2009/7/29

下野竜也 ワーグナー・ガラ 読響 フェスタサマーミューザ川崎 7/28  オーケストラ

ミューザ川崎を舞台に、毎夏の恒例となった「フェスタサマーミューザ川崎」は26日に東響の演奏で幕を開け、2日目は東京フィル、そして、28日は平日マチネーで、読売日本交響楽団が登場した。正指揮者の下野竜也が指揮を執り、ワーグナー・プログラムである。コンマスは、デヴィッド・ノーラン。

開演前のプレトークでは、甚平羽織にサングラス姿で下野が登場。見事な出オチをかましてくれたが、内容は、「ジークフリート牧歌」についてのネタを中心に、ワーグナーとコジマ、それを取り巻く人間関係のおはなしと、ワーグナー作品で使用される特殊楽器のプレゼンテーション。最後に、ワグナーテューバとテューバによるヤッターマンの演奏サーヴィスがついて終わった。

【温かいジークフリート牧歌】

さて、本編のワーグナーは、多分、生粋のワグネリアンには物足りないものだったと思うが、それはまた、私にとっては、なかなか舌触りがよかったということになる。

特に、ワーグナーの作品のなかで、私がなによりも愛している「ジークフリート牧歌」の演奏は、そうしたさっぱりしたサウンドが調度よく、下野の人間的な優しさが滲み出たものになっていた。今回は自邸の階段でコジマに聴かせたときの演奏を再現する形で、せり上がりを使い、17人の奏者を段々に並べての演奏であった。こうしてみると、響きに過剰な力みがなく、ワーグナーが1つ1つの声部に仕込んだ周到な配慮が、我々にもよくわかる。手綱を締め、慌てず騒がずの演奏が粘りづよくおこなわれ、その分、緊張感を保つのは難しく、演奏はタイトなものになる。だが、プレトークの内容もすこし効いていて、我々は、コジマのいたような位置(立場)で演奏を聴くことができたので、とても温かい気持ちになって、多少の瑕は気にもならない。

【前半の曲目】

これを真ん中に、前半はより新しいイメージで捉えられ、後半は、正攻法のどっしりした響きで決めている。最初の「マイスタージンガー」の〈第3幕への前奏曲〉は、クライマックスとなる歌合戦のイメージを取り込み、多様な音楽性が刻み込まれている前奏曲のフォルムのゆたかさを、よく示している。演奏は控えめで、ザックの諦念のテーマも柔らかく織り込まれている。

つづく「タンホイザー」の序曲は、すっきりしたフォルムで無駄がなく、構造の起伏を自然に歩んでいくような演奏が特徴的だ。今回、ほとんどの曲で共通するように、全体的に遅めのテンポが選ばれ、クライマックスですこし見栄を張って、さっと抜けていくのが常套手段になっている。この曲では、弾き終わりにかけての強弱の扱いが見事で、巡礼が遠ざかっていく最後の部分まで構造の網目がぎっしり詰まっているっことがよくわかる演奏だ。ノーランと小森田がソロ・パートを弾き、第1ヴァイオリンを次のプルトの2人で支える部分は印象的で、楽団の底力をしっかと証明するものであろう。

【後半の曲目】

「ジークフリート牧歌」をはさみ、後半の2曲がやはり耳を惹く。「神々の黄昏」の〈ジークフリートの死と葬送音楽〉は、英雄の死に相応しい構造物(動機)のぶつかりあいが、ガツガツとした骨太の感動を紡いでいく名シーンを堪能させる。そして、最後の「マイスタージンガー」第1幕への前奏曲は、壮絶な演奏だった。全体を通して共通する特徴だが、曲想の変化につけきれず、場面の移行が硬いのは止むを得ない。しかし、それを除けば、弦・管・打が押しあった情報量の多い演奏で、拍節感もしっかりしており、聴きごたえがある。

