2009/7/5

路上のソリスト The Soloist  シネマ

映画「路上のソリスト」(原題”The Soloist”)を拝見した。大きな感動には結びつかなかったものの、なかなか考えさせるもののある作品だ。米国では、本年4月の公開。監督は、ジョー・ライト。主要二役は、次のとおり。かつてジュリアード音楽院に通ったチェリストで、いまは路上生活者となった黒人男性、ナサニエル・エアーズ役としてジェイミー・フォックス。LAタイムズの記者で、かつては結婚して子どもももうけたが、いまは離婚してひとり身となっている白人男性、スティーヴ・ロペス役に、ロバート・ダウニーJr.である。

この作品は、実際にタイムズ紙に書かれたコラムによっており、これら二役も実在する人物である。

以下、映画の筋書き、および、内容に深く立ち入ることを先に述べておく。

【新聞の落ち目】

作品は、トラックの荷台に乗った新聞配達のオトコが、邪険な扱いで、新聞を放り投げて配っていくシーンから始まる。およそ、このシーンがロペス記者の内面描写になっていることは、気づかない人が多いかもしれない。

現在、米国の新聞需要は衰える傾向にあり、シカゴ・トリビューンなど、世界的にも名の知れた大新聞社が破綻していることは周知のとおりだ。映画のなかでも、タイムズの記者たちの会話のなかで、特に、中産階級からインテリゲンチャの範囲に入る大卒の女性たちが、新聞をとらなくなったことについて触れている。そして、その価値の凋落が象徴的に描かれているのが、最初の場面というわけだ。

もちろん、このような新聞メディアのステイタス低下は、記者たちのモチベーションにも影響を与えている。ロペス記者は、そんな状況に倦怠する中年の男というところであろうか。かつての妻は管理職に抜擢され、子どもたちを立派に育てている。自分はしがない記者を続けて、リストラの波に怯える日々。待っている家族もない、孤独な生活だ。メシの種をめぐって、街を彷徨い、事故に遭う。マトモな記事に読者は向きあわず、奇特な記事には反応する。タイムズの記者が自転車で走行中、事故にあったというような変てこな記事に・・・。

ナサニエル・エアーズとの出会いも、そんな変てこな記事をつくるための努力によるものだった。

【理由がない】

序景のあと、主役のひとり、スティーヴ・ロペスは交通事故に遭うのだが、そのシーンは甚だ粗雑に描かれている。ぶつかる瞬間はファインダーの外に置かれ、効果音だけで描かれることになり、モノローグによれば、事故の原因すら「憶えていない」という。実は、ここにも、作品の重要なメッセージが隠されている。

この映画では、理由を問わないということがキーワードになっている。ロペスは、なぜ離婚したのか。どうしてナサニエルは、音楽院での生活に適応できなかったのか。何のために、ナサニエルは楽器を弾くのか。どうして、スティーヴとナサニエルが結びつくことができたのか、あるいは、なぜバッハではなくベートーベンでなければならないのか・・・。これらの「理由」は確かに観客の関心事だが、監督はそれよりも大事なものがあることに気づいてほしかったのだと思う。

それどころか、理由を求めることは、過ちを生むもとでもあったと気づかせたいのである。例えば、ナサニエルの奇怪な行動の理由を追えば、「統合失調症」という言葉に辿り着くだろう。その治療のためには、医者に診察してもらい、投薬も必要だということになる。これが、現代の常識だ。だが、その「病気」は近代以降に名づけられたものにすぎず、ある意味では、その人の状態を示すにすぎない。実際、映画のなかで、保護施設の職員が言っていたように、多くの「患者」は医者に診てもらい、投薬を受けたことにより、ほとんど何の利益も得ていない。効果がないのだ。

それよりも、いまそこにある現実を見るべきだ、とこの映画は言いたいのだろう。ナサニエルは「病気」と名づけたければ名づけられないこともない状態にあるが、そうであっても、彼なりの自己実現がなされる状況はあって、「正常」とは言えないにしても、尊厳のある人生を送ることもできる。映画の最後のほうの場面で、ナサニエルをはじめ、すこし「おかしく」なっている人たちが、それでものびのびと人生を送っている姿が活写されていたのを思い出そう。

