2009/9/30

アルカント・カルテット @王子ホール 第2夜 エナジー 9/28  室内楽

アルカント・カルテットの、28日、王子ホールでの公演を聴いた。2夜のシリーズで構成される特別企画だが、第2夜は「エナジー」と題されているので、彼らが思いきりぶつかれる曲ということだろう。

演奏会は、バルトークの弦楽四重奏曲第5番で始まったが、大木がドスンと根を据えて、「アーチ型構造」をしっかりと支える感じが薄く、いささか骨組みが弱くきこえる。特殊奏法が異様にうまいが、かえって。別の音楽にもきこえる。

そこへいくと、ハイドン(弦楽四重奏曲第49番 op.64-2)では、ずっと細かい機微が押さえられている感じがした。第1楽章、アレグロ・スピリトゥオーソが象徴的で、沈み込むような深い音色で開始し、ロ短調の主体的な雰囲気に、いかにもハイドンらしいユーモアが差し挟まれていく。その間の、推移の見事さを彼らほど見事に捉えた例は少なく、とりわけ第1ヴァイオリンのヴァイトハースの多彩な歌いまわしは、さすがである。4本の弦はそれぞれに細やかな工夫を施して、演奏に角度をつけていく。

その後の2楽章は安定感のある演奏だが、プレストに入り、表現がやや単調なものに思えた。響きの華やかさと、即興的ともいえる装飾の奇知によって大胆なユーモアが聴かれるものの、それらはやはり煮込みが足りない分、途中で大きなずれとなって表面化した。最後のユーモラスなフィニッシュはいいが、完全に聴き手を虜にするところまでは行っていない。まだ上がありそうだという演奏であった。

最後は、ベートーベンの「ラズモフスキー第1番」(弦楽四重奏曲第7番 op.59-1)である。アプローチは意外に浅彫りであるが、非常に高いところに辿り着くための豊富なエレメントを感じさせる演奏であった。そして、構造的なアピールについては、この上もなくすっきりしたプレゼンテーションが爽やかであり、長大な曲が長大であるとは感じられなかったことも指摘しておきたい。

特に、第2楽章から第3楽章にみられるベートーベンの独創性は、明解に表現されていた。第2楽章では、第1ヴァイオリンを除く声部が先行し、最後に第1がとびきり華やかな音色で追走する構造が見事に出たし、第3楽章ではチェロと第2ヴァイオリン、ヴィオラと第1ヴァイオリンの組み合わせから展開する構造の広がりが鮮やかに捉えられていた。音色の面からいっても、第2ヴァイオリンやヴィオラといった内声に強みをもつアルカントQだからこそできる、表現の深みを窺わせる箇所があった。

アダージョ楽章(第3楽賞)は特に、4本の弦の絡み方が濃厚であるが、特に、第2ヴァイオリンが薄く高い響きをつくるのが、チェロをはじめ、周りの響きと微妙に混ざり合うことによって、なんと木管楽器の響きのように聴こえたのは驚きであった。第1ヴァイオリンが主体となる部分でも、他の3本の楽器の刻みこそが、聴き手にとっての楽しみであったろうし、それらの関係を一生懸命に追っていくと、あっと言わされる瞬間が随所にあった。クァルテットの形態から、十分な弾きこみで磨き上げていくのが難しい事情がある以上、自分たちが共有している高度なセンスを頼りに、コンパクトに関係性を深めていくことで、難関を突破していこうという意思が明白である。

ところで、ベートーベンは、いまはこれ以上は望めないというほど自信のある作品を書き得たときには、最後に典型的なポリフォニーを書いて、神さまへの捧げ物にする。アルカントQは、この大事な結びの部分に至るまでは、上のような方法で、確実に聴き手を圧倒していた。それなのに、すべて台なしというほど酷くはないにしても、こうした要諦までしっかり歌いきるためには、やはりクァルテットとしての練度がものをいってくるのであろう。コーダは挑戦的な失敗というべきか、ギリギリで間に合わせてきた響きの連鎖に、僅かな、しかし、無視できない綻びが見えた。

