2007/8/27

アゲハの恋 青いサカナ団 8/26  演奏会

26日、青いサカナ団の歌劇「アゲハの恋」の上演を視聴した。今回は2度の公演で前日が初日に当たるが、こちらは2日目の公演である。

全体の印象としては、とても素直な作品で気に入った。「アゲハの唄」が、妙にこころに刺さってきて・・・。でも、そのイメージが強すぎた感はあって、「ア・ゲ・ハ!」というシンプルな音楽的素材が、あまりにも効果的すぎるために、他の素材に対する印象が薄くなってしまったことは残念だった。もしも、(私には信じられないことだが、)あの「アゲハの唄」が気に入らないという観客がいたとすれば、この作品は成り立たなくなってしまうのだから、大変な問題だろう。

この「アゲハの唄」は、第1幕、子どもたちが捕まえたアゲハ蝶を放させる代わりに、主人公のギタリスト兼作曲家、ケンジが子どもたちに聴かせるために生まれた。その後、人間の姿になって現れたアゲハに求められて、アゲハの声も交えながら2回目を歌い、最後の場面では、ケンジと子どもたちとの合唱、そして、全体合唱に発展していく。中心となるモチーフが、「A・G・E・H・A」音でつくられているという。曲調はミュージカル風の軽めの音楽で、アゲハのひらひら感がでた佳曲であるが、まあ、ありふれている。確かにありふれているのだが、神田は、そういうありふれた素材を、臆面もなくオペラの中心部分に据えている。

このことだけをとっても、この作品はとても大胆であるといえるだろう。先ほど言ったように、「アゲハの唄」が気に入らない観客がいたら・・・とか、そういう心配ごとをはじめから切り捨てたところで、神田は創作しているのだ。この作品は、相当にリスキーなのかもしれない。プロットが他愛もない、現実味がない、オペラとしては軽すぎる、ミュージカルとしては退屈、劇としては言葉が聞こえにくい、あんなものはクラシックの歌じゃない、紋切り型だ、下らないパロディで塗り込められている、ユーモアが古くさい、新しさに欠ける、作品のフォルムが決まらず折衷的、メッセージが曖昧、何が言いたいのかわからない・・・予想できる批判はいくらでもあるから。

だが、それらの批判のどれもが当てはまるとしても、私は、そのことによって、この作品を語るということは、まったくナンセンスなように思えてならない。といって、ほぼ全ての素材が借りものだけで固められた、この作品を、神田がなにゆえ創ったのかということについては、まったく疑問がないといえば嘘になるだろう。この作品を語るのはすごく難しいから、とりあえず、書きやすいことだけを書いておいて、少しずつ加筆していくつもりだ。

まず、この作品は、こころをきれいにして聴きたい作品だったと述べておく。私もまた大人の手垢にまみれきって、アゲハのような、清らかなこころはもたない者だ。だが、せめて、この作品と一緒にいる間は、それでもきれいな部分が残っていると思っていたい・・・そう思わせる作品だった。といって、この作品は人間のきれいな部分だけを描いた作品ではない。むしろ、主役のケンジだけをみても、欠点ばかりが目立つ。与えられた仕事に対して真面目さがないし、すぐに逃げ出して周囲に迷惑をかける。喧嘩っ早く、我慢がきかない。女に対しても・・・。

だが、子どもに捕らえられたアゲハ蝶を放してやりたいと思うような、小さなやさしさと、素直な歌の清らかさだけが、彼の価値を引っくり返してしまう。なるほど、彼はドン神呂の言うように「クズ」にすぎないのだが、アゲハは、ケンジのよい部分だけを徹底的に信頼している。そういう彼女が味方につくと、「クズ」はたちまち宝となるのだ。

ケンジ役の秋谷直之が、素晴らしかった。カラフのときもそうだったが、高音が伸びないなど、歌の巧さということでいえば、さほどでもないとは思う。でも、とにかく真面目に歌ってくれたし、欠点だらけであっても、クズなんかではなく、一生懸命に自分の人生を生きているんだという、ケンジの姿を体当たりで演じきってくれた。神田作品では、去年の「僕は見た、満開の桜の樹の下で」でもそうであったように、歌手の頑張りというのが、歌の良し悪しとかそういうものを越えて、ダイレクトに観客に伝わるようになっているのが大きな特徴だ。

