2009/5/31

東京国際ヴィオラコンクール セルゲイ・マーロフ Sergey Malov が優勝  オーケストラ

30日、東京国際ヴィオラコンクールは協奏曲による最終審査の2日目を迎えた。4人のコンテスタントが前日の現代曲、ブラームスのトリオにつづき、ウォルトンのヴィオラ協奏曲を、原田幸一郎の指揮による東京フィルの伴奏で演奏していった。審査は17:30ごろに終了、19:00にホール内で結果が公表され、引きつづき公開のまま、記者会見となった。上位入賞者は、以下のとおりとなった。

 第1位 S.マーロフ Seergey Malov ロシア
 第2位 D.ムラト Dmitri Murrath ベルギー
 第3位  V.B.ヘルテンシュイン
          Veit Benedikt HERTENSTEIN ドイツ

この結果、もうひとりのファイナリスト、ミレーナ・パハロ=バン・デ・スタット(米国)は、第4位となった。なお、その他の特別賞は、明日の授賞式で発表される模様だ。

従来、もっとも有名なヴィオラのコンクールであったプリムローズ国際のタイトル・ホルダーであるムラスを鼻差かわして、マーロフが優勝した形で、興味ぶかい結果となった。

【東京フィルの酷い伴奏に苦言】

さて、協奏曲審査だが、私にはすこし残念な印象を残した。というのは、共演した東京フィルの伴奏がかなり荒削りで、共感できる部分が少ないものだったからだ。確かに、ウォルトンの協奏曲は派手な部分もあるが、それはいかにも英国らしい気品に満ちた豪華さであって、間違っても、怪獣映画のような仰々しいものではない。この日の東京フィルの演奏は、乱雑のうえにも乱雑、ただ下手ならばまだいいのだが、煩くて聴きものにならないし、コンテスタントたちの工夫を台無しにするような響きの汚さも目(耳)にあまる。

恐らく、2ー3時間しかないプローベに加え、このホールでやるのに相応しい曲なのかという問題も、一応は留保しておくにしても、ほとんどアマオケみたいなワルノリや、管楽器の無粋な強奏、そして、何よりも、コンテスタントたちの奏でる音を聴いてアンサンブルができない柔軟性のなさなど、私は日本人として恥ずかしくなってしまった。ここまで進んだ4人の若者たちに、こころからお詫びしたい気持ちである。舞台はしようがないとしても、向こう3年、東京フィル単体の演奏会には行かないと決意した。

ヴァイオリン以外にヴィオラ演奏も得意とし、ヴィオラスペースの常連でもある豊嶋泰嗣がゲスト・コンマスに迎えられていたが、彼ひとりの力では如何ともしがたいものがあった。

【順応できた人/風を受けた人/難しかった人】

そんな中でも、コンテスタントたちは文句もいわず、自分らしいパフォーマンスをしようと頑張った。いちばん被害が大きかったのは、トップのムラトだろう。さすがに繰り返し弾いているうちに、さすがに、一応はプロだけあって、少しずつマトモな演奏になってくる。だが、この最初の演奏は、私としても怒り心頭に発しそうな酷い演奏だったといえるだろう。あのバックを潜り抜けて、第2楽章の最後で、「vivo,con molto preciso」の、きっちりした正確さを伴って・・・を逆手にとるような諧謔性をPRするなど、独特のユーモアも感じさせた。

だが、オケの響きの問題もあり、序盤からぎくしゃくした感じを与え、本領発揮とはいかない。このラウンドに入って、スイス時計のような精確性にやや陰りがみえ、疲れを感じさせる部分もあり、手綱がゆるんだ印象はあった。それにしても、すべてのラウンドを通して、この方の技量は常に、どこかしらに耳をひくものがあった。

そこへいくと、2番目のパハロ=バン・デ・スタットは、オケのつよい響きを追い風にできたコンテスタントだ。最初の何小節かは響きがこもり、音程も安定せずに苦しい印象を与えたが、徐々にリカバリーし、彼女らしい強い音色をアピールした。独奏や室内楽よりも、こうした協奏曲で輝きやすい特性のある響きの重量感は、ムラトとは対照的だ。会見のやりとりでは、彼女に対しても賞賛の言葉があり、今井委員長から「なにか賞をあげたいくらいだった」というフォローもあった。

