2007/2/4

ティム・ロビンス主演 輝く夜明けに向かって  シネマ

最近、東京でやっている映画は、話題の硫黄島の2作品をはじめとして、社会的なテーマを扱ったものが多い。この映画「輝く夜明けに向かって」も、アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国を舞台に、現在の世界を取り巻く大問題、テロリズムや宗教紛争の「夜明け」を提起した作品であるといえよう。

主人公のパトリック・チャムーソは、現在も存命する実在の人物ということだ。モザンビークから出稼ぎで南アに出てきた両親の間に生まれ、父方と母方の2つの名前をもつトイウコトカラ、語り起こされる。彼はあたまがよく、英語をマスターして、石油精製所の現場監督として働いていた。美しい妻との間に2人の子どもがあり、サッカーのコーチとして、貧しい家の子どもたちの面倒をみる。パトリックは元来、移民の子ということもあり、政治向きのことには首を突っ込まないようにして、白人(ボーア人)と現地人の仲立ちのような役割をしていた。ところが、石油精製所の爆破テロで無実の罪を着せられ、結局は釈放されたものの、厳しい拷問を受けた上に、友人を殺され、妻までもが拷問されたことで、アフリカ民族会議(ANC)というテロ組織に参加することを決意する。

この映画の特徴を示すキーワードは、重ねあわせである。そのために、フィリップ・ノイス監督は、いくつかの仕掛けを用意した。まずは、テロと闘う側の陣営から、敏腕捜査官のニック・フォスと、その家族を登場させている。知的な犯人と敏腕刑事の丁々発止ということでは、名画の「逃亡者」を思わせるが、それだけの役割ではない。次に、主人公のパトリックに、もうひとつの家族をもたせる。パトリックが浮気を続けるミリアムという女とは、かつてから関係を持ち、妻にも知れた相手だ。別れたと言い続けてきたのだが、女と、その間にできた子どもたちへの愛情は、密かに継続していた。これに加えて、少年サッカー・チームも、展開のアヤに使われるだけではなく、パトリックがチームに加えた天才ストライカー、シックスセンスという少年が、大事な役割をする。

さて、この映画のテーマは、結局、「赦す」というところに帰結する。これはキリスト教的倫理観の重要なポイントであり、全編は、その倫理によって貫かれているとも言える。では、赦されるべき罪とは何か。まず、パトリックは白人たちへの怒りからとはいえ、家族に無断でANCに加わり、彼らを捨てた。その前に、浮気を続けていたという罪もある。妻はこれに対し、フォス捜査官の心理戦にのせられたとはいえ、テロリストとして再入国し、石油精製所を襲った夫の居場所を密告した罪がある。エピローグで、アパルトヘイト後、離党の収容所から帰る元夫を迎える妻と、互いに自らの罪を謝り、赦しあう感動的なシーンがある。もうひとつの罪は、無実の人も徹底的に追い詰めるフォスのえげつない捜査術であるが、解放後、老いた彼をみつけたパトリックは、その罪を赦す。

面白いのは、この2人とも、自らの「正義」感に基づいて動いていたことだ。パトリックは捕まるとき、やるべきことはやったと恍惚の笑みを浮かべ、自分の人生はもう終わったと言って、フォスをぎょっとさせる。子どもたちは、自分が正義のために死んだと語り継ぐだろう。おまえの子どもは、どう言うかな・・・。その答えはエピローグで、河辺でひとり、寂しそうに寝そべるフォスの姿に表れている。彼には妻がひとり、娘が二人いたが、ひとりは父の仕事に理解を示していたが、もうひとりは嫌悪していた。理解的な娘でさえ、フォス家を襲いに来たテロリストを勇敢にも射殺したのはよかったが、こころにふかい傷を負った。それを見たもうひとりの娘は、なおさら父親を嫌悪した。

一方、パトリックの娘はたとえ離れていても、父のことを気にしていたことが、妻との再会シーンで語られる。パトリックが優しくしたシックスセンス少年は、パトリックの息子ではないのに、フォスに懐柔されたフリをして偽の情報を掴ませ、彼を助けようとしたのだ。

2人の「正義」は、明暗を分けた。だが、この映画はもちろん、パトリックがテロに奔ったことを正解とはみていない。パトリックはエピローグの独白で、自分の行為を「過ち」と認めているからだ。最後に実写を交えて、実在のパトリックが画面に現れるが、今日の彼があるのは、フォスへの怒りをおさめて、自らの過ちを認めたことによってである。そして、家族と子どもたち、サッカーを愛していた、本来の自分に立ち返って、パトリックは南アの北部に暮らし、何十人という孤児たちを育てあげたという。偉大なるファーザーである。

映画の出来としては、画面はきれいでソツがないものの、筋の進め方はやや粗い感じもする。最後に、TVのドキュメンタリーのようにパトリックのインタビューが入ったり、安易に実写を入れるのも安直な感じを受ける。いちばん問題があるのは、もっとも大事なメッセージである赦しに至る過程が、まったく描かれていないことだろう。それゆえ、最後の赦しは予定調和的なものに思えるのだが、主張として共感しやすいために、さほど疑問に思う観衆はいないかもしれない。だが、わかりきっているメッセージを、改めて配信しただけとみることもできるし、もうひとつ、ひねりがほしかったと思えなくもない。

したがって、映画としてはB級品であるという範囲を出ないが、少なくとも、監督がこの映画を撮りたかったことの意義は、十分に理解できる。自らの「正義」を見つめなおし、その「過ち」を把握して、相手を赦すことに努めるべきだ・・・映画の訴えたいことは、そこにある。そして、その象徴として、ネルソン・マンデラ大統領の就任演説が使われている。現実は、そんなに甘いものではないかもしれないが、終わらぬ宗教紛争や、テロリズムを前にして、人々の願いは、そこにあるのではなかろうか。
0

