2009/6/26

原裕子 東京文化会館 モーニングコンサート vol.27  室内楽

ヴィオラの原裕子が、東京文化会館の「モーニングコンサート」に出演したのを聴いた。東京文化会館主催の東京音楽コンクールでは第2位を獲得した才媛は、東京藝術大学に在学中。先日の東京国際ヴィオラコンクールは第1次審査を通過できなかったが、そのときの印象が良かったので、ここに足を運んでみた。卒業後、ジュネーヴに渡って、今井信子の指導を受けることになっている。

共演者は、コンクールでも伴奏ピアニストの1人として活躍した草冬香。

ホールがちがうということもあるし、コンクールのときとはちがって聴衆がいっぱい入っているのもあるが、それ以上に、大きなちがいを感じた演奏であった。今回のパフォーマンスは、決して出来上がったものではない。しかし、それだけに、彼女の成長の可能性を示すものであったともいえる。

この人は、勇気がある。例えば、メインの「アルペッジョーネ・ソナタ」は、コンクールのときとはアプローチがちがう。私の記憶では、もっと朗々と歌うタイプだったはずだが、トーマス・リーヴルの影響か、その演奏は、よりシンプルで、飾り気のないものになっていた。そのせいで、失われたものがないとは言わない。しかし、確かに、正しい道に歩み出しているとは感じられるのである。コンクールがきっかけであるのかどうかはわからないし、実際に、彼女が意識して変化を選び取ったのかについてさえ、はっきりと断言はできない。

しかし、私は、彼女の演奏がはっきり変わったと感じたのである。彼女は、自分の積み上げてきたものをゼロに戻すことを躊躇わない。同時に、新しい道に踏み出していくことを喜びとできる人間だ。それは、真ん中に組まれた武満作品のプログラムからも窺われる。ヴィオラと管弦楽による「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を、細川俊夫がピアノ伴奏版に編曲した版の演奏だったが、それは彼女がずっと前から親しんでいるというよりは、学生時代に教えてもらった作品のようである(多分、それほど遠くない時期だ)。だから、決して弾きなれた曲と同じような完成度はない。だが、その世界観に素直に共感し、自分のものにしたいという想いが、ひしひしと伝わる演奏だ。

原裕子はこのように、音楽家として真摯な向上心をもっている。自分の道が間違っていると思えば、直ちにやりなおす勇気と根気がある。いま自分のなかに抱え込めないものだとわかっていても、必要であれば、新しいレパートリーや演奏姿勢にチャレンジすることを恐れていないし、そのことにむしろ積極的になれるヴィオリストだ。私はコンクール時の原の演奏も好きだったが、今後、今井先生に習って、どのように化けるかを見てみたい。

さて、アルペッジョーネ・ソナタは、第1楽章、前半の繰り返しは省略し、後半の変奏は全部を演奏するというスタイルである。新しいスタイルはまだ十分に馴染んでおらず、リーヴルのようにぐっと聴き手のこころを放さない演奏にはなっていない。そのため、第1楽章後半の変奏をフルで演奏したことは、冗長に感じられる。第2楽章は静穏で、彼女の音色の素晴らしさがよく生きている。第3楽章は、コンクールのときにみせた彼女のスタイル(といっても、この楽章は演奏していない)がまだ残っており、やや逡巡的な感じが窺われる。テンポがやや急いでしまい、音楽にメリハリがなくなった。今後の試行錯誤に期待したいものである。

武満の作品は、ゆったり引き延ばされた世界観が特徴の、武満の音楽をねばりづよく実践している。なかなか難しい作品で、これを完全に弾きこなすには、さらなる研鑽が必要かもしれない。特に、全体としてゆとりのある流れのなかで、一瞬、鋭く動くようなアクションに対応できていないのが気になった。

前半は、シューマンが2曲。「3つのロマンス」(op.94-2/原曲:ob)はこの日の白眉で、低音の潤いのある響きが、いかにも彼女らしいものだった。対して、古典的な味わいが強い「アダージョとアレグロ」(op.70/原曲:hr)は、造型に必要な骨組み、肉付けがうまくいっておらず、そうした点における弱点を露呈した。

MCは、そういうことに慣れている前回の上野由恵とは異なり、いかにも学生という感じだが、それはそれで悪くないだろう。

また、何年かあとに出会いたいヴィオリストである。
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2009/6/26