結果的に優勝したセルゲイ・マーロフは、難しい状況ながら、うまくサーフィンを楽しんだようだ。早めにポジションをとり、相手がなんだろうと俺は俺という演奏で、しっかり構造を追っていったのが成功の要因だろう。彼はこのコンクールで、もっとも成長したコンテスタントではなかろうか。例えば、大先輩たちによるガラコンで受けた刺激をうまく消化し、柔らかく自分の音楽に溶け込ませることができたのは、多分、彼だけである。そのための基本的なスキルが整っていることはもとより、音楽性にも自分らしい哲学をもちながら、決して硬直せず、良いものはドンドン取り入れていく貪欲さがあるのだ。

折に触れて、彼の胸に響くような刺激を与えてやることができれば、きっと、自分自身の手で次々に新しい扉を開いていくことだろう。

最後に、ドイツのヘルテンシュタインが登場した。昨日の室内楽はやや残念な印象だったが、コンチェルトでは人が変わったように立派な演奏だ。ブラームスでは原曲がクラリネットという特殊性から、彼のもつ響きの特性が楽曲にあっていないというのが大きな問題だった。しかし、このウォルトンでは、オケの響きが不潔であればあるほど、ヘルテンシュタインの響きの清らかさがアクセントになっていった。マーロフ以上にしっかりしたポジションをとり、さすが師匠の今井が得意とする曲目だけに、良いものを受け継いでいると感じた。とりわけ、第1楽章冒頭の混沌とした風景のなかでみせたヴィオラの響きの造型は、見事というほかない。リズム感にも優れ、オケのがさつさを一時でも忘れさせる流れのいい演奏だった。

第3楽章に入り、そのフォルムがすこしだけ崩れると、なかなかリカバリーが難しいのが、この人の難点だ。終盤、画竜点睛を欠く感じに思えた部分もあるが、全体的な印象はすこぶる素晴らしい。この日の聴衆賞投票は、彼のために捧げた。

【結果発表と記者会見】

結果は、最初に述べたとおりだ。勿体をつけず、いきなり今井審査委員長が結果を発表した。コンテスタントたちはリラックスした服装に着替えており、そのまま舞台上にあがる。パハロ・ファン・デ・スタットだけはフロアに残った。その後のセレモニーは、すこし珍しい形態で面白かった。今井委員長の講評のあと、審査員全員が短いながらも所感を述べるのは珍しいのではないか。なかでも、堤剛がホロヴィッツの言葉を引用して話した内容は感動的だ。それは、「自分が他人よりもうまいと思っているうちは、本当の音楽家じゃない。昨日の自分より、今日の自分がうまいとするなら、本当の音楽家なんだ」(大意)というもので、この年齢にして堤がいう言葉としては、かなり重いものと感じた。

コンテスタントたちだけではなく、審査委員たちにもずっしり来た言葉ではないだろうか。

多くの審査員は、(リップ・サーヴィスはあるとしても)コンクールのレヴェルの高さについて言及し、審査員の仲間たちも本当にレヴェルの高い人たちであると付け加えた。ムラトも気がきいていて、自分がコンクールに参加したのは、ここにいる優れた審査員たち、そして、良い曲の揃ったチャレンジングな大会で、自分を試したかったからだとフォローした。今井審査委員長は自分の夢が叶ったと無邪気に喜んでおられたのが印象的で、ここに至るまでに支援を受けたスポンサーたちや、ホール関係者などに謝意を述べた。

記者たちの質問は概ね面白くないものだったが、採点方式については明らかになった。それは意外とざっくりしたもので、1次と2次では、審査員たちが○、△、×をつけて、次のラウンドへ進出してもいいと思うコンテスタントを選んだ。最終審査ではまず1位を出すかどうかを決め、全員一致により1位を出すことを可決。次いで、各自が4人を順位づけして、そのスコアの合計により順位が決まったという。これでは、一部のコンテスタントに異常に大きな点をつけたり、逆に、極端に低い点数をつけることはできないわけで、シンプルだが合理的な方法である。