最初の部分や、中間の木管とホルンによる場面で、古典的な対位法の構造を見せているのが面白く、それを突き抜けて新しい音楽へ移行していくときの生命感は無類である。主要なテーマをテューバで吹くところは、次田心平がこの楽器の良さをうまく引き出した、「内臓から搾り出す」(これは、鄭明勲の言葉を拝借)深い音色で聞かせ、ぐっと来るものがあった。周りにも、これを生かそうとする意図を感じる。だが、そこだけに限らず、音よりも、こころを受け渡していく全体の合奏はソウルフルに仕上がり、これが「第1幕への前奏曲」だったら、その日のオペラは本当に楽しみになるだろうというような、濃厚な演奏になっていた。

【まとめ】

全体的に下野らしい音楽づくりが堪能でき、なかなかに楽しめたコンサートではあった。しかし、途中で言ったように、まだまだ読響のオペラ・ナンバーには問題があり、ワーグナーならまだいいかと思ったが、やはり、音色の硬さや、場面が受け渡される部分のこころの切り替えというのには、経験のなさが露呈する。今後、鍛えていってほしい部分である。なお、アプローズのあと、予想どおり、アンコールに「ワルキューレの騎行」が演奏され、華やかに締め括られた。

【プログラム】 2009年7月28日

オール・ワーグナー・プログラム
1、第3幕への前奏曲〜「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
2、序曲〜タンホイザー
3、ジークフリート牧歌
4、ジークフリートの死と葬送音楽〜「神々の黄昏」
5、第1幕への前奏曲〜「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:ミューザ川崎シンフォニーホール
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2009/7/26

小森輝彦 & 佐々木典子 オペラ・アリアの夕べ 2009 @トッパンホール 7/25  声楽

トッパンホールはこの時期、実力ある数人の歌手を選んで、企画からパフォーマンスまで自由に任せてしまうコンサートを、毎年1回ずつおこなってきている。今回は、小森輝彦と佐々木典子に白羽の矢が立った。

毎夏、帰国してリサイタルをおこなっていることからもわかるように、小森は良質な歌い手であると同時に、企画力がある。今回の公演も小森の影響力が強いと思われ、プログラミングにもそれは窺われるが、小規模公演ながら字幕をつけるアイディアは、小森のリサイタルと同じ形式になっている。彼はこのトッパンホールの企画には、3年前にも幸田浩子とともに出演したが、その公演で覚えた興奮はなかなか忘れられないものだった。イタリアとドイツの両方の歌唱法にベースをもつ彼だが、イタリア系の技巧的な歌唱に適性の高い幸田から、ドイツ的な歌唱に強いベースをもち、維持している佐々木に相手が変わったこともあり、今回はワーグナーとリヒャルト・シュトラウスに限ってのプログラミングを考えた。

なお、ほかに、二期会のホープであるソプラノの安井陽子と、スザンネ・ガッシュというメゾが加わっての公演となった。本来、ワーグナーやシュトラウスのような厚い作品ばかりを、ピアノ1台だけで伴奏することは無謀というべきだが、コレペティの名手、河原忠之がその困難を請け負ってくれた。

【ドイツ・オペラの裏にあるイタリア】

今回の公演で、もっとも深く印象づけられたのは、ドイツ・オペラ(ワーグナーやシュトラウスは、その中でも象徴的な存在である)の裏にへばりついているイタリアの影響だった。例えば、「アラベラ」第2幕における、アラベラとマンドリカの二重唱(出会いの部分)を歌ったときの小森(マンドリカ)のパフォーマンスを分析したい。そこにはいかにも華やかな、リヒャルト・シュトラウスらしい構造の花束が、次々に2人(アラベラとマンドリカ)の関係を彩っているわけだが、一方、自らの境遇を語り、アラベラへの求婚をするマンドリカが切々と愛を訴えるときの表現力は、それとは別のものが求められている。