2006/12/9

ニュー・シネマ・パラダイス A  シネマ

すこし間が空いたが、つづきを書き上げよう。前回は、トトとアルフレードの友情、そして、トトの愛情の成長ということについて述べた。

だが、中盤以降、それらは破綻を迎えることになる。最後のキスシーンと、きわどいシーンのカットがつづく名場面が、かくも魅力的なのは、トトの友情も愛情も、シネマの取り壊しとともに雲散霧消したあと、観客のなかに間違いなく芽生えたこころの空隙、そこに跳び込んでくる温かさだからである。その温度は、各々の映画の中で、恋人たちが迎える愉悦的な時間だからというに止まらず、これを残してつなげたアルフレードのこころの温みにも繋がっている。そういうことからしても、この破綻について考えることは重要だ。

完成版では気づきにくいかもしれないが、このいずれにも、やはりアルフレードが中心的な役割を担っている。オリジナル版では、トトとエレナの約束の日、トトが待ち焦がれてエレナの家を訪れる間に、彼女が映写室に現れたところ、留守番をしていたアルフレードはむしろ、別れるようにエレナを諭すというシーンがあり、そのことはより明確になっている。だが、これはオリジナル版ほど明確でないにせよ、完成版のほうでも十分に嗅ぎ取れる情報である。

アルフレードは、もとからトトとエレナの恋の成就を考えていないし、望んでもいない。しかも、早くからトトに街を出るように促しており、駅の別れのシーンでは、絶対に戻ってくるな、便りも要らない、たとえ、おめおめ帰ってくることがあっても家には入れない、とまで言っているのだ。なぜアルフレードは、そこまでしてトトを街から遠ざけようとするのであろうか。その答えとして、トルナトーレ監督は、トトの将来を見透かしているようだ・・・と述べている。私も、その意見にちかい。だが、なぜアルフレードが、トトの可能性を信じられたかについては、トルナトーレも語っていない。

それは、トトが映画によって育ったからである。彼は、ほんの年端もいかない頃から映写機をまわし、シネマとともに成長した。トトの成長とともに、小型のハンディカメラが登場し、テレビカメラが出現し、燃えないフィルムができ、映写機も変わる。そのことに象徴されるように、トトは映画の歴史の動きを掌のなかで体験しながら、大きくなった。ゆえに、エレナとの恋路も、多分に映画的であったのかもしれない。アルフレードほど、映画の魅力を肌で知っていた男はいない。彼はしばしば、映画の名文句を引用して、トトをからかっていた。映写室の仕事は、傍から見るほど楽天的ではないにしても、アルフレードはとにかく映画を愛していた。それゆえ、その揺りかごの中で育ったトトは、必ず立派な人間に成長すると考えたのであろう。トトは元来、知恵が働く。ほんのちょっと脇にいただけで、映写機の操作を憶えてしまうぐらいだ。勉強もよくできる。幼い頃から、機知が利いた。

例えば、ニュース映画のなかで、トトは戦死者の情報をみつけ、それを母親に知らせることにより、彼女が一区切りつけることができるようにした。この知恵は、彼の年齢からは考えられない。トトは、戦場の夫が死んでいるか生きているかもわからない状況で、自らの母親がもはや希望は少ないと悟りながらも、踏ん切りがつけられないことを見抜いていたのだ。哀しみながらも、すこし吹っ切れたような母親の姿をみて、トトは安心する。自分を抱き寄せようとする母親の腕のなかから顔を出し、ペロリと舌でも出すように、笑って映画のポスターに目をやる。印象的なシーンである。

そんなトトの能力を十分に発揮させるためには、より良質で、開かれた環境が必要だと、アルフレードは常に考えていた。観客は、アルフレードだって魅力的な人間なのであるし、トトもまた、この街で立派に成長し、幸せになる権利があると思うかもしれない。だが、それでは、アルフレードの人生に対する想像力がなさすぎるというものだ。アルフレードが魅力的なのは、それだけ深い苦労が刻まれているからであろう。そして、その苦労の産物を、分け与えることのできるトトに、たまたま出会えたせいでもある。もしもトトが現れなかったら、アルフレードは、それほどに魅力的な人間であったろうか? アルフレードも、トトの存在によって成長した・・・とはいえなくとも、その生き方に新鮮さを取り戻すことができた。そのため、小学校の卒業資格を得ようなどとも考える。だが、そうなる前のアルフレードの人生は惨めだ。

アルフレードは、エレナに対して、いまの愛情が永続的なものではないと教え、トトの将来をこそ考えるように諭した。エレナはこの約束を守り、トトもまた駅での約束を守った。それゆえ、もしかしたら有益であったかもしれない2人の恋は、ここに途切れた。エレナとの恋が、トトにとって、本当に断ち切るべきものだったかどうかについては、議論が残るかもしれない。だが、トトの青春が終始、映画的なものであったことを考えれば、結局、先は見えていたのかもしれない。アルフレードは何度も、現実と映画のちがいを強調していたのだが、恋は人間の目を見えなくする。牧師にカットされたキスシーンのように、2人の関係は、フィルムから切り落とされたが、それゆえに、あのラストがいっそう重大な意味をもってくるのである。

私はこのように考えるが、アルフレードがトトを街(エレナ)から遠ざけたのはなぜか。そのことは、映画は必ずしもはっきりと語っていない部分であり、多分、故意の言い落としであろう。ここの考え方は、受け手によって、様々に解釈されていい。監督もきっと、そのように考えているはずだ。

ニュー・シネマ・パラダイス、それにしても、よく考えられた映画であった。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