2009/3/22

スダーン 未完成 & ロザムンデ 東響 シューベルト・ツィクルス 3/21  オーケストラ

東京交響楽団(東響)が、音楽監督であるユベール・スダーンの指導の下、1年間つづけてきたシューベルトの交響曲ツィクルスも、今回で最終回を迎えた。1−6番を終えた時点で、このプロジェクトもほぼコンプリートしたといえるから、「未完成」交響曲と劇付随音楽「ロザムンデ」による最後の夕べは、巨大なアンコール公演とも見られるのではないか。

本来、この慶事に添えて言うべきことでもないが、この公演は、東響のメイン・スポンサーとなってきた「すかいらーく」の支援中止が発表されてから最初の公演でもあり、楽団の未来を占うものでもあった。公演プログラムでも多分、意図的に「活況を呈する来日オーケストラ/受けて立つ日本の団体」というコラムと見開きで隣りあうようにして、パトロネージュ支援の案内が載っている。そのアピールに俄然、説得力をもたせるツィクルスの最終公演であったと思う。

【今回のシューベルトはスダーンの音楽そのもの】

今回の演奏を聴いて、このシューベルト・ツィクルスは、確かにこの愛すべき作曲家への偉大なオマージュであったのは確かだが、何よりも、音楽家としてのユベール・スダーンの真心がぎっしり詰まった演奏だったと、今更ながらに気づくことができた。

最後の舞曲がおわった瞬間、自画自賛というよりは、楽団へのふかい敬意をこめて「ブラヴィッシモ・・・」と囁いたスダーンの言葉が、すべてを物語っている。クラシックの演奏ではしばしば、オーケストラが指揮者の意図をどれだけ形にできたかが問われるが、今回のシリーズに関しては、スダーンのやりたかったことは、ほぼ彼の思いどおりに形になっていった。だから、万一、このシリーズの演奏に疑問をもった人があるとすれば、それはスダーンの音楽そのものに対する違和感だったといえる。実際は、多くの人たちがむしろ、その音楽のゆたかさに感服しているところだろう。

劇付随音楽「ロザムンデ」に関しては、半年ほど前、読響にゲルト・アルブレヒトが来演しての演奏が素晴らしかったこともあり、私の評価はすこぶる厳しくなっていた。なにしろ、あの日の読響は、正に外国の一流オーケストラを迎え撃てそうな出来だった。だが、この精巧な手腕をもったドイツ人を迎え撃つに、スダーンのとった戦術は、近年、劇場指揮者としても評価を高め、もともとモーツァルトやハイドンを得意とする室内楽的手法の持ち主である、彼のパーソナリティそのものをぶつけることであった。

【声の使い方の巧みさ】

実に驚いたのは、声の使い方の巧さだった。劇付随音楽の「ロザムンデ」には、一見して単純なようでいて、実はきわめて難しい、ごまかしのきかないコーラスが3つある(うち1つは、さらに厄介な男声合唱)。そして、たった1曲だけメッツォが独唱する、美しく清澄だが、下手をすると何の印象も残らない、麗しい「ロマンス」というナンバーがある。これらの演奏の柔らかく、こころに引っ掛かる演奏について、どのように描写したらいいのだろう。

もっとも印象ぶかいのは、羊飼いの合唱(第7番)だ。十亀正司の吹くクラリネットのたおやかな導入につづき、牧歌的なオブリガードに乗りながら、最初の男声、そして女声の合唱が入ってくる。まず、その美しい発声にこころが躍る。さすがは三澤(洋史)、これはオペラではないけれど、広い緑の草原、遠くに海が広がり、そこに若い男女が円環をつくって遊ぶ光景が、歌の響きから手に取るようにわかる。