小森は、伯父の性格に触れつつ、それと比較して自らの身上を堂々と語るときの、一種の英雄譚のような部分を語る部分は、正にワーグナーを歌うときのような肉太な表現力を前に出し、昔の妻を愛していたことを懐かしげに話したり、とうとうアラベラにアプローチしていくような部分では、実直に語りかけるような、ベルカントの男声のナイーヴな部分を活用し、あくまで力強い表現にブレンドして歌っているのである。

確かに、「ローエングリン」第2幕、神前裁判で敗れた後、打ちひしがれたテルラムントがオルトルートの助言を聞いて、復讐を決意するような部分では、典型的にドイツ的な引き締まった歌唱で通している。しかし、「タンホイザー」の〈夕星の歌〉や、シュトラウス「インテルメッツォ」終幕の場面では、こうしたものだけで貫くには無理があり、表現の硬軟を巧みに使い分ける技量が必要である。いま、技量といったが、これは「こころ」の問題でもあって、勇ましいテルラムントの野心に満ちた表現だけで、アラベラを口説けるとは思えないのである。今回、マンドリカは第1幕のアリアを最初に歌ったが、そこで見せたオトコの魅力と、アラベラの前で見せるべき表情は、もちろん、ちがうのが当然である。しかし、それらは背中合わせになっている。それに象徴されるように、ドイツ・オペラの裏側には、いつもイタリア・オペラの技量やこころが張りついている。それがなければ、人間の自然なこころを描くのは簡単ではないことだろう。

【こころの表現は技量に比例する】

ところで、オペラ歌手にとって、いちばん大切なことは何だろうか。それは、自分にあった曲を歌うことである。かつての大歌手たちはすべて、自分の成熟にあわせて、役を選んで歌ってきた。例えば、グルーベロヴァはノルマを歌うのに、60代にちかくなるまでじっくりと待った。そういう姿勢があればこそ、「ロール・デヴュー」という言葉には意味があった。現在、「ロール・デヴュー」は単に初めて役をやったということにすぎず、その役に相応しい声になったかどうかを示す指標にはなっていないようだ。

さて、その点で、安井陽子という歌手には注意が必要である。彼女は非常に質のいい歌声をもち、高音も伸びるし、音程も正確で、、爽やかな歌い手として気に入っている。しかし、キャリアの初期に、海外で「夜の女王」を歌ったことが災いして、ソプラノ・コロラトゥーラとして売り出されているのは適切でない。なぜなら、彼女のアジリタのレヴェルはそうした役に相応しいものではなく、いまのところ、もっと素朴で、実直な役柄にこそ相応しいからである。今回の役でいえば、「アリアドネ」のツェルリーナは甚だ不適で、「ばらの騎士」のゾフィーは本当に素敵だ。

オペラの醍醐味は、歌手たちがめいめい役どころの抱く心持ちを、歌として形にしていき、あたかも作品の登場人物たちがそうするように、それらを複雑に交わしあい、ぶつけあうところにある。ときに、歌手たちが試みるこころの表現のリアリティは、実のところ、各々の歌手たちの技量に比例してくるのだ。「技量」とは、アジリタなどの単に技術的なものに加えて、その役に対する声や人柄のマッチングをも意味している。例えば、ご主人を皮肉る召使といったスープレット役に、ドラマティックだが、茶目っ気のない実直な歌い手をもってきたとしたら、どんなに音符をうまく歌っても面白い劇にはならないはずだ。

安井の場合に特長となるのは、あのどこまでも澄明な歌声の涼しさであり、細かい動きを小ざかしく辿っていくよりは、声の表現力が真っすぐに生かせる役柄に向いている。ツェルリーナのようにエロティックで、小悪魔的なユーモアの求められる、しかも、コロラの技巧で歌を飾り立てるような役では、どうしてもケチがつきやすい。今回、ツェルリーナの悪戯っぽい歌に含まれるユーモアは控えめで、肝心のところに表れるコロラの甘さが、話の腰を折るような感じにきこえた。そこへいくと、ゾフィーの役柄はずっと素直に入っていけるはずで、安井らしさが出やすかった。とりわけ、ゾフィーとオクタヴィアンが出会う第2幕での二重唱は、若い2人の興奮がすんなりと伝わってきて、表現にリアリティがあると感じられた。

