2009/7/6

路上のソリスト The Soloist A  シネマ

【3つの大事な場面】

この映画にとって大事な場面は、私からみると3つあります。

第1は、記事に感動した読者から送られたチェロを、スティーヴが大通り沿いのトンネルにいるナサニエルに届けたときの場面です。このときの演奏に魅入られたスティーヴは、「見えざる手」が本格的に動き出したことを自覚していませんが、その契機となる場面です。屈んだ姿勢のまま、ナサニエルの演奏に魅了されるスティーヴの姿は印象的です。このとき、ナサニエルが演奏するのはベートーベンの弦楽四重奏曲。周囲の騒音は落とされ、彼の楽器が発する響きが都会の喧噪を包み込んでしまうことを、観客に体験させます。

彼は当然、チェロ・パートのみを弾くのですが、我々には、弦楽四重奏の響きがきこえてきます。そして、それがときどき止んで、ナサニエルのチェロの響きだけになるのですが、これが面白い演出で、ナサニエルの楽器1本だけになったときでも、ちゃんと四重奏の響きが伝わってくるのです。これは、それまできこえていた響きの延長線上に、観客が勝手に橋脚を架けてしまうのを計算に入れた演出でしょうが、すこぶる効果的に、ナサニエルの才能を印響に刻むことになっています。

なお、このとき、自分にとって大事な楽器であるチェロを与えてくれたことで、ナサニエルもスティーヴへの信頼を抱きはじめます。そのような人間関係の結び目として重要であるばかりではなく、映像的にも、クールで、取り澄ましたポップ・アート的な美しさがあります。

第2は、先の投稿でも触れましたが、ストリートでナサニエルがスティーヴの膝を枕に、横になって眠ろうとし、祈りを捧げる場面です。この場面については、既に述べたので割愛します。

最後は、スティーヴに促されて保護施設を訪れたナサニエルの姉が、弟と一緒に佇む場面です。ナサニエルは姉が毒を盛るという妄想に取り憑かれ、彼女に辛く当たり、ながく彼女のことを避けてきたのです。そのトラウマはなぜか働かず、ナサニエルは訪ねてきた姉のことを受け容れます。姉弟が隣りあって座り、互いに安心しあったようにして佇む場面。都会の生活でボロボロに傷ついたナサニエルの魂と、その弟に故なく辛い目に遭わされた姉の魂が、ここで傷をなめあうようにして背中合わせになります。

【生半可な援助への批判】

この映画で、最大の「おせっかい」焼きは、スティーヴです。しかし、ロス・フィルの首席チェロ奏者についても、ヤキモキする人は多いでしょう。彼はスティーヴの求めに応じて、ナサニエルのコーチを買って出るのですが、良かれと思ってしたことで、いくつかの間違いを犯します。例えば、レッスンの途中でナサニエルの「神」(=スティーヴ)にひとつを加え、ベートーベンだけでなく、チェリストにとっての神さま=バッハを付け加えようとしたこと。第2に、大舞台を踏むことで自信をもたせようとして、狭いホールでのリサイタルを提案したことです。

クランドン氏は、ナサニエルに乱暴をされても、根気よく接してくれたいい人ではあります。しかし、ちょうど学生を教え導くような感覚でナサニエルに接したため、彼のコンディションや精神状態に見合わない提案をし、失敗するのです。

しかし、何といっても、最大の戦犯はスティーヴ・ロペスその人でしょう。彼は当初、ナサニエルと永続的な友情を築くことは考えていませんでした。あなたは責任をとらない、ナサニエルを利用している、と元妻になじられます。記者としては、その態度は理解し得るものですが、ナサニエルには見守る人が必要だったのです。そこまで責任をとれないのであれば、彼を「助け」ようとしたことは間違いです。「統合失調症」の保護者としてナサニエルの姉をつけようとした一件で、彼と仲違いしたスティーヴは、ようやくそれに気づきます。そして、ようやく姉を呼び寄せるという決断に至ったのです。

そして、多分、スティーヴはナサニエルの姉とともに、ナサニエルへの責任を全うしようとした決意したのでしょう。必要なときに、そばにいる人が必要というニーズに対応して・・・。

ロペス記者は社会に対して、この問題を訴えていると思います。例えば、ソマリアの内戦に国際社会が介入し、そして、中途半端に投げ出したことで、この国ではどんなことが起こったか。政治的なメッセージだけではなく、これはマスコミ報道への自戒でもあります。ジャーナリストはしばしば、騒ぎ立てるだけ騒ぎ立てておいて、ニュース・ソースとしての新鮮さが失われると、問題が解決していなくても去っていくという傾向があります。ロペス記者は、ナサニエルに対して、正にそのような態度をとろうとしていたのです。

【映画としての低調さ】

さて、そうはいっても、映画としての評価は辛辣なものにならざるを得ません。

素材としては、かなり魅力的なものを選んでいます。しかし、私は途中から、テレビのドキュメントを見ているように思ったのです。主要二役の人物像の掘り下げも甘いし、どの分野に関しても、映画として映像で訴えるのには底が浅すぎるのです。元ネタになったコラムを読めば、それで済みそうな感じで、敢えて映画にした意味がわからない作品になっています。

