2008/11/30

ル・ジュルナル・ド・ショパン 3日目 11/29  演奏会

この日はひねもす、ショパンの音楽に明け暮れた。「ル・ジュルナル・ド・ショパン」も、いよいよ佳境となる、3日目の公演を迎えた。

【凄いぞ、エル=バシャ!】

この日のハイライトは、「No.7 内なる声へ 1832−1835年」(16:00〜)のメインを飾った、エル=バシャによるエチュード(op.25)の演奏であった。ショパン演奏の技術とセンスが厳しく問われる、この作品で、エル=バシャが見せたパフォーマンスは、正に文句のつけようのないものであった。

まず、最初の op.25-1 イ長調 「エオリアン・ハープ」が印象ぶかい。エル=バシャはごく自然な手さばきながら、弾力性のある響きを適度な長さに刻み、なるほどハープの爪弾きを思わせるような響きをつくって、シューマンによって名づけられたというニックネームが、妥当なものであることを示した(単に『ハープ』のほうがいいかも)。それどころか、ピアノの祭典に紛れ込んだ弦楽器の響きは、いつにも増して優しげな響きに聴こえた。

1曲ごとに特徴的で、ひとつずつ述べていってもいいくらいだが、それをぐっと呑み込んで、焦点を絞って話していこう。イ短調の op.25-4 は、ベイルート生まれのアラヴ人、エル=バシャのバックボーンが上手に作用しているのか、左手のもこもこした響きに乗って、動く旋律のエキゾチックな雰囲気が際立っている。ト短調の op.25-6 は、和声の感覚に強い彼ならではの、ハーモニーの美しさに息を呑まされる。特に、音の多い部分での完璧な響きの重なりはエル=バシャにしか表現できないもので、ある種のエクスタシーを生む。

最後、op.25-10 からの3曲は圧倒的な演奏だ。静かな部分でも、激しい部分でも、常に中心に置かれる踊りのスイング感が失われず、適度にキープされているのが驚くべきこと。「木枯らし」は、右手と左手の役割が入れ替わることで有名だが、エル=バシャの場合、それどころか、あたかも男女が絡みあうダンスのように、互いが別々の存在を主張しあって譲らない。もちろん、そのためにフォルムが乱れるということはなく、逆に、既に述べたような揺動が伸縮のエネルギーとなって、楽曲に弾力性を生み出している。繰りかえしの響きのなかには、ほんの僅かに混ぜられたルバートが息づき、隠し味になっている。決然として、鮮やかな波しぶきが目に浮かぶ、op.25-12 は、和声の動きが手にとるようにわかり、特徴的な旋律のアクションよりも、全体の構造が、弾きおわりに向けてぐっと引き締まっていくのが、全曲の締めくくりとして相応しい演奏だった。

録音、実演を通じて、この曲にはしばしば接してきたつもりだが、今回の演奏は、どんな高名なピアニスト、ポーランド派のスペシャリストたちにも真似のできない、高みを感じさせる演奏だ。(弾けはしないけれども)ショパンへの愛着がふかい私は、感激して、胸が詰まった!

今回、エル=バシャは、企画の中心的位置を担っただけあり、ほとんど隙のないパフォーマンスで、若いメンバーたちを引っ張った。彼がメインでない公演でも、やはり、エル=バシャの存在は光った。例えば、ジュジアーノがプレリュードを弾いた No.9 の公演では、神秘的で、音符が葡萄の粒のように引き締まった「ヘクサメロン」と、op.34-1 のワルツの正に「華麗なる」響きで、見事な露払いを演じている。

シュクラン、ジャジーラ!

【見本のようなジュジアーノ】

ジュジアーノは、どの曲を弾くのでも、理想的な模範演奏を示していた。この日、最後となる「No.9 マヨルカの風 1831-1837年」では、op.28 のプレリュードを全曲演奏した(しかも、その前にバラード第2番も演奏)。だが、この曲では、思いきって自己の内面にあるものを叩きつけ、情熱的に弾くナンバーが多くなった。

面白いのは、「マヨルカの雨」と題した公演のサブ・テーマに、この作品が驚くほど合致していることだ。サンドとの同地への苦しい船旅をし、最高の瞬間と、最低の瞬間を同時に味わったショパンが、幸福の絶頂から、荒波に呑まれていくまでの過程が、ジュジアーノのストレートな表現から、浮かび上がってくるのだ。ときどき見せた、運命の低音が、この楽曲を表現するときのキーとなっている。例えば、最後のニ短調のおわりで、彼が死に物狂いで打鍵した低音の連打は、ショパンの重たい恋の苦悩を端的に物語るだろう。