しかし、そのことを殊更に言い立てることが正しい態度なのかどうかについては、疑問がある。それを言い出せば、より繊細な部分においても、多くの聴きどころがあった。特に、弦楽器に造詣の深い方であればあるほど、この4人のパフォーマンスには驚きを禁じ得なかったろうし、4つの声部のどれかには、必ず食いつきたい部分があったに相違ないのである。私の場合、第2ヴァイオリンのセペックの粘りづよい動きと、揺るぎのない作品解釈の確かさにおいて、感動的であった。とはいえ、前回と比べて、クァルテットがクァルテットとして成長したという実感はない。

もちろん、コンサートとしては楽しかった。アンコールで演奏されたラヴェルの弦楽四重奏曲(第3楽章)では、タペア・ツィンマーマンの弾くヴィオラの濃厚な音色を思う存分に楽しむことができて、ヴィオラ・マニアの私としては、幸福そのものであった。いろいろと言ってはみたが、技の利く、創意工夫に満ちた存在感のあるクァルテットであることは間違いがないと思う。

【プログラム】 2009年9月28日
1、バルトーク 弦楽四重奏曲第5番
2、ハイドン 弦楽四重奏曲第49番 op.64-2
3、ベートーベン 弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」

 於:王子ホール
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2009/8/14

湯浅譲二 バースデーコンサート 80歳の誕生日を祝して 8/12  室内楽

作曲家の湯浅譲二が12日、80歳の誕生日を迎えた。その誕生日当日に彼のことを祝うため、秋吉台の現代音楽祭に関わる音楽家や弟子たちを中心にしたグループが、東京オペラシティのリサイタルホールで公演を行なった。

湯浅の作風をめぐるキーワードはいくつもある。例えば、最近では「未聴感」ということを頻繁に口にしているように思うが、「未聴感」は本質的な価値ではなく、作品を残したいと思う者にとっての前提的な条件ではあれ、本当に大事なのは、そのことによっていかなる表現をしたいかということに尽きる。ありがたいことに、最初の「マイ・ブルー・スカイ第3番」(ヴァイオリン独奏)を聴いた瞬間、湯浅が本質的になにを求めているのかは、すぐに直感できたといって間違いではなかろう。

つまり、楽器本来の持ち味、そして、それを弾く人間の持ち味というのを、いかに引き出すかということが、それである。フルート独奏による『タームズ・オヴ・テンポラル・ディーテリング』の演奏において、そのことはより象徴的であった。この作品はまず演奏者が肉声を発し、それを模倣するようなフルートの響きが、そのイメージを追いかけていくところに始まる。以下、人声との重ねあわせを中心とする特殊奏法を交えて、作品は鷹揚に展開していく。

ここで、私が面白いと思ったのは、そうした奏法の特徴が風変わりな聴感に止まることなく、徐々に本質的な表現、つまり、楽器と演奏者の持ち味の表現という「本丸」に向かって推移していくことにあった。聴き手が皮相的な面白さに呆れてしまう頃合いを見計らって、湯浅はすかさず別のパラダイムを準備し、否応なく聴き手と演奏者が1:1で向きあう瞬間を用意する。例えば、このフルートの作品は9分あまりにすぎないが、後半にいくと、こうした手法の面白さに向きあう演奏者のこころと、聴き手の関心がおもむろに出会うような感覚が待っており、そこに演奏者の個性がぬっと裸身を晒すことになる。

このような形で、湯浅の作品の前に立つ者たちは、たちどころにその本性が丸見えになるが、実のところ、聴き手のほうも同じように裸にされるのだ。

日本の作曲家にほぼ一般的なように、湯浅もピアノが得意であると思われる。ピアノ独奏による『メロディーズ』と、ヴィオラ独奏による『ヴィオラ・ローカス』では、前者に作曲家の愛着があり、後者には作曲家としての興味がある。愛着は作品に自然な展開をもたらすが、必ずしも身近な楽器ではない場合は、それに代わって、知らないものに対する飽くなき関心と、本来の演奏者には思い当たらないようなイメージの転換や組換を生み出す可能性が高くなる。そこに、ある種のユーモアが生まれやすい。

