2009/7/26

小森輝彦 & 佐々木典子 オペラ・アリアの夕べ 2009 @トッパンホール 7/25  声楽

トッパンホールはこの時期、実力ある数人の歌手を選んで、企画からパフォーマンスまで自由に任せてしまうコンサートを、毎年1回ずつおこなってきている。今回は、小森輝彦と佐々木典子に白羽の矢が立った。

毎夏、帰国してリサイタルをおこなっていることからもわかるように、小森は良質な歌い手であると同時に、企画力がある。今回の公演も小森の影響力が強いと思われ、プログラミングにもそれは窺われるが、小規模公演ながら字幕をつけるアイディアは、小森のリサイタルと同じ形式になっている。彼はこのトッパンホールの企画には、3年前にも幸田浩子とともに出演したが、その公演で覚えた興奮はなかなか忘れられないものだった。イタリアとドイツの両方の歌唱法にベースをもつ彼だが、イタリア系の技巧的な歌唱に適性の高い幸田から、ドイツ的な歌唱に強いベースをもち、維持している佐々木に相手が変わったこともあり、今回はワーグナーとリヒャルト・シュトラウスに限ってのプログラミングを考えた。

なお、ほかに、二期会のホープであるソプラノの安井陽子と、スザンネ・ガッシュというメゾが加わっての公演となった。本来、ワーグナーやシュトラウスのような厚い作品ばかりを、ピアノ1台だけで伴奏することは無謀というべきだが、コレペティの名手、河原忠之がその困難を請け負ってくれた。

【ドイツ・オペラの裏にあるイタリア】

今回の公演で、もっとも深く印象づけられたのは、ドイツ・オペラ(ワーグナーやシュトラウスは、その中でも象徴的な存在である)の裏にへばりついているイタリアの影響だった。例えば、「アラベラ」第2幕における、アラベラとマンドリカの二重唱(出会いの部分)を歌ったときの小森(マンドリカ)のパフォーマンスを分析したい。そこにはいかにも華やかな、リヒャルト・シュトラウスらしい構造の花束が、次々に2人(アラベラとマンドリカ)の関係を彩っているわけだが、一方、自らの境遇を語り、アラベラへの求婚をするマンドリカが切々と愛を訴えるときの表現力は、それとは別のものが求められている。

小森は、伯父の性格に触れつつ、それと比較して自らの身上を堂々と語るときの、一種の英雄譚のような部分を語る部分は、正にワーグナーを歌うときのような肉太な表現力を前に出し、昔の妻を愛していたことを懐かしげに話したり、とうとうアラベラにアプローチしていくような部分では、実直に語りかけるような、ベルカントの男声のナイーヴな部分を活用し、あくまで力強い表現にブレンドして歌っているのである。

確かに、「ローエングリン」第2幕、神前裁判で敗れた後、打ちひしがれたテルラムントがオルトルートの助言を聞いて、復讐を決意するような部分では、典型的にドイツ的な引き締まった歌唱で通している。しかし、「タンホイザー」の〈夕星の歌〉や、シュトラウス「インテルメッツォ」終幕の場面では、こうしたものだけで貫くには無理があり、表現の硬軟を巧みに使い分ける技量が必要である。いま、技量といったが、これは「こころ」の問題でもあって、勇ましいテルラムントの野心に満ちた表現だけで、アラベラを口説けるとは思えないのである。今回、マンドリカは第1幕のアリアを最初に歌ったが、そこで見せたオトコの魅力と、アラベラの前で見せるべき表情は、もちろん、ちがうのが当然である。しかし、それらは背中合わせになっている。それに象徴されるように、ドイツ・オペラの裏側には、いつもイタリア・オペラの技量やこころが張りついている。それがなければ、人間の自然なこころを描くのは簡単ではないことだろう。

【こころの表現は技量に比例する】

ところで、オペラ歌手にとって、いちばん大切なことは何だろうか。それは、自分にあった曲を歌うことである。かつての大歌手たちはすべて、自分の成熟にあわせて、役を選んで歌ってきた。例えば、グルーベロヴァはノルマを歌うのに、60代にちかくなるまでじっくりと待った。そういう姿勢があればこそ、「ロール・デヴュー」という言葉には意味があった。現在、「ロール・デヴュー」は単に初めて役をやったということにすぎず、その役に相応しい声になったかどうかを示す指標にはなっていないようだ。