だが、それを紳士的に支えているオーケストラの響きの、柔からさに注目したい。特に合唱から伴奏、伴奏から合唱への受け渡しが見事だ。オケがしっかり張りをつくると、そこに合唱はふうわりと乗っかるだけでいいという、こころやすさである。きっと、歌いやすいにちがいない。互いによく聴きあっているし、表現しようとするものに齟齬がない。互いが互いをわかりあっている。こういうことは、オーケストラをメインにした指揮者には意外と難しいのであって、それをスンナリとこなしているスダーンという指揮者は、どちらかといえば、コンサート指揮者、もしくは学者として有名になったが、天性の舞台音楽家なのである。

この安心感が、「春の喜びに抱かれよ/愛と喜びこそ とこしえの 5月」「谷間の蔭では 愛するこころの苦しみも口を閉ざす」と歌うような、素直な愛の賛歌にリアリティをもたらし、終盤、再びクラリネットのソロに流れ込んでいく優しさと、直結していくのだから面白い。最後の十亀のソロには、思わずほろりと来る。

難しい「亡霊の合唱」(第4番)も、歌詞の雰囲気をなんとか保存しつつ、うまく乗りきったし、終盤に置かれた「狩人の合唱」(第8番)は、歌詞がとろけるような自然さで、それまでオーケストラが織り成してきた世界に、ポエジーを流し込んでいく。

そして、美しすぎるロザムンデの乳母(谷口睦美/以前は根ぶとい黒髪が美しかったが、この日は髪をブロンズに染めていた)が歌った、メッツォ独唱の「ロマンス」は、聴き手のこころを完全にメルト・ダウンさせたことだろう。バックの木管楽器の、繊細なツケも見事だった。

【肉感的な構造と職人的なアンサンブルへの配慮】

序曲は、これまでのツィクルスのデジャヴーを思わせる部分がある。ロッシーニからの影響も濃厚な、息の長い盛り上がりは、キタエンコのときの「イタリア風序曲第1番」を想起させるし、跳ね上げるようなギャロップのリズムと、それに伴う起伏のつけ方は、このシリーズのいたるところに登場した。4番の演奏のとき(初回)は、馬の手綱をとるような仕種をみせてオケを鼓舞していたが、もはや、その語法はしっかり身についている。

第2幕への間奏曲(第1番)とバレエ第1番(第2番)は似たような素材を使うが、これが非常に個性的なフォルムで、びっくりさせられる。特に間奏曲では、アルブレヒトが渦巻くような響きをエレガントに描き上げていたのに対し、スダーンはティンパニの強打などを叩きこみ、響きの押し引きを力強く造形していく手法をとって、我々を驚かせた。それに象徴されるように、弦のラインをザクザクと深く抉り、朴訥な強調を叩き込んでいくスダーンの「大工仕事」は、実に手ごたえのある響きとして、聴き手に伝わってきた。

だが、それがただの力業になっていないことは、結びとして選んだバレエ第2番(第9番)の演奏を聴いても明らかである。このナンバーでおわるとわかっていた人たちは、どこまでも続いてほしいと思わせる、たおやかな響きに包まれ、これで本当におわることができるのかといぶかしんだのではないか。とりわけ、オーボエ・クラリネット・フルートのトライアングルを中心に、大事に響きを確かめあいながら演奏する姿からは、一見、突貫工事ともとられかねないこの仕事が、いかに職人的な配慮に満ちみちた名品であったかということを教える。

そして、そのことは既に述べた声の使い方の丁寧なデザインに、結びついていくのである。

【スダーンのシューベルトはシンプルそのもの】

スダーンのシューベルトは、ある意味では単純で、シンプルだ。

前半の「未完成」を聴けば、そのことはよくわかる。巨匠時代の重々しい演奏から、インマゼールの快速にしてドライな演奏まで、この曲は「未完成」であるだけに、かえって多くの可能性を演奏者に与えてきた。だが、本筋に置かれるべき作品のシンプルな特徴について、堂々と指摘したうえで、真正面から演奏してみるというバカ正直さは、誰にもなかった。インマゼールでさえ、その「オーセンティックな」解釈にはある種の誇張を含んでいる。