一方、それぞれがお弟子さんを連れてくるなかで、客観的な審査をすることは難しかったという感想も吐露している。確かに、ヘルタンシュタインの3位入賞を喜ぶ今井さんの表情は格別だった。

審査員の店村からも残念感が述べられ、記者からも質問があったのは、アジアのコンテスタントがファイナリストに残れなかったことについてだ。記者がどこにちがいがあるのかと聴くと、今井審査委員長は個々の人たちの問題なので答えるのは難しいが、音楽家としてのプレゼンテーションの問題で、技術的なことではないと語った。

【まとめ】

私のほうからは、やはり、コンクールを見守る層が十分にできなかったことを挙げたい。最終審査のコンチェルトもさほど人が集まらず、これで「聴衆賞」を決めるのも問題があるような感じがしたものだ。

コンクール盛り上げる方法としては、正攻法として広報の充実があるが、ほかにいくつか提案できることもある。例えば、ボランティアを運営に絡ませる方法は、八王子のカザルス国際(チェロ)や高松国際(ピアノ)などで実績があり、演奏のインターネット配信は仙台国際(ヴァイオリン、ピアノ)や浜コン(ピアノ)で大きな効果を証明している。そのほか、周辺地域や教育機関でのアウトリーチ活動、ワークショップの拡大などが挙げられ、より上をめざす運営を考えてもらいたい。それは、「世界中から人が集まり、出会い、交歓する、生きたコンクールにしたい」という今井委員長が考える理念の根本を整える意味でも重要だ。

ここまでに述べてきたように、参加したコンテスタントたちのなかには「天才的」というほど飛び抜けた人はないものの、それぞれに見所のある人が多く、独特の「声」を楽しむことができた。ヴィオラは「にんげんを奏でる楽器だ」というスローガンが、そのことを象徴しているが、聴いていて満足感の高いコンペが続き、審査員たちも同様の発言をしていた。

今回、またとないほど時間のたっぷりとれる時期に、このコンクールが産声を上げたのは、なにかの引き合わせだったのかもしれない。素晴らしい時間を過ごした。

【補足 第5位と特別賞】

第5位 クオ・ウェイティン

邦人作曲家賞 クオ・ウェイティン

委嘱作品賞 リッリ・マイヤラ

聴衆賞 V.B.ヘルテンシュタイン
6

2009/5/30

ヴィオラスペース2009 ガラ・コンサート A @紀尾井ホール 5/29  オーケストラ

29日は、ソワレでガラ・コンサートの第2夜がおこなわれました。この日は、ヴィオラスペースでの演奏が授業に組み込まれている桐朋音大のオーケストラをバックに、協奏曲と、いくつかのソナタ作品という構成です。オーケストラの指揮者は、同大の教授である原田幸一郎氏でした。

【ブルッフ、ボーエン】

まずは、ブルッフのかぐわしい佳曲「ロマンス」の演奏から。母校のオーケストラをバックにヴィオラ独奏を演じたのは、トウキョウ・モツァルトプレーヤーズや紀尾井シンフォニエッタ東京で活躍する馬淵昌子さん。独奏で聴くのは初めてだったのですが、大時代的なヴィブラート過剰の演奏であり、揺らぐ音程がかなり気になります。

大学の看板娘である南紫音が率いるオケは、この日、後半のプログラムではなかなかの出来でしたが、このブルッフでは酷いものでした。まだ学生だから、あまり厳しく言っても意味がないのですが、あとで演奏した堤学長の演奏と比較すると、オケだから止むなしとはいえ、まったく飛び出しがないんですよ。徒競走で、全員が手をつないでゴールするように教育されたという世代は、こんな風になってしまうのだなと思いました。特に、木管などは自分の吹き方というのを主張したいところだし、それがないと、オーケストラを聴く楽しみなんてないですよね。