さて、その点で、安井陽子という歌手には注意が必要である。彼女は非常に質のいい歌声をもち、高音も伸びるし、音程も正確で、、爽やかな歌い手として気に入っている。しかし、キャリアの初期に、海外で「夜の女王」を歌ったことが災いして、ソプラノ・コロラトゥーラとして売り出されているのは適切でない。なぜなら、彼女のアジリタのレヴェルはそうした役に相応しいものではなく、いまのところ、もっと素朴で、実直な役柄にこそ相応しいからである。今回の役でいえば、「アリアドネ」のツェルリーナは甚だ不適で、「ばらの騎士」のゾフィーは本当に素敵だ。

オペラの醍醐味は、歌手たちがめいめい役どころの抱く心持ちを、歌として形にしていき、あたかも作品の登場人物たちがそうするように、それらを複雑に交わしあい、ぶつけあうところにある。ときに、歌手たちが試みるこころの表現のリアリティは、実のところ、各々の歌手たちの技量に比例してくるのだ。「技量」とは、アジリタなどの単に技術的なものに加えて、その役に対する声や人柄のマッチングをも意味している。例えば、ご主人を皮肉る召使といったスープレット役に、ドラマティックだが、茶目っ気のない実直な歌い手をもってきたとしたら、どんなに音符をうまく歌っても面白い劇にはならないはずだ。

安井の場合に特長となるのは、あのどこまでも澄明な歌声の涼しさであり、細かい動きを小ざかしく辿っていくよりは、声の表現力が真っすぐに生かせる役柄に向いている。ツェルリーナのようにエロティックで、小悪魔的なユーモアの求められる、しかも、コロラの技巧で歌を飾り立てるような役では、どうしてもケチがつきやすい。今回、ツェルリーナの悪戯っぽい歌に含まれるユーモアは控えめで、肝心のところに表れるコロラの甘さが、話の腰を折るような感じにきこえた。そこへいくと、ゾフィーの役柄はずっと素直に入っていけるはずで、安井らしさが出やすかった。とりわけ、ゾフィーとオクタヴィアンが出会う第2幕での二重唱は、若い2人の興奮がすんなりと伝わってきて、表現にリアリティがあると感じられた。

【佐々木の表現力】

今回、小森とともに主役だった佐々木典子も、随所にさすがの表現の鋭さを見せつけた。

いきなり「エルザの夢」で、気高いオープニングを飾ったあとは、超のつくほど難易度の高い「カプリッツィオ」終幕のモノローグ、「インテルメッツォ」終幕の場面、「アラベラ」第2幕のマンドリカによる求婚の場面、最後に「ばらの騎士」終幕の三重唱(マルシャリン)と歌っていったわけだが、最初のワーグナー以外は、すべてリヒャルト・シュトラウスであるとはいえ、この作曲家はもともと作風が広く、これだけ多様な場面の、しかも、そのエッセンスだけを抽出して歌うのは、困難が多かったろうと思う。

しかし、「ばらの騎士」の三重唱では、3人でのクライマックスを迎えたあと、若い2人を結びつけて去っていくときの表現力は抜きん出ていた。彼女が歌声の残響をかすかに残しつつ、袖に下がっていったとき、きらきら衣裳の印象も手伝ってか、彼女のいた場所に耳でしか感じとれない薫りのようなものが残り、それがしばらく舞台上を支配しつづけたのは印象に残る。

これに代表されるように、佐々木は完璧とはいえないけれども、上に示したような作品のいちばん大事な雰囲気をしっかり伝える歌をうたい、「技量」において、若手に不足しているものをしっかり備えていることを、聴き手に印象づけたものと思われる。「カプリッツィオ」終幕の場面は、詩人と音楽家、2人の男性から愛を求められた女性の嬉しくも、苦しげな想いに照らして、詩と音楽の運命的な出会いに身を捧げた自らの芸術的身上を歌う部分であり、特に、古風な詩の言葉づかいや、その複雑な韻に対応するようにして、実に典雅で、個性的な音楽がつけられているのが、よくわかる歌唱であったと思う。

