなり手ごたえのあるものに成長している。ここまで歌うのも、マメリならではだろう。

楽器はキタローネに変わり、その冒頭和音のアルペッジオを聴くだけでも、その甘さと厳しさのバランスが感じ取れ、私は一気に胸を詰まらせたものだ。そこに入ってくるマメリもマメリで、その響きを敏感に感じ取って、既に作品世界に入り込んだ状態で忍び寄ってくるのだから、堪らない。

モンテヴェルディまで来ると、「オペラ」というキーワードが生まれてくるために、また表現が変わってくる。最初に歌った「ポッペアの戴冠」のアリア「さらばローマ」では、正しく追放されるオッターヴィア王妃の悔しさが滲んでいた。オペラ全体としては消失してしまった「アリアンナ」のナンバー、〈アリアンナの嘆き〉であるが、有名なナクソス島のアリアドネのエピソードなので、これもよくわかる。マメリの高貴で、透き通った、しかも、ごく僅かに、自然にゆれるような響きで、この「嘆き」を歌われると、正に、アリアンナがその場にいる雰囲気さえしてくる。アリアンナとして描かれているキャラクターのパーソナリティが、彼女の歌い方にぴったり来るからだ。

ときに人間は、喜びや幸福のために生きる。だが、実際に喜び、幸せであることができる時間は、ごく僅かだ。そして、そうはいかないことに、我々は嘆き、それに耐えながら生きている。「嘆き」を歌うことは、むしろ、我々にとって身近なことだし、そこをみることで、時代の様相がわかってくるのだ。喜びや幸せは普遍的でわかりやすいが、嘆きは複雑なものであり、そこを表現するのに費やす芸術家のイマジネーションも個性に満ちみちている。そこにこそ、今回の表現の肝はあるのかもしれない。

【芸術家、聴衆、そして場所】

今回、マメリ・つのだという音楽家とともに、聴き手はきわめて濃密な時間をすごしたといえる。ここに集った人たちは、2ch掲示板のように足を引っ張り合うような存在はなく、温かく、ゆったりと寛ぎ、かつ、厳しい表現の受け手であり、発信者だった。我がちに拍手をするようなこともなく、示し合わせたように、作曲家ごとにまとめて歌ってもらい、おわると、それを慈しむように賞賛した。G.F.サンチェスのあとは、歌から自然に導かれる溜め息が、拍手の代わりだった。ひとつだけ割れたのは、ポッペアのあとに、拍手をするかどうかに迷ったことぐらいだろう。

既に、すこし述べたように、場所も良かったのではないか。適切な器の大きさ、音楽専門ではないが、こうした古いレパートリーをやるには相応しい音響、そして、適度にひろく、寛いだ空間。クリスチャンでなくとも、十字架を前に、なんとなくこころも穏やかになる。歴史上のローマ教皇たちが、こうした空間の最上級の場所(とはいえ、もっと豪華なカソリックの空間だが)にいながら、しばしば邪心を起こし、いかにも世俗的な騒乱に明け暮れたのは驚くべきことだ。

そういう環境にあって、マメリもリラックスして歌えているのがわかった。安心できる伴奏者の、つのだの存在も重要だったにちがいない。本当は、ここに波多野睦美の存在もあるはずだが、新国で「ポッペア」の公演が控えていることから、泣く泣く諦めたものと思われる。なお、彼女が歌うのも、オッターヴィアだ。

声楽家が自分の好きな曲をこころを込めて歌うリサイタルは、やはりいいものだが、そのなかでも最上級の賛辞を捧げたい公演だった。
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