2009/2/8

リゲティ ル・グラン・マカーブル 東京室内歌劇場 @新国(中劇場) 2/7  オペラ

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東京室内歌劇場の公演で、リゲティの歌劇「ル・グラン・マカーブル」が日本初演された。倒錯的な作品で、言ってみれば、我々はひとつのゴミを目にしたようなものだ。キッチュで、ナンセンスで、恥知らずで、しかも、支離滅裂だ。これがオペラを否定するムジークテアターに挑戦状を叩きつける、「アンチ・アンチ・オペラ」なのだというが、「アンチオペラ」、あるいは、「オペラ」そのものについてさえ、よくわかっていない自分が、「アンチ・アンチ・オペラ」について、述べることはできない。

ゴミといって悪ければ、この作品は、大いなるオペラの歴史から投影された影のような作品なのである。さて、影というには、あまりにも闇の部分が大きすぎるであろうか。でも、そういったほうが、物知り顔に「アンチ・アンチ・オペラ」などというよりは、よほどしっくりするように思う。

さて、この作品をみてまず思ったことは、いかにリゲティが精神的に図太い人だったかということである。彼はこの作品を書くことによって、自分があらゆる形で批判されることを畏れていないかのようだ。この時期のリゲティは、初期の先進性からは後退したと見做され、もはや、新しいものを生み出し得なくなったと批判された時期を通っている。だからというわけではなかろうが、リゲティはもう、どんな恥にも動じないようになっていたようだ。例えば、この作品の一部で聴こえてくる東洋的なエレメントは、リゲティが自らの手法を盗用したとして厳しく批判をおこなったジャチント・シェルシの世界を思わせる。そんなものも匂わせながら、リゲティは何者にも屈しない独特の世界観で、この作品を織り上げていく。

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私は、いろいろなパロディを含むなかでも、やはり、モーツァルトのエレメントが、逆立ちした状態で、ベースに使われているように思った。ちょうど手袋から指を抜いて裏返したときのように、モーツァルトのオペラ作品が、反転した形でリゲティの作品のベースを作っているのではないか。

例えば、最初の場面で、墓場から上がってくるネクロツァールが、地獄落ちしたドン・ジョヴァンニの巻き戻しであることは、論を待たない。そして、彼を迎えるのは、彼を追うように地獄に落ちたかのような、モーツァルトのキャラクターたちだ。酒飲みのピートはパパゲーノ、もしくは、レポレッロとネガポジの関係。メスカリーナとアストラダモルスは、夜の女王とザラストロが別れる前の姿だろう。レズ関係のアマンダとアマンドは、「コジ」の姉妹たちの成れの果てなのかもしれない。夜の女王から解放されたアストラダモルスは、ゴーゴー侯と、伯爵&フィガロの関係をつくる。最後の場で、兵士が3人=1組で登場するのも偶然ではあるまい。

最終的にネクロツァールが地獄に戻り、いやに教訓的な数行の標語が、大団円のなかで歌われる。ネクロツァールの預言が破れたことを教えた、喉が渇いているから生きている・・・という甚だ弱々しい生存証明と、レスビアンたちが歌う愛の賛歌だけが、しかし、この作品のなかできわめて重要な、希望の役割を果たして終わるとき、私は不覚にも、ぐっと胸を衝かれる想いがしたものだ。第3場の土壇場で、ゴーゴー侯は絶望のなかで、ブリューゲルランドへの別れを告げる。だが、この仮想の国は決してなくなりはしない。人間が生きる限り、このようなドタバタ劇は避けて通れないからだ。そして、リゲティはこのように変テコな、何の意味もない、恥さらしな、屈辱的な物語のなかにこそ、偽らない人間の本質があることを強烈に印象づけたのだ。

そして、そのようなことをもっとも得意とした過去のオペラ作家といえば、モーツァルトをおいて他にはあるまい。

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さて、この奇妙奇天烈な作品を形にしたのは、ARICAという演劇グループを指揮する藤田康城のチームである。藤田は、この作品を大体においてオーソドックスに捉え、音楽が訴えかけるものが自然に醸し出す要素だけを、シンプルに視覚化している。その上で、ピートは昭和初期の路地裏のうらぶれた酒場のようなセット(車輪付)を引き回し、第3場では霊柩車や葬式の花輪を登場させたり、ト書きに指定されたものを解釈し、日本的なものにうまく置き換えるセンスは、なかなか面白い(敢えて、秀逸であるとは言わない)。ちなみに、あの霊柩車は一瞬、ロビーに置いてあったトヨタ・レクサスに見えたのでゾッ(ニコッ)としたが、もちろん、トヨタ製の霊柩車はない(本当にレクサスだったら大笑いがとれるだろう!)。