例えば、彼に、少しでも照れのようなものがあったとしたら、この作品はもう成り立たない。少しでも、「演じる」という意識があれば、嘘くさくなる。役の存在を信じきって、まるで、そこにいる人間に乗り移るような気持ちでなければ、神田の作品は歌えない。それはどの作曲家の作品でもそうなのだが、神田作品では特にそうなのだ。秋谷の場合、私はカラフを歌っていた彼とは比べようもないほど、素直に自分の歌をうたっている感じに思えたものだ。もちろん、カラフのときが駄目だったのではない。あのときだって、たとえ「誰も寝てはならぬ」の出来が芳しくなかったとしても、姫に迫っていく秋谷の姿は凄かったのだから!

しかし、このことは、秋谷だけに限ったことではない。各役の集中力が高く、ふざけるにしても、怒るにしても、まったく手抜きがない舞台で感心した。とりわけ、声がきれいなこともあるが、ケンジとの関係で難しい役柄だったミッチ(ケンジのマネージャー)を演じた中西勝之は、この劇に欠かせない存在だったと思う。ただ、私から言わせると、すこし慣れすぎているのが、役をつくりものにしている。むしろ、ドン神呂の持木弘や、演出家&モグラ役という中村靖のほうが、新鮮な演技をしていた。秋谷もそうなのだが、むしろ、正統派のオペラのなかで一途に生きてきた人のほうが、この作品にあっている。もちろん、中西もその部類であるし、その演唱も高く評価した上での話だが・・・。

さて、いよいよアゲハについて述べよう。この作品の下地となったと思われる、木下順二「夕鶴」のヒロイン、つうと比べてみると、アゲハは、恩人であるケンジに何かを与えるものではない。アゲハの役目は、羽をむしって織って反物にして、与ひょうにあげるということではない。ただ、ケンジの歌を無条件に認めるものとして、傍に置かれるだけ。それだけで価値があるのだ。しかし、彼女は一方で、ケンジに悩みをも与える。アゲハといることで思いつく愛の歌は、売りものにならないという点について。生活のために曲を書けば、自分のなかで何かが壊れる・・・とケンジは言う。これは、与ひょうも感じなければならなかったことであるが、ケンジのほうはそれに気づくのだ。ただし、気づいても何もできないのであるが。

何もできないとはいえ、与ひょうのように、ケンジがなにか致命的な失敗をするわけでもないことに、注目したい。それなのに、アゲハは消えていくことを免れないのだ。なぜか。ここが、このオペラを観ていて、唯一、疑問が解けなかった場所だった。しかし多分、こういうことだろう・・・アゲハが成長したのだ。「夕鶴」は、与ひょうが約束を破るので、元も子もなくなる話である。つうは与ひょうから助けてもらったが、それ以上は何も得られずに衰えていく。でも、「アゲハの恋」では、アゲハは成長して飛び去っていく(プログラムには、地中に消えていく、とある)。でも、羽の生えていなかったアゲハは、なぜ成長したのだろうか。その点は、すこし不明確であったかもしれない。時間の経過という要素もあるにはあるが、これもまた、多分というにすぎないのだけれど、要するに、ケンジの歌のせいではないかと思う。アゲハは、ケンジの歌が生み出し、また、育てたのであるとすれば、一応の説明はつく。

角野圭奈子(アゲハ役)は、ここ数年のヒロイン、飯田みち代や並河寿美と比べると、やや劣るかもしれないが、秋谷同様、素直な演唱で雰囲気をつくったのも確か。主役の一角として、大きな不満はない。ただし、第2幕で、ケンジがふて寝してしまったあとに歌うアリアは、とても大事な部分だっただけに、いますこし納得のいくものであってほしかった。言葉をはっきりしてほしかったし、アゲハとしては、声の出し方も響きが多すぎて、重すぎるように思う。ただし、これには、私の好みの問題もあるかもしれないが。役柄の漠然たるイメージからリリコ・レッジェーロ系だと思っていたし、実際の上演の印象からしても、そういう歌手がうたうべき役とみたが、角野の場合、力の入る部分では芯のつよいドラマティコ系の声であり、すこしイメージに合わない感じもあった。