特に、ラスト・シーンでは、スティーヴや姉というサポーターを得て、ウォルト・ディズニー・ホールの上等席に陣取ったナサニエルの姿が、いかにも誇りだかく見えるのではないか。それは、理由のないスティーヴの共感(同情ではなく)によって、はじめて成し遂げられたのである。ロペス記者がナサニエルに近づいたとき、彼には理由があった。だが、その理由が薄れ、ついに消滅したときこそ、スティーヴ・ロペスと、ミスター・ナサニエル・エアーズJr.の友情が始まったときなのである。

【癒される救出者】

この作品の、いちばん大事なモティーフは、ロペス記者がまず好奇心でナサニエルに近づき、つづいて功名心、やがて、同情、共感、理解と進み、その間に、自分自身の人間性までも回復していくという、不思議なスパイラルを描くことである。

スティーヴは大新聞社の記者だけあり、コミュニケーション能力にも優れているし、行動力にも優れている。彼は途中から、自らを救出者として任じ、動いているようだ。彼の行動は、アメリカ人の中にいつも隠れている、キリスト教的な正義感の目覚めでもあるのかもしれない。

だが、スティーヴは徐々に気づいていく。彼は、記事のためにナサニエルに近づいたのでもなければ、同情からその境遇を改善したいと奔走したのでもないことに気づくのである。スティーヴを見えざる手で動かしていたのは、ナサニエルの音楽が、都会の喧騒のなかに与えていた安らぎだったのだ。スティーヴこそ、それが必要な人間だったのだ。

そんな彼の高貴さに気づいたとき、スティーヴは、ナサニエルに敬意を込めて「ミスター・ナサニエル・エアーズJr.」と呼ぶようになった。’The Soloisit’の誕生である。そして、彼に対する行いが、結局のところ、彼自身の人間性を回復させていたことに気づくのである。彼はかつての妻(過去の象徴である)の膝の上で、すべてを反省する。そして、生まれ変わる。救出者は、助けようとした相手によって癒されていた、と観客も気づくにちがいない。

【では、ソリストは・・・】

では、そのモティーフは、ナサニエルにとって、どのような意味をもつのであろうか。エピローグによると、ナサニエルは統合失調症から回復したわけでもなく、その状態が良化したといえるかどうかは難しいとしている。結局、ナサニエル自体に何の変化もないことが、観客たちの不満のタネとなるかもしれない。

だが、既に述べたように、それは最後のいくつかの場面や、映画を通じて知ることのできたナサニエルの生き方によって、既に解決されているからなのである。ロペス記者の目からみれば、’The Soloist’は誕生した・・・といえるのだが、ナサニエルの視点から見れば、彼は以前から、’The Soloist’だったのである。それは自然なことであって、彼の人間性を損なっていることにはならない。

この映画は実に、そのことを言いたかったのだ。

だが、あくまで solo であることには、皮肉な面も含まれている。彼はやはり、他人の世界と本質的な結びつきをつくることに適応できない。だが、ある意味では、超一流の音楽家も、同じ悩みを抱えているのではなかろうか。’soloist’は、ひたすら自分の世界を追っていくことでしか、聴衆に認めてもらうことはできない。そう考えれば、ハイテクな音楽ホールと大通りのの脇という場所こそは違えど、ナサニエルと彼らの間に大きな隔たりはない。

【スティーヴとナサニエル】

スティーヴとナサニエルは、まったく別の世界に住む人間として考えるべきなのであろうか。それは、直ちに否定されるべき問いだろう。

この2人の人間が、実のところ、背中合わせになっていることに気づかなければならない。象徴的なのは、スラム街のストリートで、スティーヴの膝を枕にナサニエルが眠る場面である。うつらうつらとする中で、彼はスティーヴのために祈りを捧げる。美しい場面だ。そのとき、社会的にはエリートであるスティーヴが、路上の風景に見事に解け込んでいるのに驚くだろう。2人は、完全に溶け合っている。

