2009/9/13

フランチェスコ・メーリ テノール・リサイタル @東京オペラシティ 9/7  声楽

この日は、テノールのフランチェコ・メーリのリサイタルを聴いてきた。最初の曲を聴いて、ホールの特質もあるとは思うが、頭頂から躍り上がった声が高いところから響いてくるのがわかり、ベルカント系の基礎に基づいた優れた歌手であることを印象づけた。

メーリについては、歌い手としての、頑固なまでの信念において語るべきであろうと思われる。彼のうたう歌には、圧倒的な誠意があり、言葉に立脚した表現の繊細さも図抜けている。言葉と結びついた感情の揺らぎを、例えば、文節、単語といった、かなり細かいレヴェルで印象づける、こまやかな内面表現につながっている。

例えば、ドニゼッティ『アルヴァ公』からの〈誰にも気づかれずに〜清らかで美しい天子よ〉では、いかにも皮肉な哀切さに満ちた歌いだしから出発し、やりきれない想いを昂ぶらせ、アメリアの名前を呼ぶところをひとつの頂点に、やがて懇願するような口調へと段々に推移していくのが、はっきりと聴き取れる。歌の流れと、それにあわせた声の調節が実に細かい。それがチマチマした印象を与えることなく、最終的に、大胆な歌いまわしとして出力されて、聴き手を驚かせる。

次は、ヴェルディ『トラヴィアータ』の二重唱についてみよう。ここでメーリはあまり強い声を使わないが、しっかりと揺らぎなく、ヴェルディの書いた表現に忠実な歌いまわしだけで、少しぶら下がったような男声のラインが女声の毅然たる旋律線に支えられて、ゆったりと基礎づけられていること、内面的には、寒空で拾われた仔猫が毛布にくるまれるようにして、安心とともに温められていくところまで、きれいに歌い描いている。ヴェルディらしく、声部の役割が明確になっていることに注目したい。

これにも象徴されるように、完璧に描き分けられた様式観の明瞭な歌いまわしは、メーリの凄さを際立たせるものだった。それはディクションへの強い意識とも密接に関連しており、それらの要素から来る音楽的フォルムの厳粛なる煌きは、既に超一流のレヴェルといえる。マスネからドニゼッティ、ヴェルディ(同じヴェルでもやはり歌い分けがある)・・・と推移していく流れのなかで、そのことは明らかに聴き取れた。

声のダイナミズムも、自由自在であった。主に表現の頂点で用いられる逞しい声の魅力に加え、ソット・ヴォーチェの繊細さは、男声としては群を抜く柔らかさがある。会場のどこの席に陣取っても、同じように聴こえるであろう声の伸びの持続力、適切な重量感のコントロール。相手役への配慮にも事欠かず、重唱では相手を包み込むジェントルな歌いくちまで披露している。

既出のドニゼッティに加え、後半に入り、デ・クルティスの歌曲『忘れな草』から、技巧的なロッシーニの歌曲〈ナポリのタランテッラ〉へのシーケンス。アンコールに入っての『人知れぬ涙』と『星は光りぬ』といったところは、リサイタルのクライマックスを飾った。

デ・クルティスは、本当に好きで歌っている曲という感じがして、どの曲よりものびのびとした表現だった。感情の推移に繊細な配慮が行き届いていて、それらの切り口が実に鮮やかに切り替わっていく。つづくロッシーニも得意の曲という感じであるが、余裕というよりは、むしろ、じっくり歌い上げるような情熱にそれを変換しているところに、自ずと愛嬌が出る。

有名な〈人知れぬ涙〉は甘みのあるフォルムに安易に乗らず、冒頭部分は音符を正確に刻んで、言葉の飛び石を慎重に渡っていく。そして、あるべき感情の昂揚にあわせてギアが調節され、蛇に噛まれた毒が徐々に体内にめぐってくるように、歌が次第に身体のなかに染み込んでくる。前半部分の感傷性をゆったりと凌ぎ、すこし歌い方を引き締めた後半のほうで感動が広がる。これこそドニゼッティの意図した、歌唱の本筋といえる。

最後の〈星は光りぬ〉は、とにかくメーリの人間的な優しさというのが、よく出た歌唱である。とても静かな感情の揺らぎが残るとてもいい歌だけども、まだ熟しきってはいないという感じ。リサイタルで1曲だけだからできるので、これから声が追いついてくるのだろうが、日本で早めに披露してくれた。そういう意味で、メーリにはお礼を言いたい。

伴奏は、藤原歌劇団所属の浅野菜生子というピアニストで、相手の呼吸にあわせることが実に巧みなため、イタリア・ベルカント系の歌手にはよく合うピアニストだ。

私の知る限り、最近の歌い手で、これほど明確に作曲家の特徴を歌い分けた人というのは知らないの。言語はもちろん、歌の自然なフォルム、その作曲家らしい声のコントラスト、重み、言葉と音楽の結びつきの在り様、表現性の選択、ダイナミズムの自然さ、それから楽器ならば「音色」とでもいうべきもの・・・。こうした点について、再度強調しておきたい。

【プログラム】 2009年9月7日

1、マスネ 目を閉じれば〜歌劇『マノン』
2、ドニゼッティ 誰にも気づかれずに/清らかで美しい天子よ
   〜歌劇『アルヴァ公』
3、ヴェルディ 私の喜びは呼び覚ます
   〜歌劇『第1次十字軍のロバルド人』
4、グノー 神よ、何という戦慄が〜歌劇『ロメオとジュリエット』
5、ヴェルディ パリを離れて〜歌劇『トラヴィアータ』
6、チレア フェデリーコの嘆き〜歌劇『アルルの女』
7、トスティ 理想の女
8、トスティ かわいい口もと
9、デ・クルティス 忘れな草
10、ロッシーニ ナポリのタランテッラ〜『ソワレ・ミュージカル』
11、プッチーニ 私が街を歩くと〜歌劇『ボエーム』
12、ドリーヴ どんな神、どんな神だって、ああ!〜歌劇『ラクメ』