【佐々木の表現力】

今回、小森とともに主役だった佐々木典子も、随所にさすがの表現の鋭さを見せつけた。

いきなり「エルザの夢」で、気高いオープニングを飾ったあとは、超のつくほど難易度の高い「カプリッツィオ」終幕のモノローグ、「インテルメッツォ」終幕の場面、「アラベラ」第2幕のマンドリカによる求婚の場面、最後に「ばらの騎士」終幕の三重唱(マルシャリン)と歌っていったわけだが、最初のワーグナー以外は、すべてリヒャルト・シュトラウスであるとはいえ、この作曲家はもともと作風が広く、これだけ多様な場面の、しかも、そのエッセンスだけを抽出して歌うのは、困難が多かったろうと思う。

しかし、「ばらの騎士」の三重唱では、3人でのクライマックスを迎えたあと、若い2人を結びつけて去っていくときの表現力は抜きん出ていた。彼女が歌声の残響をかすかに残しつつ、袖に下がっていったとき、きらきら衣裳の印象も手伝ってか、彼女のいた場所に耳でしか感じとれない薫りのようなものが残り、それがしばらく舞台上を支配しつづけたのは印象に残る。

これに代表されるように、佐々木は完璧とはいえないけれども、上に示したような作品のいちばん大事な雰囲気をしっかり伝える歌をうたい、「技量」において、若手に不足しているものをしっかり備えていることを、聴き手に印象づけたものと思われる。「カプリッツィオ」終幕の場面は、詩人と音楽家、2人の男性から愛を求められた女性の嬉しくも、苦しげな想いに照らして、詩と音楽の運命的な出会いに身を捧げた自らの芸術的身上を歌う部分であり、特に、古風な詩の言葉づかいや、その複雑な韻に対応するようにして、実に典雅で、個性的な音楽がつけられているのが、よくわかる歌唱であったと思う。

小森共々、「アラベラ」の場面は気品に満ち溢れた佐々木の歌も満開。「インテルメッツォ」では、このほど亡くなった若杉に抜擢された思い出の役をしみじみと歌う小森に対して、思いきった表現を貫き、相手役をさらなるハイ・テンションに誘い込んだ。このナンバーでは、小森はすこしエキサイトしすぎた感じもするが、こうした場では相応しい表現といえるのかもしれない。

【まとめ】

これまでに、あまり触れるスペースがなかったが、メゾのスザンネ・ガッシュも良い歌い手であった。

全体的に、知性のスパイスが効いた良質なプログラムであるが、最初に述べたように、すこし無理な構成を支えたピアノの河原の功績は大きい。「ばらの騎士」の最後では、3人(途中で、フォン・ファーニナルがすこし出てくるが)の歌手がすべて退場し、音楽のエピローグを河原がゆったりと奏であげる見せ場をつくり、その努力に報いる形をとったと思われる。

アンコールはなしの予定だったそうだが、小森が河原と一緒に舞台に出て、若杉弘に対して、短いが、こころのこもった弔辞を読んだあと、モーツァルトの切ないナンバーをひとつだけ歌った。小森は涙ながらの弔辞であったが、歌のほうはしっかりとやって、プロとしての筋目を通した。この公演が決まったとき、若杉は既に病床にあったろうが、もちろん、亡くなることがわかっていて組まれたプログラムではないはずだ。だが、偶然にも、生前の若杉が重視したであろうようなプログラムが並んだので、当然、小森はそれらの曲目で故人との思い出を回想したにちがいない。

4人の歌手と、1人のピアニストが遺憾なく力を出し尽くしたコンサートは、こうして幕を閉じた。なお、小森はこのあと、8月7日にも、恒例の服部容子とのデュオを予定している。今回、マーラーの歌曲が中心で、イタリア・オペラのアリアも組み合わされている。今回のコンサートとも共通点がありそうな演奏会である。
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