なお、この曲は6つごとにわけて聴く習慣ができたが、ジュジアーノも、その区切りで演奏していった。全体の構成はやや平板だが、目の前の曲が次の作品の「前奏曲」となり、主客を入れ替えながら、流れよく進んでいく様子はよくわかった。

【マズルカ賞・バル=シャイ/ポロネーズ賞・ヌーブルジェ】

バル=シャイは、録音も残しているマズルカの演奏で、聴き手を捉えた。彼のマズルカは、初日のリポートでも述べたとおりだが、非常に個性的でありながらも、ショパンらしい特徴をふんだんにアピールするものとなっている。ときどきやりすぎてしまうこともあるが、その自由な揺らぎは、今回のピアニストたちのなかでは特筆すべきものだ。特に、マズルカには、その表現がぴったり来ている。自分のペースをもち、よく練られた演奏をおこなっており、数音弾いただけで、涙が出そうになるものもあった。

一方、彼にとってのチャレンジ・プログラムとなるポロネーズはから、「軍隊」のニックネームをもつ op.40-1 を演奏した。マズルカと比べると、やや大味な感じもあるが、ハーモニクスの感性が鋭いので響きに品があり、同じような旋律では得意のルバートを軽くはさむなどして、聴き手を飽きさせない。

だが、ポロネーズに関しては、最年少のヌーブルジェに分がある。彼は弾くごとに調子を上げてきたが、特にポロネーズでは、その勇壮で思いきったアタックが、よく合っているようだ。この日の演奏では、No.7 の公演で、「演奏会用アレグロ」(op.46)で、正しく演奏会向きの外向的な演奏をみせたり、No.6 の公演での「ボレロ」の瑞々しい演奏もあり、好調だった。

【ケフェレックは独特の味】

フランスでは、意外にショパンの人気は高くないそうだ。ケフェレックは明日、チャレンジをする曲目を除き、ここまで(私の聴いた公演では)、典型的にショパンらしい作品は弾いていないので、さほど得意ということではないのかもしれない。だが、それを感じさせることなく、どれも優美なセンスに彩られた、独特の味を出すまでに仕上げているのはさすが。この人とエル=バシャは、やはりモノがちがうのだろう。

29日は出番が少なく、No.6 の公演で、4曲を弾いたのみである。しかし、その4曲がまた凄かった。特に、最後の 編イ長調のワルツ op.69-1 「別れ」は、身につまされてしまう。彼女のショパンは全体的にゆったりしているが、そのなかでも引きずらず、持ち前の華やかな響きは爽やかな別れをイメージさせる。だが、最後になってすこしだけ沈み、やがて訪れる沈黙は、この上もなく切ない。

その前は、ノクターン op.15-3、変ロ長調の「カンタービレ」、変ホ長調の「ラルゴ」と弾いたが、この日のケフェレックは初日に指摘した、表現の厚みに加えて、香りをプラスしてきた。もちろん、「別れのワルツ」もそうだが、いい匂いがする響きで、耳と鼻からリラックスしていく。

【児玉はパデレフスキ・スタイル】

これらに対して、どうしても納得がいかなかったのが、児玉桃だ。ショパンは録音もあるにはあるが、この日に聴いた限りでは、児玉のショパンはパデレフスキ派の流れを引いている。左手のキープが甘く、右手の動きに連動して、左手のテンポも揺れる。その範囲においては、なるほど洗練されているし、打鍵のキレもある。

しかし、ポーランド=エキェル派の啓蒙を受けた私としては、まるで細胞が水を吸って伸縮するように、小節が伸び縮みするような感覚には、やはり違和感がある。このことにより、フォルムに厳しさがなく、ショパンの意図したものの半分が、とろけてしまうのは確かだ。その分、そうした揺らぎが少ないノクターン op.27 などでは、彼女らしい音色の深さ、表現の柔らかみを楽しむことができる。

だが、エル=バシャを引き継いだ op.34-2、op.34-3 の、煮えきらない表現をみれば、その差は歴然としている。

あと1日あるが、私はこの日が見納めとなった。次回、各公演につけられたテーマと、演奏の関係について補足したい。
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