2009/8/11

宮部小牧 ソプラノ・リサイタル 真夏の夜の夢 8/8  声楽

ソプラノの宮部小牧が、「真夏の夜の夢」と題して開いたリサイタルを聴いた。この題名には意味があり、夏、夜、夢といったキーワードに関わる曲目が選ばれている。時間というものに注目したプログラム構成は、いかにも女性らしい感覚だとはいえないだろうか。

さて、前半はドイツ本流の作曲家の作品が並び、一定のキーワードをしっかり整えたこともあり、表現が単調にならない工夫が必要だ。そこで宮部がとった方法というのは、3つあった。1つは、実に女性らしい工夫であるが、魅惑的で豪華な衣裳を身にまとい、顔の表情をゆたかにすることだ。それは一見、歌の表現とは深い関わりがあるわけではない。ところが、2つ目のポイントに注目すると、これが実に効果的な表現に結びついていたかがわかる。それは、歌の表現を決して過度に飾り立てることなく、詩をしっかりと歌い込むという一点に賭けたことであった。

そして、3つ目は構成の妙であり、同じようなイディオムをめぐって、たとえ同じ作曲家でも、詩によって微妙に角度のちがう心持ちが表現されるのを併置しており、これが実に興味ぶかいのである。これら3つのポイントは、互いに関係しあってもいる。

後半は新ウィーン楽派まで到達し、内容が豊富である。ヴォルフの歌曲が3つ並び、歌詞の抑揚やイントネーションに注意した歌いまわしを丁寧に表現している。最初の2曲は失恋を歌うものだが、愛の幸せに浮き立つような心持ちの「語らない愛」がしまいに来ることで、音楽も詩も、ひときわ輝くように浮き立ってくるのを、明るい歌声と表情づけで引き立てていた。ツェムリンスキー「ワルツの歌〜グレゴロヴィウスの〈トスカーナの歌〉による」という珍しい歌曲集では、ユーモアのある歌詞をリラックスした表現で歌った。典型的なワルツは確か第2曲で現れるが、全体的には変に3拍子が効いているというよりは、より自由にワルツの可能性を追求した作品だと思える。

ベルク『7つの初期の歌』は、繊細に筋道をつけた歌いくちが妥当で、響きが清楚であるうえに、表現にも柔軟性がある。作詩者こそちがえど、内容的には近接する最後の2曲は、ほぼ続けて演奏した。集中力が高く、音符にも歌詞にも、そのひとつひとつに意味の籠っているベルクの作品の特徴を、うまくカヴァーするパフォーマンスであったが、ピアノも歌も、この曲集に関しては、思ったよりも表現が硬かった。

そこへいくと、あとのアルマ・マーラー『5つの歌』(2曲抜粋)のほうが、より自然な共感に満ちた歌いくちである。なかでも、このリサイタルを象徴する「夜への讃歌」は、最後の1曲ということもあって思いきった表現で貫き、この日のハイライトとなった。アルマの作品は、ツェムリンスキーやベルクといった人と並べると、選んだ詩をみてもより複雑なポエジーが絡み合ったものであり、そこを巧みに縫い合わせていくような筆致が感じ取れる。

女性の作曲家は、男性の愛する素朴さよりも、女性の愛する複雑さに向かっていく。男性的な感覚では、恐らく、ゴツゴツしていると感じるものに、宮部はよりリアルな共感を持っている。そのため、思ったよりも歌が滑るように流れ、言葉に含まれるポエジーもすっきりと浮かんで、優れた表現となった。

なお、伴奏は、おもにチェコで活躍するという渡辺治子というピアニストが務めた。高名なスーク・トリオ創設メンバーであったヤン・パネンカに学んだ室内楽のスペシャリストというプロフィールは嘘をつかず、宮部の音楽を柔らかい音楽性で支えててくれた。今回のプログラムでいえば、特に、シューベルト、ブラームス、シューマンといったロマン派の演奏に適性が高い。

外国人のリサイタルではなかなか実現できないような手の込んだプログラムを、上質の歌唱で聴かせてくれた宮部に対し、素直に拍手を送りたい。

【プログラム】 2009年8月8日

1、シューベルト 夜と夢/恋人の近く
2、メンデルスゾーン 歌の翼に/夜の歌
3、ブラームス 恋人のもとへ/セレナード/私は夢に見た
           /愛のまどろみはますます浅く
4、シューマン 悲しい歌はおやめなさい
5、リスト 愛せよ、愛しうる限り(愛の夢)
6、ヴォルフ 捨てられた女中/夜明けの一時間前/語らない愛
7、ツェムリンスキー ワルツの歌
             〜グレゴロヴィウスの〈トスカーナの歌〉による
8、ベルク 7つの初期の歌
9、A.マーラー 恍惚/夜の讃歌〜歌曲集『5つの歌』

 pf:渡辺 治子

 於:JTア−トホール アフィニス
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2009/8/9

小森輝彦・服部容子 デュオ・リサイタル @カザルスホール 8/7  声楽

毎夏、おこなわれているバリトンの小森輝彦と、ピアニストの服部容子とのデュオ・コンサートを聴いた。今回は前半にマーラーの歌曲、後半はイタリア・ヴェリズモの曲目が取り上げられ、言ってみれば、性格が正反対の曲目が並べられた。