小森共々、「アラベラ」の場面は気品に満ち溢れた佐々木の歌も満開。「インテルメッツォ」では、このほど亡くなった若杉に抜擢された思い出の役をしみじみと歌う小森に対して、思いきった表現を貫き、相手役をさらなるハイ・テンションに誘い込んだ。このナンバーでは、小森はすこしエキサイトしすぎた感じもするが、こうした場では相応しい表現といえるのかもしれない。

【まとめ】

これまでに、あまり触れるスペースがなかったが、メゾのスザンネ・ガッシュも良い歌い手であった。

全体的に、知性のスパイスが効いた良質なプログラムであるが、最初に述べたように、すこし無理な構成を支えたピアノの河原の功績は大きい。「ばらの騎士」の最後では、3人(途中で、フォン・ファーニナルがすこし出てくるが)の歌手がすべて退場し、音楽のエピローグを河原がゆったりと奏であげる見せ場をつくり、その努力に報いる形をとったと思われる。

アンコールはなしの予定だったそうだが、小森が河原と一緒に舞台に出て、若杉弘に対して、短いが、こころのこもった弔辞を読んだあと、モーツァルトの切ないナンバーをひとつだけ歌った。小森は涙ながらの弔辞であったが、歌のほうはしっかりとやって、プロとしての筋目を通した。この公演が決まったとき、若杉は既に病床にあったろうが、もちろん、亡くなることがわかっていて組まれたプログラムではないはずだ。だが、偶然にも、生前の若杉が重視したであろうようなプログラムが並んだので、当然、小森はそれらの曲目で故人との思い出を回想したにちがいない。

4人の歌手と、1人のピアニストが遺憾なく力を出し尽くしたコンサートは、こうして幕を閉じた。なお、小森はこのあと、8月7日にも、恒例の服部容子とのデュオを予定している。今回、マーラーの歌曲が中心で、イタリア・オペラのアリアも組み合わされている。今回のコンサートとも共通点がありそうな演奏会である。
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2009/7/6

O.F.C. 合唱舞踊劇 ヨハネ受難曲 @すみだトリフォニーホール 7/5  声楽

O.F.C.は、声楽とダンスが一体となった表現を試みるアマチュア集団で、特徴のある活動を展開している。代表は、佐多達枝女史。舞踊に明るくない私には、あまり馴染みのない名前だが、日本における創作バレエの草分け的存在で、紫綬褒章、旭日小綬章の受勲をはじめ、受賞歴は枚挙に暇がないようだから、知らない私が恥ずかしいというところである。団員に大学の合唱団の先輩がいたことから、2000年だったと思うが、この団体の公演で「カルミナ・ブラーナ」を観たのは、実のところ、あまり憶えていなかった。

だから、ほとんど初めてパフォーマンスに触れる団体といっても差し支えないぐらいだ。今回は、バッハの「ヨハネ受難曲」を「合唱舞踊劇」として組み上げる試みだ。ヨーロッパでは最近、このような受難劇やオラトリオをオペラ仕立てにして上演する試みが流行っているが、それともすこしちがう。舞踊畑にあった佐多の演出・振付であるが、舞踊だけに力点を置くわけでもなく、コーラスや音楽面への比重が50:50になっていることから、この団体のパフォーマンスは、ここでしかやっていない新しいジャンルになるのかもしれない。

【上演の概要】

まず、音楽面はいじっておらず、通常の受難曲と同じように進んでいく。カットやナンバーの入れ替えなどはない。舞台装置はシンプルで、目立つものといえば、舞台奥に設えられた大きな樹木があるだけだ。小道具なども登場しない。合唱は動きを伴わない合唱隊と、動きを伴うコロスに分けられている。今回は、これに加えて、ヨハネス・カントーレスという別の団体がコラール隊としてく賛助出演した。このコラール隊は概ね、オルガン席前のバルコニーに陣取り、舞台上は、奥から合唱隊、コロスと並んだあと、いちばん内側にダンサーが陣取る。このダンサー陣には、佐多のバレエ・カンパニーのメンバーが含まれている。

