2009/9/12

ナイマン 妻を帽子と間違えた男 + ヒンデミット 往きと復り 東京室内歌劇場 9/5 A  オペラ

このオペラの題名は、『妻を帽子と間違えた男』となっているが、このことについて考えてみたい。帽子と間違えられた奥さんは果たして、夫に惨めな想いをさせられ、不幸に決まっているのであろうか。もしも、帽子というものが男にとって、よほど大事で、親密なものだとするならば、事情は変わってくるのではなかろうか。

少なくとも、問題の帽子と間違えられる場面で流れる音楽は、複雑なイロニーに満ちていながらも、全編のなかでもっともフレッシュなものであった。これは、どういうことだろうか。そこから逆推する形で、私は奥さんが帽子と間違えられても、十分にハッピーだったと結論するに至った。

帽子というものは、私のイメージでは、人間にとってかなり親密な存在である。帽子はファッション・コードにも関係しており、帽子をめぐる当たり前のルールがいくつかあることは、子どもでも知っている。そして、いちばん大事なことは、帽子は人間にとっていちばん大事な、あたまを保護する役割を果たしているということだ。

象徴的な意味もある。手塚治虫といえば、誰でもベレー帽姿を想像する。チャップリンといえば、シルク・ハット姿。毛沢東の人民帽は、時代の一背景すら写している。古今東西において、しばしば帽子は人間を象徴するものとなるし、各人めいめいにこだわりというものがある。キャップしか被らない人もいれば、ベレーが好きな人もいるし、それ自体がキャラクターにつながっているのだ。洋服や靴と比べても、帽子は他人の印象に残りやすい。そのような帽子が相手ならば、奥さんにも慰めがある。

奥さんを帽子と間違えたのは、滑稽で恥ずかしい体験というよりは、かえって、奥さんと教授のふかい結びつきを示すものに他ならないのだ。私はあそこで、なんと清々しい音楽が鳴ることかと気づいたときに、この作品を一挙に理解したといっても過言ではないような気がする。

奥さんは、病を知っていたはずだ。それと認めない間違いは起こしたが、教授にとってなにが大事かは、医者に頼るまでもなく知っていた。そして、それに忠実に従っていた。最後に診断が下されて、医師の口から処方箋が示されて、音楽がゆっくり静まっていくときに、そのことは正しかったことが、ようやく正式に確認される。ここでナイマンが音楽の素晴らしさを語ったなどというのは、解釈が甘いだろう。

いまやナイマンは、音楽を愛することそのものを問題にしているからだ。教授にとって音楽を愛することは、妻を愛することにもつながっている。帽子と間違えた場面以外に、シューマンの歌曲の終わりの部分がそのまま用いられた中盤の部分で、夫妻が共演したのを忘れてはならない。このときの愉悦感を出すためにこそ、シューマンの素材は必要だったのではないか。そこへ至るエレメントとして、14もの素材が散りばめられているとしたら・・・。

最後、たゆたうような静かな音楽が、ゆったりゆったりと続いていく部分は、本当に憎らしい場面だ。ここで、ほんの僅かながら、ソプラノとバリトンのハミングが混ぜられているのも見逃してはならない。ここからも、音楽を通じて愛しあう夫妻の面影を眺めることができるからである。

音楽が止まったとき、教授の人生も止まると医師が歌うとき、聴き手はどんな感情を抱くだろうか。教授夫妻の結びつきに気づいていれば、彼らにずっと動いていてほしいという想いから、音楽よ、いつまでも続いておくれと願うにちがいない。そのとき、当然ながら、そこに流れている音楽そのものにも愛情が芽生える。これは正直、ずるいような気もする。つまり、音楽的な共感とは無関係に、教授とその奥さんへの共感を通じて、間接的に音楽が正当化されてしまうからだ。

しかし、そんなことは考える必要もない。なぜなら、ナイマンがここにつけた音楽は、ほとんど静寂にちかいものであって、彼の音楽とはほとんど無関係なほど、真っ白な(透明な)音楽だからだ。いずれにしても、この最後の場面は、一見、何の関係もないように並立してきた人間(教授夫妻)と音楽との関係を、決定的に結びつけるキーになっている。そこを開けることができれば、全体のなかに繊細に埋め込まれた関係性に気づくことも容易だ。