わかりやすいのは、テューバ独奏による『ぶらぶらテューバ』だろう。テューバの特徴はいくつかあるが、そうした要素に対して湯浅の示す温かい関心といったものが、この作品のほとんどすべてを占めており、悪くいえば、子どもじみた、あるいは、童心を思い出させるような素直な共感が見えてくる。湯浅といえば、前衛のハードな知性家というイメージがあるが、その本質的な部分に、こうした純粋なものがあることは見逃されがちではなかろうか。

初演の平松英子に代わり、松平敬が歌った『R.D.レインからの二篇』は、親交のあったレインという精神病理学者の追悼のために、レイン自身のつくった「つぶやき」「私はなくしてしまった」の二篇の詩を選んで付曲されている。ところが、その内容は葬式のものがなしい弔辞とは似ても似つかず、リラックスした、賢者の諧謔に満ちた作品なのである。特に、後者では日本語訳のあとに原語の詩が追っかけるような形になっており、その二重性のなかに、愉快な友人との国境を越えた関係がユーモラスに忍び込んでいる。ここでも、湯浅とレインの関係が、音楽と詩(もしくは、それぞれの中にあるパーソナリティ)によって、やはり1:1で向き合っている。

最後に、二十絃筝の曲『筝歌〈蕪村五句〉』が演奏されたが、ここでは蕪村による辞世を含む5つの句が選ばれ、謡がつくようになっている。この曲はいわば一種の歌曲なのであるが、伝統的に存在する「筝歌」とは似て非なるものと言えそうな気がする。もちろん、それは20世紀的なイディオムをふんだんに含んだ響きのイメージからもたらされる感覚でもあるが、より本質的に、声と筝の音の関係性においてパラダイムが異なるように感じられるせいでもある。うまく説明できないが、湯浅の作品における声と筝の音と、付け加えるならば、さらに蕪村の句との関係は、それぞれ1:1:1で対応するように思えるのだ。

湯浅の作品では単純な融合をよしとせず、それぞれの要素がパラレルな価値観を保っている。ここでは、吉村七重という傑出した筝の奏者と、それとは別の謡の名手が、蕪村というもう1人の天才とを加えて、パラレルに我々の前に出現する。その壮観たるや、表現のしようもないほどだ。ここにこそ、湯浅の音楽の本質の本質をみる想いがしたのである。

80歳になったとはいえ、湯浅は杖をつくでもなく、まだまだ元気そうである。昨年、100歳の誕生日を迎えた先輩のエリオット・カーターもバリバリに現役で、いまだに新しい作品を披露しつづけている。この老爺を追いかけて、まだまだ20年も若い湯浅には頑張ってもらわなくてはならない。

【プログラム】 2009年8月12日

オール・湯浅・プログラム
1、マイ・ブルー・スカイ第3番 (vn:ジョージ・ヴァン・ダム)
2、クラリネット・ソリテュード (cl:山根 孝司)
3、タームズ・オヴ・テンポラル・ディーテリング (fl:大久保 彩子)
4、ヴィオラ・ローカス (va:般若 佳子)
5、メロディーズ (pf:藤田 朗子)
6、テナー・レコーダーのためのプロジェクション
 (テナー・リコーダー:鈴木 俊哉)
7、R.D.レインからの二篇 (vo:松平 敬)
8、ぶらぶらテューバ (tub:橋本 晋哉)
9、筝歌〈蕪村五句〉 (二十絃筝:吉村 七重)
10、川島素晴 湯浅メロディーズによるプロジェクション (全員)

 於:東京オペラシティ リサイタルホール
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