とはいっても、神田の音楽自体は、得意とするプッチー二系の柔らかみとゴージャスさを抑えて、ドイツ系のがっしりとしたベースを作ろうとする意図が中心であったから、彼女の選ばれたのは、あながちハズレとも言えないのだが。しかし、「アゲハの唄」のほとんど童謡のような、スッキリした軽さからすると、そうしたベース・ラインに着いたときに、ああした広がりのある声で正面から対抗するのではなく、すっと遠くに声を伸ばしていくような歌い方のほうが、自然だと思う。

声があっていなかったといえば、蔵野蘭子(ルビー役)だろうが、そういうのは表現が適切でないだろう。私は、この役の難しさにも注目する。蔵野は多分、もっと歌えたはずだとは思う。でも、彼女は明らかに抑えていた。というのは、ルビーは当代一の人気歌手といっても、すこし落ち目にあるせいだ。というのは、後半で、神呂にあしらわれる場面でわかる。ルビーは大歌手でありながら、多分、もう自信がないので、囁くようにしか歌うことができない。唯一、共感できるケンジの歌も、十分に歌いこなせないでいるし、しっかりと歌う力もなくなっている。だから、ルビーのことを本当に理解したとしたら、格好よく歌ってはいけないとわかるのだ。だが、それでは、オペラの舞台では評価されないかもしれない。蔵野ほどの歌手が、そこを我慢しているのが凄いことではなかろうか。ただ、最後のほうで、すこしだけ見せ場はあるのだが。

このあたりで、中締めにしよう。とてもよい作品だった。そのことは間違いないし、あとのエントリーで、もうすこし意見をまとめたいと思う。ひとつ感じたのは、繰り返しやることの大切さだ。オペラというものは、上演を重ねないと良い作品に育たない。神田の作品は、今日、スタンダードな演目として知られるものと比較しても、応分のエネルギーをもった作品ばかりだ。しかし、残念ながら、その上演はこの小さなカンパニーに限られ、作者の手をはなれて育てられていくような環境にはない。

そのことに対する、深いフラストレーションが、この作品に脈打っているのは確かではなかろうか。今度、2回上演となったのも、そのことに対するせめてもの抵抗であったのかもしれず、アゲハのテーマが、執拗に繰り返されたのもなにかを暗示するのかもしれない。使い捨ては、人間と、作品を疲弊させるだけだ。アゲハがいなくなったら、次の女を捜すというわけにはいかない。ケンジは、そのことを歌っているのだ。たとえ、思ったようにアゲハが現れないとしても、彼はこの唄を大事に育て、歌いつづけていくだろう。

彼はついにプー太郎となってしまったが、それでも、ゆっくりと彼女を待つつもりでいるようだ。エピローグは、アゲハの仰々しい最期と比べると、あまりにも爽やかなのだが、ケンジの新たな決意の表明としては、いかにも相応しい。多分、ケンジとともに歌うことになる、街いく人たちだって、できるなら、そうしたいと思っているはずだ。少なくとも、神田(作者)はそう信じている。

そういう意味では、すこしだけ悪ノリの作品という面はあるかもしれない。でも、私はそういうメッセージの中にも、神田慶一という男が、どれだけ一生懸命に、自分の作品に取り組んでいるかを感じ取るのだ。これは決して、皮肉屋のひがみごとではない。なぜなら、ケンジは待つことを憶えた。そして、その立場をポジティヴに捉えている。彼の才能に、いつ時代が追いついて来るのか、私は楽しみでならない。そのときまで、鳥のさえずり、木の葉の囁きが、聴こえていればいいが・・・。
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