でも、それがまったくなくて、響きに抑揚がないし、フレージングも無難。あとのプログラムでも、強く指示を受けた部分以外はすべて無難で、自主性がないのです。

ボーエン「幻想曲」の演奏では、ジュリアード音楽院の看板教師、川崎雅夫先生が登場しました。難しいヴィルトゥオーゾ・プログラムながら、ほとんど備えもしないで来てしまったのは明らかとはいえ、それでも、あれだけ弾いてしまうのだから、さすが。冒頭の空間を斬るような響きは日本的、その後の緩やかで、自由なフォルムはアメリカ的。ミュートをしてからの部分が難しいはずですが、ここが異様に素晴らしかった。

普通、ミュートは音を弱めるために使われますが、この曲では反対です。ミュートをしなければ、きつすぎて表現には適さない響きを丸くして、使用可能な響きとしている。その分、演奏するのに困難な部分が出てくるわけですが、そこをものの見事にやっていましたね。凄いです・・・。

【堤剛の完全版アルペッジョーネ・ソナタ】

さて、前半のハイライトは、桐朋音大の学長にして、サントリーホール館長でもある、堤剛氏によるシューベルト「アルペッジョーネ・ソナタ」の演奏です。「ヴィオラスペース」で、チェロによるソナタとは不思議ですが、同曲がコンクールの課題曲になっていたことと、堤氏が審査員として参加していたことから、特別出演となったのでしょう。正直にいうと、ガラ@でも、トーマス・リーヴルによるヴィオラ版の「答えあわせ」がありましたし、何故、もういちど同じプログラムを組むのかは疑問でしたが、おわってみれば、納得の演奏でもありました。

川崎先生同様、空間に斬りつける響きの鋭さが日本的な(ブシドー的な)美を感じさせますが、それは堤さんの場合、さらに鋭敏で、居合抜きのような迫力を感じさせます。やや瑕も多いですが、自由な歌いまわしは私たちが忘れかけているものですし、よく練られたフレージングと、息づかいが気持ちよく、そして、コンテスタントたちがいずれも無愛想にやっていたピッチカートにも、独特の色気がありました。そして、最初のピッチカートの結びを酒脱に終えたあとが驚きでした。通常、ほとんど変化がないためカットされる繰り返しを、おもむろに始めたからです。

堤さんはこの繰り返しをはじめとして、通常はあまり演素されない変奏をすべてカットしないで、弾いていったのですから、目が丸くなってしまいました。全部弾いたからいいとは限りませんが、最初のダ・カーポ以後は、酒脱さから厳しさに転じて音楽に深みをもたらし、後半の変奏の完全演奏では、一般的な演奏に比べ、構造を使いきるシューベルトらしい特徴がよく出ていて、ただ珍しいという以外の効果を挙げていたから納得です。こうして弾かれてみると、あの「グレート」交響曲の面影があたまに浮かんできて、ハッとするものがあります。

堤さんがかなり崩してお弾きになるので、ピアノの野平一郎さんも大変だったでしょうが、よく耳を傾けて、きれいにサポートをつけておられました。こうなると、「アルペッジョーネ・ソナタ」というのは、歌曲的な部分が強いのだという印象をもちます。

【バッハ】

後半は、川本嘉子さんによるバッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」のソナタ第3番。川本さんを以前に聴いたのは、都響を辞めてからさほど経たないころだったのですが、オケをベースにしないソリストとしての貫禄が、日々成長しているようです。この日のソナタは、前半の2楽章を粘りづよい、息の長い呼吸で織り上げ、こちらが苦しくなるほど。弾いているほうは、さらに苦しかったでしょう。後半は、こころなしリラックスして、より細かい作品の構造をアピールしています。よく知られた曲だけに、フロアの拍手も大きかったですね。

【ユダヤ人作品二題】

この日の最後の2曲は、戦争をはさんでのユダヤ人の作品が2つです。このイヴェントでは、以前にも、リトアニア大使だった杉原千畝の功績をモティーフとしたバルカウスカスの作品が演奏されたり、ユダヤ人の作品や、その境遇に一考を与えるものが多く選ばれています。これはオランダにいた今井信子女史のご両親が、戦時、ユダヤ人のご家族を庇ったりしていたということと無関係ではないでしょう。

