2009/9/13

ポー川のひかり  シネマ

久しぶりに映画らしい映画をみたという感じがした。エルマンノ・オルミ監督の『ポー川のひかり』(イタリー/原題:『100本の釘』)は、2006年の制作。現在、都内では岩波ホールのみで公開している。

【期待を『裏切る』スタート】

さて、映画は名匠・オルミの名前に期待する観客の予想を裏切り、ホラー・サスペンスを皮肉ったようなトリッキーな導入で、大笑いのうちにスタートする。守衛が、図書館の蔵書にことごとく太い釘が刺されているのを発見する場面だが、実際に警官がやってきて現状を確認するまでの数分間、守衛役を中心とした茶番劇がつづく。警官たちが、守衛の狼狽ぶりを相対化する。クール・ダウンである。しかし、そのあとも若干、サスペンス調の雰囲気は残る。イケてないハリー・ポッター風の学生カメラマン、数センチのところまで書物に顔を近づけて読む神父、聖画のなかから出てきたような風貌の若教授、イスラム教徒の女学生とのキス、刑事ドラマのような進行・・・少しずつ位相を変えたアイロニーが、断続的につづく。

この部分をちゃんと理解できない人には、この映画はとてもではないが理解できないものだろう。ここに至る一連のシーケンスは、この映画がデフォルメーションの映画であることをつよく印象づける。リアリティ(真実味)ではなく、象徴、もしくは、誇張の映画、そして、アイロニカルな映画なのである。オルミ監督はそこをイタリー人らしくというべきか、ユーモアたっぷりに主張した。ただし、それらの部分に、手際よく映画にとって重要な要素を貼り付けていくことも忘れてはいない。

【知を洗濯するという映画の意図】

ボローニャの哲学学者ふぜいが、BMWの幌つきの高級車を乗りまわしていたって、別に構いやしないのである。このクルマは、主人公=(若)教授の突っ張った生き方を象徴するだけの役割で、こうした学者がスポーツカーを実際に手に入れられるかというリアリティよりも、そのクルマのもつ象徴性だけに注目するのがいい。それはもちろん、外題のもとにもなった釘の刺された本たちについても言える。この光景こそ、正しくデフォルメであって、リアリティの世界ではない。そして、そこに魂の悲劇性をみるのは間違いで、もっと肩の力を抜いてみるべきだ。

要するに、教授が図書館の蔵書に釘を刺したのは、アンチ××などという抵抗性に満ちた強い論理では決してない。そうした蔵書のなかには、もちろん、宗教的なものも多分に含まれるであろうはずだから、そちらに造詣の深い人たちは、この教授が・・・つまりはオルミ監督が、反宗教、反キリスト教の映画をつくったといって、声高に非難するかもしれない。しかし、そんな風に振る舞うことは、映画冒頭で周章狼狽する守衛役の姿と比べて、一体、どこが違うのであろうか。

監督はただ、知というものを「洗濯」したいというだけのことで、知自体の批判については、さほど大きな部分を占めていない。実際、教授のもっていた宗教的な知識は、役に立った。ポー川の沿岸国有地に住んでいた社会的弱者にとって、彼が語りかける言葉はキリストそのものから受け取ったようなインパクトをもち、そのこころを救った。これらの人々は、彼の風貌を半ば皮肉って、「キリストさん」と呼ぶ。しかし、これは教授がキリストのような振る舞いをしたと言っているのではない。ただ、ある人たちにとっては、そう見えたというだけのことだ。

そして、教授は既存のキリスト教の枠組みのなかで、彼らを導いたのであって、宗教は立派に、役に立っている。問題は、そこではない。

【教授はなぜ人々に向き合えたか】

例えば、教授と対峙する神父(釘の刺された蔵書の父親的な存在である)が同じようにこの土地に下ったとしたら、どんな役割ができたろうか。きっと、彼は何もできなかったろうし、周囲も、彼がキリストに見えるという奇跡を味わうことはなかったろう。このことは、ここに登場する神父にとってのパーソナルな問題、あるいは、神父一般にとっての問題というよりは、より幅広い人々を対象にしたイロニーとなる。つまり、多くの人たちは、これらの人々の存在について意を介すことはない。現に映画のなかでも、この人たちの居住は国によって違法とされ、港湾建設のために立ち退きを迫られることになる。

