2009/8/9

小森輝彦・服部容子 デュオ・リサイタル @カザルスホール 8/7  声楽

毎夏、おこなわれているバリトンの小森輝彦と、ピアニストの服部容子とのデュオ・コンサートを聴いた。今回は前半にマーラーの歌曲、後半はイタリア・ヴェリズモの曲目が取り上げられ、言ってみれば、性格が正反対の曲目が並べられた。

【素材の似ている2つの作品を・・・】

前半は、マーラー独自のというよりは、ドイツ歌曲の伝統に根ざした歌であり、その極点に立った表現である。雰囲気に流されず、詩をしっかりと歌い込む姿勢は、いかにも小森らしいものだった。『さすらう若人の歌』では、マーラー歌曲に対するほの暗いイメージは少し反転され、奥ゆかしいポエジーに変換されていた。「青春」を省みる大人の表現で貫かれながらも、瑞々しさを残しての歌いくちには妙味があった。

リスト『スペイン狂詩曲』のピアノ独奏をはさんで演奏された『子どもの魔法の角笛』は、『さすらう若人の歌』とは形式や歌詞で似ている部分が多いとされる。小森は前者と比べると、歌に含まれるウィットをとりわけ重視して、素材としては似通ったものながら、まるで性格のちがうものであるかのように歌い上げた。そのアイディアは、「美しいトランペットが響くところ」の伴奏に現れるマーチが人を喰ったような雰囲気を醸し出すところにも、象徴されている。

なお、『角笛』は、「歩哨の夜の歌」「美しいトランペット・・・」「起床喇叭」「高い知性への賞賛」の4曲を選び、意図的に、『若人の歌』における4曲の構成となるべく近くなるように配慮されている。

【新しいヴェリズモの見方】

後半は、ヴェリズモ・オペラに関するイメージの組み換えを企図したかのような内容であった。ここでは『ボエーム』のロドルフォを含め、どちらかというと「悪人」を取り上げているが、小森の演じるところでは、彼らは思ったよりも純粋なこころをもっている。だが、その純粋さに翻弄され、過ちを犯す。

例えば、技巧的にも白眉となったプッチーニの歌劇『トスカ』の、スカルピアの「テ・デウム」について見てみよう。通常、ここではスカルピアの「捻じ曲がった」愛が、神への典礼文にのせられることが冒涜的に受け取られ、スカルピアの盗人猛々しさを象徴する部分となる。だが、小森の表現するところをみえると、スカルピアの歌う愛も真正なものと信じているかのようであり、だからこそ、神の典礼文と重ねて歌うことも、決して不自然ではないという考え方が透けてみえるのである。

ジョルダーノの歌劇『アンドレア・シェニエ』、ジェラールのアリアでも、それは同じことだ。ジェラールは革命に夢とプライドを託し、憧れの人と親密になれることを願ったが、その精神は例えば、革命の指導者、ロベスピエールの欺瞞よりもはるかに純粋である。

レオンカヴァッロの『ボエーム』は観たことがないが、今回、聴く限りにおいては、ロドルフォはプッチーニの作品における彼よりも、いっそう頽廃的で、単に売れない芸術家というよりは、メフィストフェレスにちかい性向をもつ。幻想の悪魔とアイロニカルな対話を交わし、ついに死の提案を受け容れる部分を歌う小森の歌唱は、しかし、真っすぐなものであった。

このようなイメージは、前半のマーラーとも相通ずるところがあって、皮相なところで人性を批判するのではなく、よりリアリティのあるキャラクターをイメージし、慎重に造型していった小森と服部の知性には敬服する。

【まとめ】

よく練られた内容で、満足感が高かった。最初に申し述べたように、前半と後半で対照的なプログラムになっているが、それなのに、あるときには照応しあい、またあるときには、重なりあいそうな部分が少しずれていたりして、奥行きのある内容であったことを書き留めておきたい。プロジェクタを用いて、歌詞を投影しながらの演奏は聴き手に優しいが、和訳にも気を遣って、自分たちの表現にあったものにしているというあたりは、さらに気が利いている。なお、来年も、8月5日に公演が決まっているとの次第。