冒頭、人をばかにしたようなキッチュなファンファーレでは、舞台奥にもうひとつの客席が現れ、こちらを鑑賞している。天井からロープのようなものがたくさん吊るされ、照明機材の配線をうまく使って地獄の雰囲気を出した、新国バレエ「オルフェオとエウリディーチェ」の発想と似通っている。ファンファーレのときには、たくさん吊るされた電球が互いちがいに明滅し、それが音楽のリズムとあうと、いかにも安っぽい感じがする(そういう作品なのだ)。

墓場の扉が開くとなかが見えるようになっており、そこには衣紋がけで衣類が掛けてあったり、とても墓らしくはない。ちょうど住みやすい、小さな部屋という感じにも見えた。

最初に登場するのは、キャラクター役を得意とする高橋淳だった。オルフの「カルミナ・ブラーナ」でも、ちょっと突き抜けた酔漢の歌唱で有名だが、最初から最後まで、あのテンションはなかなか維持できないだろう。アマンドとアマンダが登場。髪の毛(かつら)が色分けされているが、乳房がいやに伸びる肌色の全身スーツ。それを引っ張りあいながら2人は仲良く睦みあい、同性愛を演じる。だが、歌の旋律線は言葉が解体してナンセンスであるものの、響きは美しく耽美的だ。小畑朱実と津山恵のデュオが、声質をなるべくあわせて、きれいな綱渡りを見せる。ちなみに、ピートとこのアマンダは、二期会「イェヌーファ」公演のシュテヴァ役と題名役だ(さらに、翌日のピートはラツァ役だった)。

鍵を握るネクロツァールは、白塗りの顔面に、黒装束。松本進のがっしりした身体が、この役によく映える。大劇場では低音が弱いと思うが、この規模のホールではしっかりした発声と聴こえただろう。ファルセットからドバスまで歌う役だが、安定感がある人だった。第3幕で生き血と思って、従者たちが差し出すワインを飲み干していく場面は、例のピートのバーから瓶を抜いてきて放り投げる形をとったが、ばかばかしいのに迫力のある場面だ。この役は既述のようにドン・ジョヴァンニのリバースでありながら、騎士長の頑固さも持っている。そのような二面性を、松本はうまく演じ分けている。自信喪失し、再び地獄落ちする場面の脱力は素晴らしい。

第3場では、音楽のコラージュにあわせて、霊柩車にまたがってやってくる。それは少し、三社祭の神輿にまたがって、神社に批判された人たちのことを思わせるものがある。これに象徴されるように、リゲティの描きこんだ人物たちが、今日的にみても、まったく古くさいとは感じられないことに注意したい。自閉気味でありながら、同時に目立ちたい衝動を捨てきれないゴーゴー侯は、昨今の閉じこもる小・中学生にありがちな性質であるし、男性的なものを抑圧し、卑屈に生き抜いていくアストラダモスと、女性的なものを壊し、夫を打ちのめしていくなかで、僅かに残る自らの魅力を喪失していくメスカリーナとの夫婦生活は、今日の家庭状況に一般的といっても過言ではない(もちろん、例外も多い)。

そういう面でいうと、西川裕子(メスカリーナ)と若林勉(アストラダモス)のやりとりは、やや実直にすぎるかもしれない。だが、歪んだ夫婦生活の一場面を切り取るには十分だ。細君と死に別れてからの若林の演技が冴えているが、これは偶然ではないだろう。また、これは、有名なオルフェオとエウリディーチェの物語とネガポジになっていることを指摘したい。

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第2場ではヴィーナス、次の場では秘密警察の長・ゲポポとして登場する森川栄子は、特に後者で映えた。ゲポポは鳥のさえずりのような、あるいは、夜の女王のヒステリックな歌い方を思わせる難技巧が厳しく織り込まれており、演出も、飛び跳ねたり細かい動きを当てていた。これを完璧にこなす森川のテクニックは、日本人のなかでもトップ・クラスというべきだし、意外と少ない台詞で、このキャラクターをしっかり印象づける演技力も光る。