アレキサンダー・マッジャー ピアノ・リサイタル @紀尾井ホール 6/25  ピアノ

旧ユーゴスラビア出身のピアニスト、アレキサンダー・マッジャーの紀尾井ホールでのリサイタルを聴いた。この方はヴィルサラーゼの弟子で、母校であるベルギーのブリュッセル音楽院の教授を務めたのち、ベルンの高等音楽演劇学校の教授に転じている。いわゆる「アラフォー」のピアニストである。プログラムは、ドビュッシーとショパンのエチュードを前後半のメインに据え、その前菜として、リゲティのエチュードから1曲ずつを配したものだった。

演奏会最初のリゲティを聴いて、その音色の美しさと、柔らかいタッチに驚いた。これだけのものを弾けるならば、もっと良い席をとればよかったと思ったほど。しかし、次のドビュッシー晩年のエチュードは、いまひとつであった。昨年、小川典子が20周年記念のリサイタルで取り上げた作品でもあり、そのときの素敵な演奏がいまもあたまを離れない。それと比べると、マッジャーの演奏は焦点が定まらず、12曲を集めたときの構造観がはっきりしないのだ。1曲1曲をとっても、その精確で、柔らかな表現力は変わらないものの、全体に輪郭がぼやけており、瞬間的に凝結したものが浮かび上がったとしても、どこかにイメージが逃げていく部分があり、全体を貫き通す意思に欠けていた。

そこへいくと、ショパンのエチュード(op.25)は素晴らしかった。まずもってタッチが柔らかく、ショパンを弾く場合には、あまり鳴らしすぎないのが正解という常識が広まってきたのも嬉しい。マッジャーの場合、それに輪をかけたマイルドな響きで、いたわるような音色が美しいのである。

特徴のあるところを拾っていくと、第3曲は後ろを跳ね上げるようにして、馬が駆けるような躍動感で活き活きとしている。次の第4曲も低音の弾力性が強調されており、独特のフォルムを見せる。それは曲調の似ている第5曲にも引き継がれ、こちらのほうがよりヴィヴィッドで、いびつな感じを与える。第6曲は音色の美しさが出色で、特に右手のトリルの透明な動きは見事なものであった。ショパンのエチュードはいまや、簡単な曲になったのだろうかと勘違いさせられる。

第10曲は、ドビュッシーのときとは正反対に輪郭くっきりの爽やかな演奏で、特に、トリオのロマンティックさが浮き上がっている。両端部分は潔癖なほどの整然とした響きが特徴となる。次の曲にアタッカで突っ込んでいくときの迫力は、出色である。「木枯らし」として知られる第11曲は身体の使い方を工夫して、ぐっと重みの乗った演奏に仕上がっている。前半は横の揺れに焦点を合わせていたのに対して、後半にかけては縦の伸縮が意識され、ぐっと体重の乗っていく部分の立体感が堪らない。終曲の「大洋」は再び横揺れが激しいエクスタシーを誘い、これを粘り強くつづける。跳躍がものの見事に精確で、コンピュータでプログラムされたような指のコントロールに嘆息させられる。最後、シンプルな和声へと解決される部分の響きの美しさは秀逸で、この作品全体が結局のところ、ここに回収されるというイメージの大胆さには驚かされた。

全体的には清冽な演奏で、左手の柱もしっかり固定され、テンポ・ルバートのあり方には文句がない。ただ、難をいえば、いささか並行的な演奏で、遊びが少ない。とりわけ、最初の数曲はダイナズムの伸縮にも欠けており、いささか整いすぎた演奏に思えた。ときどき嘘のように粗い打鍵がある点と、パッセージの軽さが省略気味にきこえてしまう部分があるのは、残念である。

とはいえ、昨年のエル=バシャの名演には及ばないとしても、ハーモニーの美しさが自然に浮かび上がる好演であり、ヘルシーで、優しげな響きで演奏されるショパンのイメージは、妥当性が高かった。

【プログラム】2009年6月25日

1、リゲティ X:虹〜ピアノのためのエチュードT
2、ドビュッシー 12のエチュード
3、リゲティ XT:不安定なままに〜ピアノのためのエチュードU
4、ショパン 12のエチュード op.25

 於:紀尾井ホール
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