【素材の似ている2つの作品を・・・】

前半は、マーラー独自のというよりは、ドイツ歌曲の伝統に根ざした歌であり、その極点に立った表現である。雰囲気に流されず、詩をしっかりと歌い込む姿勢は、いかにも小森らしいものだった。『さすらう若人の歌』では、マーラー歌曲に対するほの暗いイメージは少し反転され、奥ゆかしいポエジーに変換されていた。「青春」を省みる大人の表現で貫かれながらも、瑞々しさを残しての歌いくちには妙味があった。

リスト『スペイン狂詩曲』のピアノ独奏をはさんで演奏された『子どもの魔法の角笛』は、『さすらう若人の歌』とは形式や歌詞で似ている部分が多いとされる。小森は前者と比べると、歌に含まれるウィットをとりわけ重視して、素材としては似通ったものながら、まるで性格のちがうものであるかのように歌い上げた。そのアイディアは、「美しいトランペットが響くところ」の伴奏に現れるマーチが人を喰ったような雰囲気を醸し出すところにも、象徴されている。

なお、『角笛』は、「歩哨の夜の歌」「美しいトランペット・・・」「起床喇叭」「高い知性への賞賛」の4曲を選び、意図的に、『若人の歌』における4曲の構成となるべく近くなるように配慮されている。

【新しいヴェリズモの見方】

後半は、ヴェリズモ・オペラに関するイメージの組み換えを企図したかのような内容であった。ここでは『ボエーム』のロドルフォを含め、どちらかというと「悪人」を取り上げているが、小森の演じるところでは、彼らは思ったよりも純粋なこころをもっている。だが、その純粋さに翻弄され、過ちを犯す。

例えば、技巧的にも白眉となったプッチーニの歌劇『トスカ』の、スカルピアの「テ・デウム」について見てみよう。通常、ここではスカルピアの「捻じ曲がった」愛が、神への典礼文にのせられることが冒涜的に受け取られ、スカルピアの盗人猛々しさを象徴する部分となる。だが、小森の表現するところをみえると、スカルピアの歌う愛も真正なものと信じているかのようであり、だからこそ、神の典礼文と重ねて歌うことも、決して不自然ではないという考え方が透けてみえるのである。

ジョルダーノの歌劇『アンドレア・シェニエ』、ジェラールのアリアでも、それは同じことだ。ジェラールは革命に夢とプライドを託し、憧れの人と親密になれることを願ったが、その精神は例えば、革命の指導者、ロベスピエールの欺瞞よりもはるかに純粋である。

レオンカヴァッロの『ボエーム』は観たことがないが、今回、聴く限りにおいては、ロドルフォはプッチーニの作品における彼よりも、いっそう頽廃的で、単に売れない芸術家というよりは、メフィストフェレスにちかい性向をもつ。幻想の悪魔とアイロニカルな対話を交わし、ついに死の提案を受け容れる部分を歌う小森の歌唱は、しかし、真っすぐなものであった。

このようなイメージは、前半のマーラーとも相通ずるところがあって、皮相なところで人性を批判するのではなく、よりリアリティのあるキャラクターをイメージし、慎重に造型していった小森と服部の知性には敬服する。

【まとめ】

よく練られた内容で、満足感が高かった。最初に申し述べたように、前半と後半で対照的なプログラムになっているが、それなのに、あるときには照応しあい、またあるときには、重なりあいそうな部分が少しずれていたりして、奥行きのある内容であったことを書き留めておきたい。プロジェクタを用いて、歌詞を投影しながらの演奏は聴き手に優しいが、和訳にも気を遣って、自分たちの表現にあったものにしているというあたりは、さらに気が利いている。なお、来年も、8月5日に公演が決まっているとの次第。

なお、この日の会場は、既に取り壊しが決まっているカザルスホールだった。

【プログラム】 8月7日

1、マーラー さすらう若人の歌
2、リスト スペイン狂詩曲
3、マーラー 子どもの魔法の角笛 より
4、ジョルダーノ 歌劇『アンドレア・シェニエ』 より
5、ドビュッシー 水に映る影〜『映像T』
6、レオンカヴァッロ 歌劇『ボエーム』 より
7、プッチーニ スカルピアの「テ・デウム」〜歌劇『トスカ』

 於:カザルスホール
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