2009/8/3

フランツ・コンヴィチュニー ブルックナー 交響曲第4番 コロムビア(オイロディスク)  CDs

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今回紹介するのは、1961年と古い録音だ。コロムビアの「オイロディスク・ヴィンテージ・コレクション」というシリーズで発売されたものだが、このコンヴィチュニーのブルックナー「交響曲第4番」の録音は、タワーレコード新宿店では、同シリーズのなかで売上トップにランキングされていた。

もちろん、トップだから買うというほど、流されやすい人間ではない。また、次のような話題性にもあまり興味がなかった。このディスクは従来、ゲヴァントハウス管との録音として扱われてきたのだが、それはマスターテープの取り違えによるものであって、実際はウィーン交響楽団との1961年の録音と同一のものだったという、数奇な来歴である。今回、オリジナルのマスターテープが発見され、コンディションも良い状態であることがわかったため、これが丁寧に修復されて姿を現したというわけだ。

ステレオ録音でややくすんではいるが、それでも十分に爽やかな響きで、かなりの臨場感がある。最近、こうした美しすぎるディスクは結構あって、例えば、最近発売されたゲザ・アンダの録音なんて、本当にそうなのかと疑いたくなるほど、清らかな響きがするので驚かされたぐらいだ。しかし、その嘘くささというのはどうしても気に入らず、好きにはなれなかった(別に、スクラッチ音のバリバリ入っていたり、窮屈なアナログのヒストリカル録音が好きなわけではない)。

そこへいくと、店舗内で試聴した限り、このディスクはただきれいなサウンドではないようで、非常に奥行きが深く、コンヴィチュニーという音楽家(彼には、以前から興味をもっていた)の音楽性にアプローチしやすいのではないかと考えたのだ。実際、帰宅して聴いてみると、そのとおりであったと思う。

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ここで蛇足だが、フランツ・コンヴィチュニーについて書いておこう。

コンヴィチュニーの名前は、いまや、世界を代表する演出家となった息子、ペーターのおかげで有名である。しかし、かつてはこのペーターも、フランツの息子というレッテルに苦しんだのかもしれない。フランツは1901年にチェコ、モラヴィア地方のフルネクに生まれたという。フルトヴェングラー率いるゲヴァントハウス管でヴィオラを弾いていたが、指揮者に転向し、出身のゲヴァントハウス管や各地の歌劇場で要職を務めたあと、わりに早く1962年に亡くなっている。ということは、この録音は、亡くなる1年前のものということになるわけだ。

押しも押されもせぬ名指揮者ではあるが、冷戦下の東側にあったこともあり、カラヤンやベーム、ジュリーニ、クライバーのようなスター性が出ないうちに亡くなってしまったことも重なって、今日的な評価は、(特に日本では)さほど芳しいものではないかもしれない。この記事を書くために、いろいろとネット上を調べてみたが、少なくともコンヴィチュニーのブルックナーを高く評価する記事はあまり見当たらなかった。

さらに余談だが、このディスクで共演しているウィーン交響楽団は、この1961年当時はサヴァリッシュが率いている。その前はカラヤンによる黄金時代で、1948年以降、12年間もディレクターを務めていた。この録音はカラヤンの去ったあとの時代ではあるが、まだ2年と経っていないときのものだ。指揮者がちがうこともあるが、ここに聴かれるウィーン響のサウンドは、巨匠・カラヤンがベルリンで築き上げたものとはまったく異なり、ワイルドな部分が際立っている、そういった意味でも、興味ぶかい面がある。

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この録音には、2つの特徴がある。それはスラヴ系のルーツをもつコンヴィチュニーのつくる伸びやかなサウンドと、それを基礎づけるドイツ風のガッシリした構造的な支えだ。特に、弦のつくるサウンドの弾力性は、今日の指揮者の演奏からはなかなか味わえないものである。

その醍醐味は、何といっても第3楽章のスケルッツォで、もっともしっかりと味わうことができる。トリオ形式の両端部分で、金管がプクプクと収縮する響きの運動に対応するように、弦のトレモロの快活なテクスチャーが沸騰した油のように跳ねまわり、つづいて雲のような音の塊となって、急速に立体化していくときの風景は衝撃的である。最初のうちは、その響きの凄まじさに驚くのだが、やがて、ちょうどスメタナやドヴォルザークの作品によく出てくるような、人馬が一体となって草原をかけていくようなイメージがふっと浮かんでくるのである。

これに象徴されるように、コンヴィチュニーのブルックナーは、この作曲家につきまとう神経質で、重苦しい音楽性というものからは自由だ。

私はしばしば、スヴェトラーノフの録音したブルックナーの「交響曲第8番」が好きだといって、ブルックナー愛好家の失笑を買っている。それは極端な例かもしれないが、他にオイゲン・ヨッフムや、カラヤンにもその気はあるように、ブルックナーの交響曲は実のところ、かなり開けひろげな音楽ではないかと思っているし、特に、この「ロマンティク」のような曲では、その面が際立っているべきだと考えるのである。

コンヴィチュニーのブルックナー「交響曲第4番」は、既に述べたように響きに弾力性があり、その収縮を音楽の推進力の根源としている。そして、まるでソリストか歌手のように、前のめりにポジションを取り、絶えず先取りしていくような、サーフィン型の積極性の高い演奏を主体としている。だが、逆にいえば、それは構造的な支えがしっかりしていないとできないことでもある。もしも三流の指揮者がこの真似をしたとすれば、満足にフォルムがとれずに、全体のバランスがメチャクチャになって、収拾がつかなくなってしまうことだろう。

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演奏時間をみると、他の録音と比べて少し速めであるし、その実感もあるディスクだと思う。すこしカンタービレが忙しないような気もするが、その分、ライヴ的なサウンドの新鮮さがある。実際、ライヴかスタジオかはわからないが、演奏は後半に行くほど質が上がっているようでもある。特に、第3楽章のスケルッツォは、金管にとっても、弦セクションにとっても白眉となる部分で、コンヴィチュニーらしい跳躍的な響きがよく表れている。

しかし、それを突き抜けるようにして、第4楽章は豪壮、かつ、繊細な演奏に仕上がっている。特に、序奏のあとに出る第1主題の神々しい響きの澄明さは、全体のなかでも抜群に光る部分であった。まだまだワーグナーの陰影が残る、第2主題の短調部分のイメージのつくり方も秀逸だ。さらに、展開部からコーダに至る部分のテーマの丁寧な扱いは、気を惹くところである。コーダの入口は唯一、ブルックナーのメランコリーに配慮しているが、その後の切り返しはダイナミックで、もはや優美とさえいえるほどであろう。

私はブルックナーに対して十分な愛着がないし、特に第4番は、これまであまり好きではなく、その魅力がはっきりと理解できなかった。ブルックナーは5番から・・・と明言していたことさえあるぐらいだ。しかし、このディスクに出会って、すこし考えが変わったかもしれない。コンヴィチュニーの「ロマンティク」は、そんなに強烈な味わいがあるとは思わないが、聴き手に対して親密で、大言壮語がなく、柔らかい音楽だ。そして、そうして表現したブルックナーの音楽は意外なほどに素直で、シンプルな美しさを湛えているように見えたのである。

以前、ヨッフム&RCOの来日公演のDVDをみて、こんなにも優美で、楽しいブルックナーの演奏があるのかと驚き、ブルックナーの本質がやはり、舞曲であるということも教えられたものだ。それにつづき、このコンヴィチュニーの録音も、私にとっては「エポック」な発見になりそうである。
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