なお、この日の会場は、既に取り壊しが決まっているカザルスホールだった。

【プログラム】 8月7日

1、マーラー さすらう若人の歌
2、リスト スペイン狂詩曲
3、マーラー 子どもの魔法の角笛 より
4、ジョルダーノ 歌劇『アンドレア・シェニエ』 より
5、ドビュッシー 水に映る影〜『映像T』
6、レオンカヴァッロ 歌劇『ボエーム』 より
7、プッチーニ スカルピアの「テ・デウム」〜歌劇『トスカ』

 於:カザルスホール
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2009/8/6

8月6日、原爆投下の日に  

8月6日は、日本人にとって大切な日である。言うまでもなく、原爆投下の日であり、その犠牲者のための慰霊、記念の日である。前日の日本テレビ系のニュース番組「ZERO」では、広島の各所にある慰霊碑に献水を続けている老婆の特集があり、深い感動を与えた。取材した記者もVTRをみながら、放送中に不覚にも涙をためていらして、プロとしては理想的な態度ではないかもしれないが、まだまだ、まともな記者がいると知って嬉しかった。

核廃絶の動きはなかなか進まないのだが、北朝鮮の核実験というマイナス要因と引き換えに、米国のオバマ大統領による核廃絶への態度表明があったことを、広島政庁は歓迎しているようだ。しかし、「オバマジョリティ」という造語をつくって、オバマ支持を表明するという広島の態度は、どうなんだろうか。確かに、オバマは唯一の核使用国家としての責任を表明し、ロシアとの歩み寄りで、久しぶりに核軍縮の動きを復活した。

とはいえ、オバマ大統領のいった責任というのは、広島と長崎への原爆投下が不正義であったと認め、その非人道的な行為を反省するという意味ではないように思う。また、削減の流れをつくったとはいえ、米国がいまもって世界最大の核保有国である事実はまったく揺るがない。オバマ大統領に書簡を送り、核兵器の非人道性を訴え、広島の平和祈念式典に招待した被爆者に対して、オバマ大統領からの返信はまだないという。実際、広島では、オバマ大統領の祈念式典への参加を呼びかける強い動きがあったようだが、それに対する大統領の反応はなかった。まあ、相手が米国大統領ともなれば、日本政府からの正式な招請がなければ、一国の最高権力者が動くとは思われないから、招待状を突きつけない日本政府にも大きな問題はあるわけだが・・・。

このようにいろいろなことを考えあわせると、「オバマジョリティ」という広島市考案のスローガンは、ややオバマ人気に悪乗りしているような気がしないでもない。それは、オバマ氏の演説のフレーズを使った秋葉市長の平和宣言にも窺えるだろう。

被爆者にとって、すこしだけいいニュースは、原爆症認定基準に関して、政府が正式に歩み寄りを表明したことだろう。非常に限定的な基準を見直し、10何連敗中の裁判で敗訴している件については上告をせず、既に上告申請しているものも取り下げるという。さらに、既に敗訴となった原告に関しても、基金を創設して救済していく考えを示している。あまりにも遅すぎる決定であるし、総選挙を前に控えての決定は素直に喜べない面もあろうが、とりあえず、積み残しの問題がすこしだけ解決したことは、現に苦しんでいる原爆症の患者さんたちには朗報となるはずだ。

献水のニュースのおばあさんも90歳だったはずだが、原爆の被害を直接知っており、語ることのできる人たちも少なくなってきた。広島市から政府への要求事項では、高齢化した被爆者への援護措置についての提案があったといい、そのことを裏づけている。そのような現実的な問題とともに、一部から核武装論などが平気で出てくるような時勢にも警戒しながら、この体験をいかに語り継ぐかを考えるときが来ているのかもしれない・・・否、それも遅すぎるくらいだ。
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