ダンスのソリストとして、プリモとしてイエス、つづいて、マグダラのマリア、そのほか、いくつかの役がつくられている。ほとんど出ずっぱりのイエス役は、堀内充。マグダラのマリアは、佐多のバレエ団の顔である島田衣子が踊った。

客席を数列つぶしてピットを掘り、そこにオーケストラが入る。コンサートマスターは、モーツァルト・アカデミー・トウキョウやオーケストラ・シンポシオンで弾く大西律子。そのほか、BCJなどの古楽団体、在京オーケストラ団員に、より若い音楽家が加わっての混成軍。まとめるのは、歌手としても知られる青木洋也。日本でもっとも優秀なC.T.である彼は、アルトのアリアも歌った。今回の上演では、エヴァンゲリスト、イエス、ピラトの主要役に加え、ソプラノ、テノール、バスのアリアを1人ずつ用意したほか、ペテロや女中、下僕にも別の人物を用意する凝りようである。しかし、これらの主要役は、エヴァンゲリストの畑儀文をはじめとして、よく名の通った歌手ばかりである。

通奏低音は、ポジティヴ・オルガンに大塚直哉、コラール用のパイプ・オルガンに浅井美紀。チェロ/ガンバとして武澤秀平、コントラバスに原田遼太郎。

【2つの大事なナンバー】

さて、前置きが長いのが私の悪い癖だが、本題は単刀直入に行こうと思う。今回の上演でもっても優れていたのは、58番(30番)のアルトのアリアと、短いレチタティーボを挟んで背中合わせに隣っている、60番(32番)の合唱のついたバスのアリアである。

まず、58番では、指揮台をはなれた青木洋也が登場する。彼の声は決して骨太ではないが、弱音でもよく伸びる優れた発声と、ニュートラルな美声、さりげないアジリタの素晴らしさが特徴である。この58番では、イエスの’Es ist vollbacht!(成し遂げられた!)’という言葉を丁寧に受け継ぎ、イエスが死んでしまうというネガティヴな要素よりも、「成し遂げられた」ことの気高さをしっとりと歌い込むような感じであり、そこにひっそりと添えられる信徒として哀しみを上品に醸し出す。最後、再び「成し遂げられた」に両方の要素がぎっしりと詰め込まれたときの、青木の発声には驚かされた。

そのあと、エヴァンゲリストがイエスの死を告げる部分の荘重さは、そこを歌う畑はもちろん、アンサンブルにも気持ちがこもっていて、この部分の素晴らしさも忘れるべきではない。

ただ、それらを越える白眉を飾ったのは、つづく60番の演奏である。第一に、前のレチタティーボからの流れの自然さが特筆すべきであり、その秘密が私にはわからないのだ。ここを歌うバスの篠部信宏の、爽やかな歌唱もこの雰囲気に相応しい。さらに、ここでチェンバロではなく、オルガンが弾かれていたこともポイントであるかもしれない。オルガンの音色は、チェンバロよりも肉厚で、このナンバーの温かさにあっているし、今回のような規模の大きな合唱にもノリがいい。これらすべての要素が噛み合って、60番は、正しく復活を印象づけている。

60番から既に復活が始まるというのは、ハンス=マルティン・シュナイトも主張していることであるが、そのことは、今回の演奏でより説得力のあるものとしてきこえた。昨年、マーク・パドモアをリーダーに演奏された「ヨハネ受難曲」では、このナンバーに合唱を着席のまま歌い、遠くからきこえてくるような効果を出すことで神秘的な雰囲気を出していたが、それは本質的ではない。むしろ、今回の合唱団の技巧に奔らず、真心のある歌い方のほうが、60番の「復活」のテーマに相応しいような気がした。

このあたり、ダンスが入っていたのは間違いないが、正直、私はあまり憶えていない。ダンスを見ていなかったのではないが、さすがに、この部分だけは音楽面が舞踊の引きに勝ったのである。

【もうひとつ重要な場面】

もうひとつ重要な場面は、第1部の最後である。この部分は、聖ペテロの否認を描いた部分であり、私の感覚では、ヨハネよりも、マタイにおいて、重要視されている。

しかし、今回の上演では、わざわざペテロ役を用意したことからもわかるように、ペテロとイエスの関係を対置し、作品の中心テーマをなすものとして描いているようだ。それは多分、イエス役のダンサーがプリモとしていることによって、はじめて可能になる・・・というか、説得力のある表現として受け取られた。だから、このグループの取り組みに照らして重要な部分と考えるのである。もちろん、このシーンの出来映えからしても、重要であることは言うまでもない。