教授はそうした人たちに、1:1で向かい合うことができた。知識があることは、そのことがうまく成立するための、ひとつの条件には入るかもしれない。だが、本質的に、その部分は重要ではない。いちばん大事なのは、すべてを捨ててしまったことだ。僅かばかりの金とクレジット・カード、当面、必要な衣服と雨具を除き、彼は何ももたずに、例のBMWを乗り捨てている。そのクレジット・カードにしても、いずれ使えなくなる運命にあった。教授には、何もなかったのだ。ときにマザー・テレサが、こんなエピソードを語っていたことを思いだす。彼女は、ある貧民に施しを与えた。すると、その貧民は自分が飢えているにもかかわらず、より貧しい貧民にこれを与えた。ポー川のほとりでも、そういうことが起きた。

教授は、多くの人たちに助けられて、川のほとりでの暮らしを始める。リアリティという点でいえば、彼はあまりにも恵まれているかもしれない。ほんの僅かな立ちまわりのうちに、最初の友人を見つけ、恋人らしき存在にも出会い、気のいい老人たちに可愛がられるようになった。90分程度の映画であってみれば、象徴的な筋書きにすぎないとはいえ、それらの出会いはあまりにも手短に描かれすぎた感じもする。だが、そこを救うのは、オルミ監督に備わった古風な映画的なポエジーである。

【オルミのポエジー】

それは教授を魅了したポー川の落ち着きのある美しさ、そして、シシリー風の民俗的な感じとポップス系のフォルムが混じった舞踊音楽などによって、活き活きと象徴されている。

ちなみに、ポー川はイタリー北部を横断する長い川で、アルプスに源流を発し、アドリア海に流れ込んでいる。実際にモデルとなったような港湾建設計画があったのかはわからないが、流域の自然環境が保護されている最近の流れから考えると、あるいは、半世紀くらい前の時代を舞台にしているのかもわからない。最後、妥協の構えがなかったはずの開発側のショベルカーが、なぜか引っ込んでいってしまうのは、そのことを示しているのかもしれない。だとすれば、オルミが描いたのは、「古き良き世界」だったことになる。しかし、時代考証的な議論に拘泥するのは道を誤るもとだから、次に進む。

現在、流域のデルタは環境保護の対象となり、フェラーラ周辺の景観はユネスコの世界遺産に指定されるなどした。このことが裏づけするような、川の美しさについて、監督がどのような描写をしたかということこそ、この作品にとっての「ネタバレ」になるから、いまは書かない。・・・と気取ってはみても、要するに書けないというだけのことかもしれない。監督はその美しさだけはデフォルメすることなく、そこに暮らしていた人たちの伝統的な生活様式と照らして、実に魅力的に描いているのだから、あまり説明の必要もないだろう。

ただ美しい川を、きれいに撮ったというのでは意味がない。オルミが描いたのは、そこに生きる人たちと一体となったところに生まれる、生身の川の美しさであった。私はここで、水は汚れているにしても、誰からみても「聖なる川」にはちがいないガンジス川の光景を思い出す。そこでは、人間の生き様が川の姿に色濃く投影しているために、どこか神々しいとさえいえる詩情が宿る。

【再び『知の洗濯』について】

このことは、先に述べた「知の洗濯」の問題と、ふかく関係しあうはずである。神父があんなにも顔を近づけて読み耽っていた本の知は、ただきれいに撮った川の映像と同等の価値しかもたないのではなかろうか。だが、教授がポー川のほとりへと持ち込んだ知は、聖なる川・ガンジスでみる光景のように活き活きと踊りだしたのである。

息子を失った老年の男は、かつて教会で聞いた話を教授に話すように求め、当時はすぐに忘れてしまうほどだった話を聞いて、今度は涙を流した。このエピソードは、宗教が無意味であることと、有意義であることの両方を同時に指し示している。つまり、ただ大事にしまい込まれた知(宗教)には価値がなく、それが必要なところで、正しく使われれば信じられないほどに輝くということである。知の洗濯とは、つまりは、人間の洗濯なのではなかろうか。

オルミはもはや、知を知としてしまい込んで、ありがたがることに価値は感じないと宣言したのだ。それは、宗教だろうが、芸術(映画)だろうが同じことだろう。あとで調べてみると、この映画を最後に、オルミは今後、ドキュメンタリーに力を傾けると宣言したそうだが、さもありなむというところである。そして、監督のそのような態度は、自らの人生を一からやりなおすことにも相当する。あるいは、ひとりの映画監督の死を意味する事実だが、監督自身は、そのことを悲劇とは感じていないようである。

最後、そうしたほうが映画としての余韻があると思っていた、私の期待に応えてくれたというわけでもなかろうが、蔵書損壊の罪で自宅拘禁となり、川のほとりの家に戻ってくるはずの教授は、仲間たちの期待とは反対に、どういうことか集落には戻ってこなかった。これは、もはや映画的なものに別れを告げた監督のこころを表している。

