2009/8/6

広上淳一 メンデルスゾーン 「イタリア」交響曲 日フィル フェスタサマーミューザ川崎 8/5  オーケストラ

8月5日、「フェスタサマーミューザ川崎」における、日本フィルの公演を拝聴した。今回の指揮は、広上淳一。

ハイドンのハ長調の『テ・デウム』は、珍しい選曲。合唱にアマチュアのガーデンプレイスクワイヤを招いたが、広上の絶賛する団体だけあって、ニュートラルで明るめの響きをもつ良質の合唱団だった。バロック寄りの音楽づくりに、日フィルは不慣れなところを露呈。そこへいくと、ガーデンプレイスクワイヤは少しばかり若すぎる声に多少の不満はあれども、プロの側を引っ張るくらいの清楚な表現が板についていた。

バッハ『ブランデンブルク協奏曲第5番』は、室内楽的な小編成で演奏した。ソリストは、チェンバロが曽根麻矢子、ヴァイオリンが当団コンマスの江口有香、フルートが高木綾子。広上は、この3人を自由に演奏させ、伴奏の手綱のみを握った。少人数に絞ったことで、表現の統一性が高く、ハイドンのときよりも表現が軟らかい。ソリストは、チェンバロの曽根とヴァイオリンの江口は好演。高木がフランス音楽のような表現でやや浮いており、フラウト・トラヴェルソのような素朴な表現を求めたかった。

メインとなる『メンデルスゾーンの交響曲第4番〈イタリア〉』は、イメージよりもガツガツした演奏だが、雑にならない程度に熱っぽい演奏だ。第1楽章では対位法的な構造があらわになる部分で、この日の前半2曲の演奏がよく効いている。第2楽章は、『ブランデンブルク協奏曲』のところで培ったような室内楽的な響きが、うまく生かされているのか、いつもより全体のアンサンブルが近い感じで、響きもゆたかである。舞踊楽章は、日フィルの弱点を逆手に取り、細かい指示でアンサンブルを引き締め、情報量をゆたかにし、持ち前の機動性をうまく引き出した。弦の最強奏部分では、左側に振った広上の両手に、貴婦人が身体を預けたように自然な重みがかかり、素敵な雰囲気が漂った。

プレストはテンポそのものは遅めだが、弦や管のトレモロに気合いを込めることで、速さを感じさせる仕掛けであった。そのアイディア自体はよかったが、あまりに必死なのが聴き手に伝わりすぎていて、タネがミエミエの手品のようで芸がなかった。しっかりとテンポがキープされることで、厳かな旋律の流れだけにこころを奪われることなく、最初の楽章から引き継がれた主題が丁寧に浮かび上がり、対位法的な構造の特徴もわかりやすい。また、第1楽章で十分な重みをもたせたことは、この楽章との対応関係では妥当性がある。

広上のプログラミングは表面上、記念年に当たる作曲家の作品を集めたにすぎないが、古典派のハイドン、バッハ蘇演に功のあったメンデルゾーンを「バッハ」というキーワードで結んでいる。さらに、室内楽的な要素や自立性、アンサンブルの積極性など、このオケの成長に必要な要素をうまく拾い集めながら、まるで前半を糧にして後半の演奏が出来上がるような形でもって、上手に組み上げている。それなのに、最初のハイドン以外は、よく聴衆に知られた曲でもあるのに、知的な構成を感じさせた。

【プログラム】 2009年8月5日

1、ハイドン テ・デウム ハ長調
 (chor:ガーデンプレイスクワイヤ)
2、バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番
 (cemb:曽根 麻矢子、vn:江口 有香、fl:高木 綾子)
3、メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」

 コンサートマスター:江口 有香

 於:ミューザ川崎シンフォニーホール
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2009/8/3

フランツ・コンヴィチュニー ブルックナー 交響曲第4番 コロムビア(オイロディスク)  CDs

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今回紹介するのは、1961年と古い録音だ。コロムビアの「オイロディスク・ヴィンテージ・コレクション」というシリーズで発売されたものだが、このコンヴィチュニーのブルックナー「交響曲第4番」の録音は、タワーレコード新宿店では、同シリーズのなかで売上トップにランキングされていた。

もちろん、トップだから買うというほど、流されやすい人間ではない。また、次のような話題性にもあまり興味がなかった。このディスクは従来、ゲヴァントハウス管との録音として扱われてきたのだが、それはマスターテープの取り違えによるものであって、実際はウィーン交響楽団との1961年の録音と同一のものだったという、数奇な来歴である。今回、オリジナルのマスターテープが発見され、コンディションも良い状態であることがわかったため、これが丁寧に修復されて姿を現したというわけだ。

ステレオ録音でややくすんではいるが、それでも十分に爽やかな響きで、かなりの臨場感がある。最近、こうした美しすぎるディスクは結構あって、例えば、最近発売されたゲザ・アンダの録音なんて、本当にそうなのかと疑いたくなるほど、清らかな響きがするので驚かされたぐらいだ。しかし、その嘘くささというのはどうしても気に入らず、好きにはなれなかった(別に、スクラッチ音のバリバリ入っていたり、窮屈なアナログのヒストリカル録音が好きなわけではない)。

そこへいくと、店舗内で試聴した限り、このディスクはただきれいなサウンドではないようで、非常に奥行きが深く、コンヴィチュニーという音楽家(彼には、以前から興味をもっていた)の音楽性にアプローチしやすいのではないかと考えたのだ。実際、帰宅して聴いてみると、そのとおりであったと思う。

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ここで蛇足だが、フランツ・コンヴィチュニーについて書いておこう。