さて、その秘密は20番(14番)のコラールにおけるイエス役の動きにあるわけだが、それを用意するいくつかの要素が、その前にある。例えば、直前のテノールのアリアは、ペテロの心中を吐露するかとみえて、信徒全般の想いを代表するメッセージが託されている。そこでは、次のように歌う。「こころのなかには、自らの犯した罪の苦しみがあるばかりだ」。ここを瑞々しい発声で歌ったのは鈴木准。彼はもうひとつ、後半のイエスの死後にアリオーソを歌うが、それはいまひとつ深みが足りない。しかし、この19番(13番)では、その真っすぐな歌い方が、むしろ相応しく、つづくコラールとのバランスが絶妙だ。彼は、アリアを歌うと、思い余ったようにして駆け去っていく。

この駆け去る姿に重ねられるように、コラールのいちばん最後でイエスのダンサーが前方に駆け寄り、全体が暗くなるなかで、神々しく光を受ける場面は心臓が止まりそうな感動を覚えた。

ところで、先程の鈴木の駆け去る場面は、その前のエヴァンゲリストによるレチタティーボの内容に合わせ、ペテロ役の歌手(新見準平)が駆け去っていく部分とも対応している。歌手でもできる駆け去るという表現を使うことで、歌手の効果的な舞踊への讃歌を促すとともに、最後に、それと比べて一枚上をいくダンサーの走りを見せつけて、それがイエスの神々しさにつながっていくというアイディアは、佐多の独創性を示すものだろう。しかも、それらは歌手たちのパフォーマンスを嘲笑うものではなく、ペテロとイエスという自然な関係のなかで、すんなり溶け込むようにに位置づけられているのが特長である。

【舞踊】

舞踊について、詳しく批評するための知見は、私にはない。前回のおぼろげな記憶を辿ると、O.F.C.における佐多の舞踊の特徴は、抽象的な表現ではあるが、バレエの基本的な動きを自然な形で音楽に溶け込ませ、まったく新しいものとして生まれ変わらせることであった。今回の舞踊は、コロスにおいてはその特徴を受け継いでいるものの、ダンサーへの振付に関しては、そうでもない。

私が佐多の「ヨハネ受難曲」からイメージしたのは、ジョン・ノイマイヤーの世界だ。フォルムの作り方や、動きの流れが酷似している、佐多のほうが年上であるから、あるいは、ノイマイヤーが真似したのかもしれないが、そうではあるまい。だから、細部において独創的な部分があったとしても、全体としてみると、この年齢にしてよく研究しているというレヴェルを出ないように思われる。特に問題なのは、そうであるにもかかわらず、ノイマイヤーの振付には必ずある独特のユーモアがなく、生真面目なことである。

それは、第2部のバイオレンス・シーンに象徴されている。佐多は、イエスへの鞭打ちや邪険な扱いを、足蹴や放り投げるなどの要素で具体的に視覚化している。だが私は、少なくともバレエにおいて、バイオレンス・シーンをそのまま具体的にみたいとは思わない。これは、石井潤の「カルメン」(新国)に対しても指摘したとおりだ。石井はともかく、佐多のバレエは今回の作品でも抽象性を基本としている。だが、どうして選りに選ってバイオレンス・シーンだけが具体的なのであろう。私は、ここに疑問を抱かざるを得ない。

折角ダンスで表現するのだから、暴力のなかに込められた本質的なものを、抽象的に表現することにこそ、醍醐味があるはずだ。

しかし、ポワント、リフト、パ・ド・ドゥ、フェッテなど、いかにもバレエらしい素材に頼ることなく、音楽に相応しい清楚な表現を組み立てていることには好感を覚えた。

プリモの堀内は、ジャンプに高さがないなど、フィジカルな面での強さというものには不足しているように思えましたが、一方、無理がなく、耐久性のある舞踊というのが印象に残りました。見せびらかすような派手さを狙うことなく、しっかりキャラクターの内側に入り込んでの・・・といっても、イエスなんてものに入り込むのは困難なわけだが、彼らしい薄味の表現がその存在の高貴さにマッチして、光っていたと思う。