【いちばん素敵な部分】

まだ観ていない人たちは、もしかしたら、この部分だけは読まないほうがいいかもしれない。なぜなら、私がこれから書くのは、この映画のなかで最高に感動的な場面だからである。

ポー川のほとりの廃屋を見つけた教授は、そこで出会った青年で、かつてレンガ建築に携わっていた男に教えてもらって、家の改修をはじめる。最初は2人だけでやっていたものが、近くで暮らしていた年配の人たちが集まってきて、2人のことを手伝いはじめる。どこから拾ってきたのか、手に手に集められた廃材ばかりで、立派な家が組み上がっていくときの感動は、堪えられない。このときの光景こそは、オルミが映画に託したメッセージの最良の部分だとしておきたい。

パン屋の娘(個性的なルーナ・ベンダンディが務める)とのロマンスよりも、こちらのほうに分があるのは、この映画の面白さを際立たせている。確かに、この集落の光景に溶け込んだヒロインの姿は、ある種の象徴にもなっており、映画にとって重要な部分としてみられるのは当然だ。最後、廃屋にやってこない教授のことを想いつつ、彼女が涙をためるシーンなどは、観客たちのこころに残るだろう。唯一、この映画に矛盾があるとすれば、教授がこの娘を事実上、捨ててしまったことにあるかもしれない。

ただ、それもまた、監督が「最後に立ち寄ったロマンス」として説明することが可能と思うのである。つまり、監督としてはもはや、こうしたロマンスには手を出さないということの決意を、こうした形で我々に伝えたのである。この映画はある意味で、オルミ監督にとっての「私小説」的な性格が強い。もしも監督が戻ってくることがあるとすれば、きっと、彼女の涙に答えるような作品を撮ってくれるはずだと信じたい。

【主演】

個性的な登場人物たちが彩る映画のなかで、不思議な色気をもつ主演俳優、ラズ・デガンが、公式HPで唯一紹介されているキャストである。いま調べてみたところでは、日本で公開された映画としては、オリヴァー・ストーン監督の『アレキサンダー』にダリウス王役として出演したとあるが、これはどうやら端役である。彼自身もドキュメンタリー制作に身を投じており、最新作は「全世界からインドのガンジス川に沐浴にやってくる人々の姿を追ったもの」だというから、なるほどという感じである。

【まとめ】

ある意味、「アンチ映画」的なものといえるのかもしれないが、私は、そうしたいかにも批評的な言葉づかいは好まない。私はそれよりも、監督の「目覚め」をより素直に捉えていきたい。エルマンノ・オルミの作品ははじめてみたが、簡潔に整理されたメッセージをきれいにまとめていて、象徴もわかりやすいし、作品にはユーモアがある。ある種のフランス映画(例えばゴダール)のような、悧巧ぶったポーズがなく、そうした気取った部分を捨てた映画であることを喜びたい。

久しぶりに、他人に勧めたい映画の登場である。
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2009/9/13

フランチェスコ・メーリ テノール・リサイタル @東京オペラシティ 9/7  声楽

この日は、テノールのフランチェコ・メーリのリサイタルを聴いてきた。最初の曲を聴いて、ホールの特質もあるとは思うが、頭頂から躍り上がった声が高いところから響いてくるのがわかり、ベルカント系の基礎に基づいた優れた歌手であることを印象づけた。

メーリについては、歌い手としての、頑固なまでの信念において語るべきであろうと思われる。彼のうたう歌には、圧倒的な誠意があり、言葉に立脚した表現の繊細さも図抜けている。言葉と結びついた感情の揺らぎを、例えば、文節、単語といった、かなり細かいレヴェルで印象づける、こまやかな内面表現につながっている。

例えば、ドニゼッティ『アルヴァ公』からの〈誰にも気づかれずに〜清らかで美しい天子よ〉では、いかにも皮肉な哀切さに満ちた歌いだしから出発し、やりきれない想いを昂ぶらせ、アメリアの名前を呼ぶところをひとつの頂点に、やがて懇願するような口調へと段々に推移していくのが、はっきりと聴き取れる。歌の流れと、それにあわせた声の調節が実に細かい。それがチマチマした印象を与えることなく、最終的に、大胆な歌いまわしとして出力されて、聴き手を驚かせる。