ミニマルに新しさがないとか、そうした類の議論は意味がない。なぜなら、我々には、この音楽がドラマの重みに見合うものであったという実感があるからだ。

以上、ナイマンの作品につして詳述したので、ヒンデミットの12分の作品についての論評は割愛する。

なお、開演前と、前半の終了直後、さらに終演後に解説がつき、上演時間とトーク・タイムがほぼ同じくらいだったのも珍しい。いわばレクチャー・コンサート的な雰囲気があって、どちらかというとアカデミックな趣向であった。

会場は第一生命ホール。若干、張り出した舞台をつくったが、コンパクトなオケが舞台下手に載る形で所狭し。演唱は上手の半分のみで行なわれるが、意外と空間的な違和感は生じない。それは、この2つのオペラ自体がコンパクトで、台詞も多く、エピソードが凝縮しているせいもあろうと思った。
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2009/9/12

ナイマン 妻を帽子と間違えた男 + ヒンデミット 往きと復り 東京室内歌劇場 9/5 @  オペラ

東京室内歌劇場が、ヒンデミット『往きと復り』とナイマン『妻を帽子と間違えた男』のダブル・ビルで組んだ公演を観た。

ナイマンの作品は、オリヴァー・サックス原作のノン・フィクション小説がもとになっており、かつて名声を誇ったバリトン歌手が、認識障害をもち、夫人とともに診察を受けに来るところからの物語である。なお、ナイマンは英国系のミニマム・ミュージックの作曲家で、映画音楽でも有名である。

作品のなかで最大のテーマは、この障害のある男性(P教授)の尊厳についての問題だ。当時、障害をもつ人への認識は遅れており、障害を消極的な観点で捉えるのが一般的だった。それは2000年代に入るまで、変わっていなかった。オペラの導入にあるように、それは欠損的なものとしてみられ、障害者は何かが欠落した人であり、それに相応しい隔離的な空間で保護するのがよいとされた。サックスはそうした病気の実態を知ってもらい、しかも、そうでありながらも教授が尊厳ある音楽家としては、何の欠けた部分もないことを示したかった。

そのメッセージを、ナイマンはオペラにたっぷりと織り込むとともに、自分なりに、そのメッセージを捉えなおしての作品となっている。

オペラを観ているうちに、P教授に対する我々の認識は混乱する。彼が正常でなく、病気であることは誰にでもわかるが、その異常性よりも、教授のみせる人並み外れた感性の鋭さなどに惹き込まれていくからだ。例えば、砂漠の写真を見せられて、教授はそれを川だと答える。無論、間違いだ。しかし、砂漠もかつては緑や水に恵まれていたことが知られているし、地形だけをみれば、そこが昔は川だったことを想像させないこともない。そこには家があり、テラスがあって・・・とつづく完璧に詩的な描写については、異常者の妄想というよりは、芸術家一流のファンタジーすら感じさせる。

そのほか、暗記チェスやシューマンの歌唱でみせた驚くべき能力は、教授がこれまでの人生のなかで身につけてきた、そのままの能力である。これらは明らかに生きており、高潔な人格もまた節々に見え隠れしている。

教授への敬意が生まれてくれば、「病気」と名づけられた価値観は揺らぐ。そして、この揺らぎのなかに、ナイマンは様々なイメージを詰め込むことを思いついた。

例えば、それはナイマンにとって身近な音楽の事情に繋がっていく。人間から認識が切り離されたような感覚。片目しか見えないこと。教授の機械的な分析力。ある方向だけに偏った特別な能力。戦争を遠い契機に、徐々に人間性を喪っていく教授の個人史。こうしたものから、ある種のコンテンポラリー・ミュージックへの視点を読み取ることは難しくない。主に機能的な要素しか重視せず、人間の尊厳を無視した形で、その形式が発展しているというようなイロニーが、教授に対する観察から一面的に上がってくる情報としてある。

同じことが、観客からすれば、自らの人間性そのものに関わる問題として受け取られるかもしれない。さらに、彼の病気にうすうす気づきながら、認めようとしない奥さんの態度からも、大事なものに敢えて目をつぶってしまう、人間のある種の本能を感じ取ることができる。

このような多重的なイロニーに基づいて、作品は世界広げていくのだ。
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