これが映画のなかで重要な、もうひとつのモティーフとなるだろう。ロサンゼルスといえば、ハリウッドに、ディズニー・ワールド、ビバリーヒルズ・・・など、豪華で、満ち足りたイメージを抱く。しかし、それに寄り添うように、スラム街の惨憺たる状況が溶け込んでいるのだ。保護施設といっても、ゴッサム・シティのような混沌のなかに、埋め込まれた施設にすぎないということに、スティーヴのようなインテリ層さえも気づいていない。

映画はあくまで、スティーヴとナサニエルという1対1の関係で見られるべきだが、そこに重ねあわされるようにして、ロサンゼルス、そして、アメリカという国の実態が描かれていることは興味ぶかい。

そして、これらの状況はいつでも交換可能であることは、スティーヴとスラム街の不思議なマッチングから窺えるだろう。ナサニエルは、その狭間にぽつんと取り残された存在だったのだ。

(Aにつづく)
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2007/3/18

蜷川実花 映画「さくらん」(土屋アンナ 主演)  シネマ

今回は、映画のレビューです。蜷川実花の監督した「さくらん」です。素敵な作品です。先週、NHKの「お宝ショウ」という番組に、映画の音楽監督を務めた椎名林檎が出ていて、その凄まじい音楽にショックを受けて、吉原ものはあまり面白かったためしがないとは知りながら、あの音楽がどんな風に織り込まれているかということだけを楽しみに、映画館へ出かけてきたのでした。

ここでは映画の記事は少ないので、ここ10年くらいで印象に残った映画を挙げてみます。

 ・B.ベルトルッチ 「シャンドライの恋」(1998年)
 ・T.アンゲロプロス 「永遠と一日」(1998年)
 ・L.カラックス 「ポーラX」(1999年)
 ・R.シューベル 「暗い日曜日」(1999年)
 ・W.ヴェンダース/ボノ(U2)監修
   「ミリオンダラー・ホテル」(2000年)
 ・L.v.トリアー 「ドッグヴィル」(2003年)
 ・T.アンゲロプロス 「エレニの旅」(2004年)

ご存じの映画があるでしょうか? どこか陰のある作品が好きみたいです。谷崎潤一郎の著作に、「陰影礼賛」というのがありますが・・・。この作品には、あまり陰はありませんね。遊郭という陰影たっぷりの世界を舞台としているわりには、わりにからっとしています。性的な描写もありますが、映倫のR-12指定で大したことはありません。

この映画は、通常の時代ものがめざすリアリズムとは無縁です。吉原という歴史的なロケーションを借りてはいますが、本当にあった吉原の実像とは遠く、着物の着付け、メイク、言葉遣い、時代設定まで、すべて紛いもので出来ています。椎名さんの歌でいえば、「迷彩(カムフラージュ)」ですね。土屋アンナ演ずる主人公も、いわゆる遊女ことばを取り入れてはいますが、基本的には、現代のことばで喋っています。所作も、考え方も、現代の女性です。少女時代の主人公が、吉原に売られに来る場面がありますが、身売りのエージェントみたいな人に向かって、悪態をついている少女が、既にして現代的です。私はその場面をみて、なんだ、現代の話なのかと笑い声をこぼしたのですが、正しく、そのとおりだったのです。

ビードロの中でしか金魚は生きられない、これがキーワードでした。金魚にとってのビードロと、主人公のきよ葉にとっての吉原は、同じことです。先輩の女郎がきよ葉に、金魚はビードロの中でしか生きられない、金魚が川に出ると、代を重ねてフナになってしまうと教えるのです(金魚はもともとフナを人為的に品種改良したもので、野生に戻れば生きていけないと思いますが、運がよければ、他のフナと交わって金魚ではない子孫を生むでしょう)。彼女は自由を失い、定められた道を歩むことになりますが、そのなかにおいて、自らのことを磨くことを憶えるのです。