はっきりいうと、この映画をみて、「映画として」みれて良かったと思えるのは、サウンドの素晴らしさについてのみです。映像の美しさはありふれているし、ストーリー展開の妙は、ナサニエルの行動の意外性だけに頼っています。台詞まわしもさほど工夫がみられないし、それらは主要二役の役者としての能力が欠点を補っているものの、十分に映画的なレヴェルに達しているとは言えないでしょう。

このコラムに込められた問題がソツなく捉えられ、その意味で、考えさせるものの多い映画ではあります。ですが、それらの問題に心底から共感はできないために、大きな感動が得られないのです。それは我々がナサニエルのような人間の状態を知らず、理解力が不足しているから・・・という面もありましょうが、より重要なのは、共感に至るようなプロセスが、映画のなかで十分に組まれていないというところにあります。この映画にしかないような価値観もなく、ものの見方はよく調べてあるけれど、結局はありふれたものにすぎないのは残念です。

表現として無理がある部分としては、ナサニエルとスティーヴがロス・フィルに招待されて、リハーサルを見に行ったときの場面が挙げられます。ここでライト監督は、「英雄」のサウンドを流しながら、PCのスクリーン・セーバーを思わせるようなカラーのイメージを明滅させることで、演奏からナサニエルが得たインスピレーションを視覚化する試みを為しています。なるほど、こうすると聴き慣れたベートーベンが現代音楽のようにもきこえますし、音楽にもカラーがあると言われるぐらいですから、発想として悪くない部分はあります。

しかし、よくよく考えすぎていて、これがナサニエルのこころの中に起こった化学変化としてみるには、やや違和感があります。私とナサニエルはちがうかもしれませんが、自分の場合、確かに音からカラーを感じることはあります。しかし、それはあくまで音というメディアを見つめているという前提があります。視覚的に色がみえるのではなく、きこえてくる音に自然とカラーのイメージが乗っているという感覚です。このような陳腐なカラーの揺らぎが、あのベートーベンのサウンドから自然に導かれるものとは思えません。

また、音楽ファンの視点からすると、ジュリアードに通っていたから才能があったはずだというのは、すこし違和感があります。ジュリアード音楽院の教育レヴェルが高いのは事実でしょうが、毎年、多くの学生を送り出していますし、ジュリアードを出たからといって、即座にソリスト級の実力が備わっているとは言いがたいことは、クラシック音楽のファンならば、誰でも理解しています。

【音楽面】

音楽面は、充実していると思います。2時間ちかくの映画ですが、この低調なクオリティにして、これだけの時間をもたせるのに貢献したものは、第1に役者、第2に音楽であると思います。シンフォニーからの素材が多く使われていますが、その音源は、15年の歴史を積み重ねたエサペッカ・サロネン&ロス・フィルのサウンドです。多分、デッカあたりの録音をもとにしているのでしょう。最後の「第九」演奏会のカットでは、サロネン自身が登場するサーヴィス・カットがあります。

2008-2009シーズンをもって退任する功労者、サロネンへのオマージュとして、楽団も仕事を受けたのではないかと思います。

それに、貧困から才能でジュリアードに進むナサニエルの姿や、音楽に癒されていくロペス記者やナサニエル自身のつくる人間模様からは、ベネズエラの社会プログラムから躍り出た次期常任指揮者、グスターボ・ドゥダメルのバックボーンが浮かび上がってきます。ロス・フィルは、この2つのポイントから映画に協力したものと思われます。

シンフォニー以外の音源も厳選されており、すこし透明度があり、清らかな演奏を選んでいます。ナサニエルの弾き出す音色も素晴らしいものです。また、緩徐楽章の雰囲気を上手に使い、その表現の厚みを利用して、映画の表現に重ね合わせているのもうまいと言えるでしょう。

【まとめ】

このロス・フィルを含め、ロサンゼルスというロケーションを生かしきったという意味では、申し分ない出来にあると思います。私はむしろ、スティーヴ=ナサニエルの関係と、都市としてのロサンゼルスがもつ二面性というのを、もっと徹底的に重ね合わせることができれば、より引き締まった、密度の濃い作品になったのではないかと思います。

もうひとつ、ホームレスとしてのナサニエルに現実感がないのです。例えば、風呂にもろくに入っていないと思われるのに、匂いという要素がまったく排除されています。また、カートで持ち運ぶがらくたも、ちょっとした現代アートのようで、きれいすぎるのです。ナサニエルは、もっとドブネズミのような臭さ、汚らわしさに包まれていたはずです。でも、ナサニエルはいかにもチェリストに相応しく、上品すぎるのです。彼は、何十年も路上を彷徨っていて、スティーヴから電話があったとき、お姉さんは彼が死んだという報が来たと思ったぐらいなのです。そこを軽くみてはいけません。

結局、この監督には、もうひとつ共感できません。監督・・・というよりも、アメリカ映画はいつも、こういう感じですから、止む得ないとも言えましょう。しかし、役者と音楽が、この映画をまあまあのところまで引き上げてくれています。2度はみたくない。でも、余裕があるなら、1度はみてもいい映画だと思います。
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