 S:セレーナ・ガンベローニ  pf:浅野 奈生子

 於:東京オペラシティ
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2009/9/12

ナイマン 妻を帽子と間違えた男 + ヒンデミット 往きと復り 東京室内歌劇場 9/5 A  オペラ

このオペラの題名は、『妻を帽子と間違えた男』となっているが、このことについて考えてみたい。帽子と間違えられた奥さんは果たして、夫に惨めな想いをさせられ、不幸に決まっているのであろうか。もしも、帽子というものが男にとって、よほど大事で、親密なものだとするならば、事情は変わってくるのではなかろうか。

少なくとも、問題の帽子と間違えられる場面で流れる音楽は、複雑なイロニーに満ちていながらも、全編のなかでもっともフレッシュなものであった。これは、どういうことだろうか。そこから逆推する形で、私は奥さんが帽子と間違えられても、十分にハッピーだったと結論するに至った。

帽子というものは、私のイメージでは、人間にとってかなり親密な存在である。帽子はファッション・コードにも関係しており、帽子をめぐる当たり前のルールがいくつかあることは、子どもでも知っている。そして、いちばん大事なことは、帽子は人間にとっていちばん大事な、あたまを保護する役割を果たしているということだ。

象徴的な意味もある。手塚治虫といえば、誰でもベレー帽姿を想像する。チャップリンといえば、シルク・ハット姿。毛沢東の人民帽は、時代の一背景すら写している。古今東西において、しばしば帽子は人間を象徴するものとなるし、各人めいめいにこだわりというものがある。キャップしか被らない人もいれば、ベレーが好きな人もいるし、それ自体がキャラクターにつながっているのだ。洋服や靴と比べても、帽子は他人の印象に残りやすい。そのような帽子が相手ならば、奥さんにも慰めがある。

奥さんを帽子と間違えたのは、滑稽で恥ずかしい体験というよりは、かえって、奥さんと教授のふかい結びつきを示すものに他ならないのだ。私はあそこで、なんと清々しい音楽が鳴ることかと気づいたときに、この作品を一挙に理解したといっても過言ではないような気がする。

奥さんは、病を知っていたはずだ。それと認めない間違いは起こしたが、教授にとってなにが大事かは、医者に頼るまでもなく知っていた。そして、それに忠実に従っていた。最後に診断が下されて、医師の口から処方箋が示されて、音楽がゆっくり静まっていくときに、そのことは正しかったことが、ようやく正式に確認される。ここでナイマンが音楽の素晴らしさを語ったなどというのは、解釈が甘いだろう。

いまやナイマンは、音楽を愛することそのものを問題にしているからだ。教授にとって音楽を愛することは、妻を愛することにもつながっている。帽子と間違えた場面以外に、シューマンの歌曲の終わりの部分がそのまま用いられた中盤の部分で、夫妻が共演したのを忘れてはならない。このときの愉悦感を出すためにこそ、シューマンの素材は必要だったのではないか。そこへ至るエレメントとして、14もの素材が散りばめられているとしたら・・・。

最後、たゆたうような静かな音楽が、ゆったりゆったりと続いていく部分は、本当に憎らしい場面だ。ここで、ほんの僅かながら、ソプラノとバリトンのハミングが混ぜられているのも見逃してはならない。ここからも、音楽を通じて愛しあう夫妻の面影を眺めることができるからである。

音楽が止まったとき、教授の人生も止まると医師が歌うとき、聴き手はどんな感情を抱くだろうか。教授夫妻の結びつきに気づいていれば、彼らにずっと動いていてほしいという想いから、音楽よ、いつまでも続いておくれと願うにちがいない。そのとき、当然ながら、そこに流れている音楽そのものにも愛情が芽生える。これは正直、ずるいような気もする。つまり、音楽的な共感とは無関係に、教授とその奥さんへの共感を通じて、間接的に音楽が正当化されてしまうからだ。

しかし、そんなことは考える必要もない。なぜなら、ナイマンがここにつけた音楽は、ほとんど静寂にちかいものであって、彼の音楽とはほとんど無関係なほど、真っ白な(透明な)音楽だからだ。いずれにしても、この最後の場面は、一見、何の関係もないように並立してきた人間(教授夫妻)と音楽との関係を、決定的に結びつけるキーになっている。そこを開けることができれば、全体のなかに繊細に埋め込まれた関係性に気づくことも容易だ。

ミニマルに新しさがないとか、そうした類の議論は意味がない。なぜなら、我々には、この音楽がドラマの重みに見合うものであったという実感があるからだ。

以上、ナイマンの作品につして詳述したので、ヒンデミットの12分の作品についての論評は割愛する。

なお、開演前と、前半の終了直後、さらに終演後に解説がつき、上演時間とトーク・タイムがほぼ同じくらいだったのも珍しい。いわばレクチャー・コンサート的な雰囲気があって、どちらかというとアカデミックな趣向であった。

会場は第一生命ホール。若干、張り出した舞台をつくったが、コンパクトなオケが舞台下手に載る形で所狭し。演唱は上手の半分のみで行なわれるが、意外と空間的な違和感は生じない。それは、この2つのオペラ自体がコンパクトで、台詞も多く、エピソードが凝縮しているせいもあろうと思った。
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