ヴィーナスといっても、やはり、イメージが反転された存在だ。彼女につかわされたネクロツァールは、メスカリーナを絶命させる。ゲポポも情報によって、ゴーゴー侯に利益ではなく、絶望を与える役割だ。これはことによったら、(役名から想起される)ゲシュタポのイメージを通り越して、マスコミ批判の意味を含んでいるのかもしれない。

カウンター・テノールが演じる、そのゴーゴー侯爵。子どもじみた面と、意外な算段高さが同居する支配者は、前半は2人の大臣とのトリオ・コント、次にアストラダモスとのデュオ・コントを挟み、キャラクターが「成長」していく。池田弦はヨーロッパにいるような、美声とアジリタの素晴らしいカウンターではないが(そういう曲でもない)、アルトの深い声という点では得がたいものを示す。第3場の最後で、消滅する王国に別れの言葉を投げかけるところは同時に、この戯画化された人物の内面に隠された濃厚な「ロマン」が曝け出され、そこに流れる響きに乗っていくときの歌唱の深みが決め手となる。

このように多様なキャラクターが織り成す、歌の・・・というよりは、パフォーマンスの競演は、歌唱における言語の重要性という問題さえ、対象化しているように思えた。この日の字幕は、評論家の長木誠司がいささかワルノリ気味につくったものだったが、その評価については割れるところがあるかもしれない。私はどちらでもいいが、それは、こうした字幕さえあってもなくてもいいような感じを抱かせるような、劇の内容だったからだ。

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ところで、ネクロツァールの予言は当たったのだろうか、それとも、外れたのだろうか。もちろん、最後の場の2つのメッセージからすれば、それは外れたというべきである。だが、2人の太鼓もちに唆されて酒をあおるまでは、ネクロツァールの予言は着々と進行していたようにも思われる。酒に酔いつぶれ、予言の刻限が迫ってしまう場面の緊張感を、今回の演出は意外にしっかりと描きこんでいる。遅れ馳せながら、儀式を司るネクロツァールに、静かな・・・否、大いなる死(グラン・マカーブル)が迫る。

結局、ネクロツァールが示し得たものは、たった2つのシンプルな教訓にすぎない。だが、たったそれだけの僅かな存在証明を握りしめながら、我々は・・・オペラは、生き抜かねばならないとリゲティは言うのだろうか。ノーノが、「進むべき道はない、だが進まねばならない」という作品を書いたように!

最後の「パッサカリア」という古い形式に戻って、作品を終わらせるというのも示唆的ではないか。それは、ウェーベルンが作品番号1で、彼にとって象徴的な「パッサカリア」を書いていることを思い出させる。こうした伝統的な・・・ということは、リゲティが書いていた頃には賞味期限切れと思われた素材を使うことで、まったく新しい効果を生んでいるのは面白い。この作品に登場するかなり露骨なパロディは、間違ってもオマージュと呼べるような代物ではない。パロディは停滞的だが、リゲティはそれを臆面もなく導入することで、我々をまったくちがう地平に誘い込もうとしているからだ。

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オーケストラは寄せ集めと思われるが、東京室内歌劇場管弦楽団と名乗る。トランペットに神代修がいた。率いるのは、大阪センチュリー響の設立に関わるなど、わが国とも縁が深いというウリ・セガルだが、なかなか引き締まった指揮ぶりだった。合唱団も常設ではないが、よくトレーニングされていた。

中・小規模の箱をうまく選んでくる東京室内歌劇場だが、こうした手ごろな空間でこそ、思いきり味わえる作品という気がするので、こうした機会は得がたい。

演出チームは藤田のもとに、美術=中村竜治、照明=岩品武顕、衣裳=堂本教子、振付=神村恵。ダンサーを有効に使ったのはわかる。藤田の母体、ARICAの中心的な女優であるという安藤朋子がパフォーマーとしてクレジットされているが、これは不明にして印象が残っていない。演出全体は悪くないと思うが、世界的には通用しないレヴェルと感じたことを付記しておく。
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2009/2/26  18:52

 

 先ほど、更新終了致しました〜。
 オペラビュー09年02月21日号は、こちらから、ご覧下さいませ。

 こちらの画像でもおわかりかと思いますが、わたくし、使用ブラウザも
「オペラ」という、徹底振りでございます[:イヒヒ:]  
 で、肝心の更新ですが、ステージビ 



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