次は、ヴェルディ『トラヴィアータ』の二重唱についてみよう。ここでメーリはあまり強い声を使わないが、しっかりと揺らぎなく、ヴェルディの書いた表現に忠実な歌いまわしだけで、少しぶら下がったような男声のラインが女声の毅然たる旋律線に支えられて、ゆったりと基礎づけられていること、内面的には、寒空で拾われた仔猫が毛布にくるまれるようにして、安心とともに温められていくところまで、きれいに歌い描いている。ヴェルディらしく、声部の役割が明確になっていることに注目したい。

これにも象徴されるように、完璧に描き分けられた様式観の明瞭な歌いまわしは、メーリの凄さを際立たせるものだった。それはディクションへの強い意識とも密接に関連しており、それらの要素から来る音楽的フォルムの厳粛なる煌きは、既に超一流のレヴェルといえる。マスネからドニゼッティ、ヴェルディ(同じヴェルでもやはり歌い分けがある)・・・と推移していく流れのなかで、そのことは明らかに聴き取れた。

声のダイナミズムも、自由自在であった。主に表現の頂点で用いられる逞しい声の魅力に加え、ソット・ヴォーチェの繊細さは、男声としては群を抜く柔らかさがある。会場のどこの席に陣取っても、同じように聴こえるであろう声の伸びの持続力、適切な重量感のコントロール。相手役への配慮にも事欠かず、重唱では相手を包み込むジェントルな歌いくちまで披露している。

既出のドニゼッティに加え、後半に入り、デ・クルティスの歌曲『忘れな草』から、技巧的なロッシーニの歌曲〈ナポリのタランテッラ〉へのシーケンス。アンコールに入っての『人知れぬ涙』と『星は光りぬ』といったところは、リサイタルのクライマックスを飾った。

デ・クルティスは、本当に好きで歌っている曲という感じがして、どの曲よりものびのびとした表現だった。感情の推移に繊細な配慮が行き届いていて、それらの切り口が実に鮮やかに切り替わっていく。つづくロッシーニも得意の曲という感じであるが、余裕というよりは、むしろ、じっくり歌い上げるような情熱にそれを変換しているところに、自ずと愛嬌が出る。

有名な〈人知れぬ涙〉は甘みのあるフォルムに安易に乗らず、冒頭部分は音符を正確に刻んで、言葉の飛び石を慎重に渡っていく。そして、あるべき感情の昂揚にあわせてギアが調節され、蛇に噛まれた毒が徐々に体内にめぐってくるように、歌が次第に身体のなかに染み込んでくる。前半部分の感傷性をゆったりと凌ぎ、すこし歌い方を引き締めた後半のほうで感動が広がる。これこそドニゼッティの意図した、歌唱の本筋といえる。

最後の〈星は光りぬ〉は、とにかくメーリの人間的な優しさというのが、よく出た歌唱である。とても静かな感情の揺らぎが残るとてもいい歌だけども、まだ熟しきってはいないという感じ。リサイタルで1曲だけだからできるので、これから声が追いついてくるのだろうが、日本で早めに披露してくれた。そういう意味で、メーリにはお礼を言いたい。

伴奏は、藤原歌劇団所属の浅野菜生子というピアニストで、相手の呼吸にあわせることが実に巧みなため、イタリア・ベルカント系の歌手にはよく合うピアニストだ。

私の知る限り、最近の歌い手で、これほど明確に作曲家の特徴を歌い分けた人というのは知らないの。言語はもちろん、歌の自然なフォルム、その作曲家らしい声のコントラスト、重み、言葉と音楽の結びつきの在り様、表現性の選択、ダイナミズムの自然さ、それから楽器ならば「音色」とでもいうべきもの・・・。こうした点について、再度強調しておきたい。

【プログラム】 2009年9月7日

1、マスネ 目を閉じれば〜歌劇『マノン』
2、ドニゼッティ 誰にも気づかれずに/清らかで美しい天子よ
   〜歌劇『アルヴァ公』
3、ヴェルディ 私の喜びは呼び覚ます
   〜歌劇『第1次十字軍のロバルド人』
4、グノー 神よ、何という戦慄が〜歌劇『ロメオとジュリエット』
5、ヴェルディ パリを離れて〜歌劇『トラヴィアータ』
6、チレア フェデリーコの嘆き〜歌劇『アルルの女』
7、トスティ 理想の女
8、トスティ かわいい口もと
9、デ・クルティス 忘れな草
10、ロッシーニ ナポリのタランテッラ〜『ソワレ・ミュージカル』
11、プッチーニ 私が街を歩くと〜歌劇『ボエーム』
12、ドリーヴ どんな神、どんな神だって、ああ!〜歌劇『ラクメ』

 S:セレーナ・ガンベローニ  pf:浅野 奈生子

 於:東京オペラシティ
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