彼女は郭の生活を嫌っていますが、そのなかで、すべてのことを憶えていくのです。まずは恋愛、憎しみ、怒り、生きること、そして、死。とりわけ、生と死が、この映画の訴えたかった、もっとも大きなテーマであったことは明らかです。死の場面は、なんとも鮮烈な2つのシーンが用意されています。ひとつは、絵師との感情のもつれから、自滅してしまった女郎の壮絶な死であり、この映画を特徴づける「赤」のひとつの要素が、血潮であったことがわかります。もうひとつは、市川左團次の演ずる通人を迎える静かな死であって、主人公の膝の上で眠るように亡くなっていく老爺のシーンは、とても感動的です。

一方、生のほうはまず、主人公の妊娠という形で訪れます。そのとき、彼女はとある大名に身請けされることが決まっていたのですが、生むことを決意して、その大名に打ち明けます。しかし彼は、子どもごと引き受けることを約束して、主人公を驚かせます。

この大名は椎名桔平が演じているのですが、男の執念みたいなものを感じさせて、女性からみれば、甚だ煩いヤツということになるかもしれませんが、同性には共感を呼びます。さて、その子は結局、流産してしまうのですが、彼女はお腹の子を死なせてしまったことにショックを受けてしまい、そのこころを受け止めたのが、清次という店の見世番の男でした。それまでの彼女は、生きることにさほど執着していませんでしたが、お腹の子の堕胎と、清次への想いに気づくことによって、はじめて生きる意味を知るのです。

その象徴として、咲かないはずの吉原に唯一という桜の老木が使われました。ここは少女時代、逃げるのに失敗したきよ葉が、清次から、どうせ逃げてもここと同じこと。この桜が花をつけたら、俺が逃がしてやると言って、諭された場所でした。清次も女郎の子で、幼いときから店で育てられましたが、店の主人に後継者として指名を受けると、明らかに困惑した表情をしました。清次は、この仕事を奥の奥まで知っていながら、こころの底で、割り切れないものを感じていたのでしょう。

さて、身請けされる日の朝、清次ときよ葉(このときは花魁で、日暮)は、この老木の枝の付け根に、ほんの小さな花を一輪つけているのを発見します。諦めるな、花の咲かない桜はないと教えたのは、例の通人の老爺でした。最後、清次ときよ葉が手を取りあってやってきた桜並木は、一体、どこで撮影したのでしょうか。この世のものとも思えない、美しい土手の風景でした。しかし、印象としては、あの一輪にはかないません。宮崎駿の「トトロ」のエンディングで、ひょこんと頭を出した若芽のことを思い出しました。ここも感動的な場面です。

写真家として有名な蜷川は、初めての監督作品としては、よく出来ていると思います。最初、画面がやや暗すぎる印象を受けたのですが、筋を追うにしたがって、段々と垢抜けていきます。同じように、序盤はすこし表現が硬い感じがしたのですが、きりきりと角度を変えながら、尻上がりに盛り上がっていくので、全体としては、かなりの満足感を得ることができます。画面のデザインは、従来の映画の常識からすると、かなりポップで、身近な感じがしました。

赤という色の重ね合わせや、例の金魚の譬えなど、意味の重ねあわせも面白かったですね。まずタイトルからして、錯乱、古文助動詞を付けた「さく(らん)」、さくら、(おい)らん、くら(い)などの掛詞で、複層的になっています。

椎名の音楽は、やや強引に思われた部分もあったにせよ、やはり強烈で印象に残ります。これは、CDを買わなくてはなりませんね。なにより、この映画の色彩や、文体とでもいうべきものが、彼女の音楽そのものとでもいうような感じで、よくあっていました。いや、あっているというよりは、2つでひとつのものという感じがします。この歌手は毀誉褒貶が多いものの、自分としては、美空ひばり以来の巨大な才能であると評価する大歌手です。どんな歌の世界にも瞬時に染まることができるのですが、一方、歌がおわってみると、いつの間にか、彼女独特の世界になっているのです。

蜷川も、椎名も頑固なんでしょう。彼女たちがやりたいことをやっているから、多少、いびつなところはあっても、観るほうとしては飽きが来ないのだと思います。エンディング・テーマのお兄さんとのデュオが本当に楽しそうで、愉悦的でした。これが、この映画の本質なんだと思いました。なお彼女は、このお兄さんの影響をつよく受けていると言っていました。ロールが切れるまで見ておきたい映画です。
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