一方、プリモの島田衣子は、63番(35番)のソプラノのアリアにソロがある。その華やかな踊りのなかにも、堀内と同じようなノーヴルなものを感じさせ、こちらも、マグダラのマリアなどという入り込みにくいキャラクターを、しっとり演じきっていたと思う。その解釈は宗教曲という枠組みにとらわれず、リリカルで生身の女性の共感に基づいており、それは、藤崎美苗の歌唱とも共通する。

その他のダンサーも、質がいい。佐多のグループでは、合わせるということに重きを置かず、ここの動きに特徴を見出せるような、活力のある振付が特徴になっている。面白かったのは、4人のダンサーがラインではなく、ダイヤモンド型の体型を組んで同じ不利を踊り、観客が見る角度によって、それぞれの踊り手に対して別々の要素がみえることを計算に入れ、立体的な舞踊の理解を促した振付である、これは佐多の独創でもあるし、4人のダンサーに際立つ個性が、このアイディアを支えたとも言えるだろう。

そういう意味では、よく鍛えられたダンサーたちであり、自ら考えることのできるクレバーさもアピールしている。こうした面における佐多の指導力については、感銘を禁じ得ない。

【音楽面】

音楽面は、ソリストたちが素晴らしかった。畑のエヴァンゲリストは有名だし、既に聴いたことがあったから、計算できた。パッションを込めて歌うこともできる人だが、今回は、すこし控えめの表現に徹した。加齢をものともせず、いつまでも爽やかで、伸びのある歌声は衰えるどころか、より落ち着き払った美しさを備えつつある。

青木については既に触れたが、それぞれの歌手が適当な役柄に配置され、個性にあったパフォーマンスをしているのが印象に残った。このなかで特に感心したのは、イエス役の浦野智之である。以前、BCJで聴いたときはやや元気がなかったが、今回のパフォーマンスはイエスという役柄に相応しい、どっしりしたものであった。エヴァンゲリストや女性陣に比べて、受難曲におけるイエス役は意外に軽視されており、こうした納得のいくパフォーマンスが聴けることは少ないものなのだ。

独特の厚みのあるレチタティーボで、唯一、私の理解の外にあったのがピラト役の小笠原美敬。鈴木准、藤崎美苗は前半のアリアは瑞々しくて魅力的だが、ドラマの深まった後半の歌では、やや未熟なものを感じた。

コーラスは、O.F.C.の歌はアマチュアとしてはレヴェルが高く、満足感が高いものであった。ヨハネス・カンターレスのコラールは、前半、もうすこし頑張れたような気がする。しかし、両団ともこの曲に関する愛情は比類ないことがわかり、特に第2部に入ってからは求心力が高まった。

アンサンブルは、やはり寄せ集めというレヴェルを出ない。特に、木管は、三宮正満、前田りり子といった一線級が顔を揃えるわりには、もうひとつという印象を残した。ただし、通奏低音は別で、おおつか、浅井を中心に、ムラのないパフォーマンスで公演を引き締めていた。

【まとめ】

非常に上質な公演であった。序盤は言語的な不安もあり、どうなることかという瞬間もなくはなかったが、最終的には、アマチュアを主体とした集団が、プロを上回るかもしれないというパフォーマンスを見せていたのは喜ぶべきであろう。

舞踊にも歌唱にも、気に入らない部分は確かにあった。ついでに、音楽面でもうひとつ難をいうならば、ゴルゴダへ急げという48番(24番)の合唱のついたバスのアリアで、テンポが速すぎたために、バス独唱と合唱のかけあいの感覚が稀薄となり、大事な部分がすっと流れてしまったことがあった。しかし、これだけ大規模な作品で、すべての表現が、私のイメージに寄り添っているなどということはあり得ないわけで、それもまた、些末な議論ということになるであろう。

そんなことよりも、全体を聴いたときの充実感のほうがはるかに勝っているのであり、このグループの優れたパフォーマンスを、素直に賞賛したいのである。
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