コンヴィチュニーの名前は、いまや、世界を代表する演出家となった息子、ペーターのおかげで有名である。しかし、かつてはこのペーターも、フランツの息子というレッテルに苦しんだのかもしれない。フランツは1901年にチェコ、モラヴィア地方のフルネクに生まれたという。フルトヴェングラー率いるゲヴァントハウス管でヴィオラを弾いていたが、指揮者に転向し、出身のゲヴァントハウス管や各地の歌劇場で要職を務めたあと、わりに早く1962年に亡くなっている。ということは、この録音は、亡くなる1年前のものということになるわけだ。

押しも押されもせぬ名指揮者ではあるが、冷戦下の東側にあったこともあり、カラヤンやベーム、ジュリーニ、クライバーのようなスター性が出ないうちに亡くなってしまったことも重なって、今日的な評価は、(特に日本では)さほど芳しいものではないかもしれない。この記事を書くために、いろいろとネット上を調べてみたが、少なくともコンヴィチュニーのブルックナーを高く評価する記事はあまり見当たらなかった。

さらに余談だが、このディスクで共演しているウィーン交響楽団は、この1961年当時はサヴァリッシュが率いている。その前はカラヤンによる黄金時代で、1948年以降、12年間もディレクターを務めていた。この録音はカラヤンの去ったあとの時代ではあるが、まだ2年と経っていないときのものだ。指揮者がちがうこともあるが、ここに聴かれるウィーン響のサウンドは、巨匠・カラヤンがベルリンで築き上げたものとはまったく異なり、ワイルドな部分が際立っている、そういった意味でも、興味ぶかい面がある。

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この録音には、2つの特徴がある。それはスラヴ系のルーツをもつコンヴィチュニーのつくる伸びやかなサウンドと、それを基礎づけるドイツ風のガッシリした構造的な支えだ。特に、弦のつくるサウンドの弾力性は、今日の指揮者の演奏からはなかなか味わえないものである。

その醍醐味は、何といっても第3楽章のスケルッツォで、もっともしっかりと味わうことができる。トリオ形式の両端部分で、金管がプクプクと収縮する響きの運動に対応するように、弦のトレモロの快活なテクスチャーが沸騰した油のように跳ねまわり、つづいて雲のような音の塊となって、急速に立体化していくときの風景は衝撃的である。最初のうちは、その響きの凄まじさに驚くのだが、やがて、ちょうどスメタナやドヴォルザークの作品によく出てくるような、人馬が一体となって草原をかけていくようなイメージがふっと浮かんでくるのである。

これに象徴されるように、コンヴィチュニーのブルックナーは、この作曲家につきまとう神経質で、重苦しい音楽性というものからは自由だ。

私はしばしば、スヴェトラーノフの録音したブルックナーの「交響曲第8番」が好きだといって、ブルックナー愛好家の失笑を買っている。それは極端な例かもしれないが、他にオイゲン・ヨッフムや、カラヤンにもその気はあるように、ブルックナーの交響曲は実のところ、かなり開けひろげな音楽ではないかと思っているし、特に、この「ロマンティク」のような曲では、その面が際立っているべきだと考えるのである。

コンヴィチュニーのブルックナー「交響曲第4番」は、既に述べたように響きに弾力性があり、その収縮を音楽の推進力の根源としている。そして、まるでソリストか歌手のように、前のめりにポジションを取り、絶えず先取りしていくような、サーフィン型の積極性の高い演奏を主体としている。だが、逆にいえば、それは構造的な支えがしっかりしていないとできないことでもある。もしも三流の指揮者がこの真似をしたとすれば、満足にフォルムがとれずに、全体のバランスがメチャクチャになって、収拾がつかなくなってしまうことだろう。

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演奏時間をみると、他の録音と比べて少し速めであるし、その実感もあるディスクだと思う。すこしカンタービレが忙しないような気もするが、その分、ライヴ的なサウンドの新鮮さがある。実際、ライヴかスタジオかはわからないが、演奏は後半に行くほど質が上がっているようでもある。特に、第3楽章のスケルッツォは、金管にとっても、弦セクションにとっても白眉となる部分で、コンヴィチュニーらしい跳躍的な響きがよく表れている。

しかし、それを突き抜けるようにして、第4楽章は豪壮、かつ、繊細な演奏に仕上がっている。特に、序奏のあとに出る第1主題の神々しい響きの澄明さは、全体のなかでも抜群に光る部分であった。まだまだワーグナーの陰影が残る、第2主題の短調部分のイメージのつくり方も秀逸だ。さらに、展開部からコーダに至る部分のテーマの丁寧な扱いは、気を惹くところである。コーダの入口は唯一、ブルックナーのメランコリーに配慮しているが、その後の切り返しはダイナミックで、もはや優美とさえいえるほどであろう。

私はブルックナーに対して十分な愛着がないし、特に第4番は、これまであまり好きではなく、その魅力がはっきりと理解できなかった。ブルックナーは5番から・・・と明言していたことさえあるぐらいだ。しかし、このディスクに出会って、すこし考えが変わったかもしれない。コンヴィチュニーの「ロマンティク」は、そんなに強烈な味わいがあるとは思わないが、聴き手に対して親密で、大言壮語がなく、柔らかい音楽だ。そして、そうして表現したブルックナーの音楽は意外なほどに素直で、シンプルな美しさを湛えているように見えたのである。

以前、ヨッフム&RCOの来日公演のDVDをみて、こんなにも優美で、楽しいブルックナーの演奏があるのかと驚き、ブルックナーの本質がやはり、舞曲であるということも教えられたものだ。それにつづき、このコンヴィチュニーの録音も、私にとっては「エポック」な発見になりそうである。
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