スダーンの演奏も、決して、「何も付け加えない」などというありがちな形容にはまるものではない。ゴツゴツした弦の響きの生硬さや、一拍目を敢えて外す(軽くする)ことでつくられる、フレーズの引っ掛かりについては、後半のロザムンデ同様、驚かされたものだ。しかし、それを計算に入れても、やはり、総体的にみたときにスダーンの演奏が、シンプルそのものであったという評言が、的はずれであるとは思わない。

残念ながら、「未完成」交響曲の演奏について、他のナンバーと比べて完成度が低かったのは止むを得ない。特に、ロザムンデで大活躍した木管のトリオを中心に、管の響きが弦のつくる層に乗っていくときのアンサンブルはやや乱雑であり、トレーニングが十分でないことは窺える。しかし、前日に聴いた大阪のオケと異なるのは、たとえそうであっても、1つ1つの音やフレーズの処理をゆるがせにしない・・・という基本的な部分で、集中を切らすことがないことである。

例えば、いちばん最後の木管の伸ばしは、完璧にいったとは言いがたい。しかし、とにかく、このフレーズをできるだけ生かそうとする奏者の想いは、響きにしっかりと乗っている。我々は内心、もうすこし頑張れ・・・とこころのなかで叫んでいるのだが、最後まで伸ばしきらないうちに切り上げてしまう奏者は、わりに多いのである。スダーンの時代になって、こうした部分は徹底されている。指揮ぶりを見ていても、最後までしっかり振ることで、最後まで大事に、こころを込めて・・・という基本的な演奏姿勢を、いつも訴えかけているように思われる。一方、そういう部分で、(苦しい)フレーズをしっかりと弾き(吹き)上げた奏者には、必ずといっていいほど、小さな賞賛を投げている。

正に、この姿勢こそがユベール・スダーンという指揮者を象徴しているし、東響が本来、もっているはずのパーソナリティを自然に引き出すことに繋がっている。いま、東響は在京の優秀なオーケストラ群のなかでも、特に、このようなデリカシーのあるオーケストラになっている(少なくともコンサート公演では)。だからこそ、聴き手のほうも、そこにぐっと感情を傾けていくことができるのだし、それがまた、奏者のこころに向かいあっていくことになる。

そういう意味でいうと、「未完成」の演奏は、良い/悪いというよりも、会場全体で作り上げた演奏という感じがした。なにも、正月の「ラデツキー」のように拍手したりするのだけが、聴衆の参加というわけではない。「未完成」は多くの人がよく知っている曲目であるし、そういうやり方も立派に成り立つというわけだ。

シンプルな音楽を、手抜きなくしっかりと作り込んでいくこと。そして、そのシンプルさゆえに、聴き手が創造に加わっていくことができること。この2つが、シューベルト・ツィクルス成功の鍵を握っていたのだ。

【まとめ】

こうして、東響にとって重要な1年間がおわった。定期はすべて終了し、あとは、オペラシティのシリーズが1回、ほかに、いくつかの雇われ公演があるだけだ。そのオペラシティでは、再びスダーンのタクトの下、ブルックナーの交響曲第7番を取り上げる。スダーンとのブルックナーは8番以来のことだと思うが、多くの賞賛を集めたシューベルト・シリーズを踏まえ、この大曲の演奏がいかなるものとなるのか、引き続き注目されることだろう。

たとえ、「すかいらーく」の撤退は見えていても、東響は、スダーンとの契約にこだわった。素晴らしい英断ではないか。新しいスポンサーが見つかるまでは、このパフォーマンスを維持し、発展させていかなくてはならない。私も、できる範囲ではあるが、愛する楽団のために微力を傾けたいと思うのである。

【プログラム】 2009年3月21日

1、シューベルト 交響曲 D.794 「未完成」
2、シューベルト 劇付随音楽「キプロスの女王 ロザムンデ」
 (Ms:谷口 睦美 chor:東響コーラス *合唱指揮=三澤 洋史)

コンサートマスター:ニキティン・グレブ

於:サントリーホール
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