この日の演奏作品を書いたレオ・スミットも、最近、室内楽などで注目されるチェコのパヴェル・ハースなどと同じように、ナチスによってアウシュヴィッツ送りになって、いのちを失っています。ちなみに、アメリカに、1921年生まれの同名の作曲家がいましたが、その方とはちがいます。演奏された「ヴィオラ協奏曲」は1940年の作で、これはナチス侵攻の数ヶ月前ということです。このとき、中立を指向していたオランダのスミットが、軍靴の響きをどれだけ身近に感じていたかはわからないのですが、やはり、この時代に生まれたユダヤ人作曲家に共通する特別な緊張感が作品を貫いていることは間違いないと思われます。

構成はアレグロ楽章のあと、レントをはさみ、再びアレグロ・ヴィヴァーチェに転じるという典型的な3楽章になっていますが、華やかな雰囲気をもつ作品で使われやすいロンド形式によるアレグロ・ヴィヴァーチェは、ただただ装飾的なフィナーレにはなっていません。やはり、不穏な空気をたっぷりと織り込みながら、それを常に内側に抱えつつ、ロンド主題を追うごとに、漸次厳しくなっていくからです。ただ、最後のオリヴェロの作品と同様、最終的には希望を感じさせるような雰囲気に解決され、全体としては爽やかな印象を残しています。

シュレムの演奏は、かつてアンテルコンタンポランで鳴らしたというキレは感じられなかったのですが、作品に対する取り組みは真摯で、真っ直ぐなものだったと思います。

最後は、ベティ・オリヴェロの「川よ、川よ〜ヴィオラ・ソロ、アコーディオン、打楽器、2群の弦楽アンサンブルと磁気テープのための」が演奏されました。作品自体は2006年の作ですが、ヴィオラ独奏のキム・カシュカシアンは、「それは戦争が終わったあと、なにもない、だれもいない、なにもきこえない、索漠とした灰色の風景・・・」と説明なさったそうです(御喜美江さんのページより)。アコーディオンの響きや打楽器の響きが通奏低音のように使われ、それと弦楽アンサンブルの響きが、風のように吹き抜けていくだけの序奏。その楽器構成のせいもあるのか、エレニ・カラインドルーあたりを思わせる、ギリシア風の民俗的な響きが徐々に作品を彩っていくことになります。

長い序奏のあと、控えめに入ってくるカシュカシアンのヴィオラの響きに、コロリとやられた人は多いでしょう。このイヴェントのプログラムの表紙に、目立たないですが、こう書いてあります。「(ヴィオラ。)それは、にんげんを奏でる楽器だ。」正に、そのような響きなのですが、ただの人間というよりは、鍛錬され、磨き込まれた人間だけが発することのできる響きとでもいうような、一種の高貴さも備えています。それでいて、柔らかく、どんな人間にもバリアを張らない優しさもあるのです。もちろん、透きとおった響きや、音程の凄まじい精確性はいうまでもないでしょうね。

バックのヴィオラがちょっとだけ早く動き、これに乗って、独奏がぬっと浮き上がるときの凄さは、ちょっと忘れられません。序盤は高音を主体に、落ち着きと静けさに満ちた演奏。中盤の切り替えで、満を持してヴィオラの低音が動き、作品に表情が加わっていきます。随所に、アコーディオンと打楽器の効果が、大人しく設えられているのもポイント。後半は、ユダヤ人のルーツを思わせるアラヴの民謡のような響きが、メッツォとソプラノの響き(磁気テープに採音)で語られます。男性の声ではなく、あくまで母性的なものへの憧憬が、この作品を貫いているのでしょう。本来ならば、肉声で聴きたいところではありますが、言語の面も踏まえて、ああしたクオリティを自然に出せる歌手というのはかなり制限されてしまうから、テープ採音は合理的です。

原田さんが振ってはいますが、実質的な指揮者はカシュカシアンでしょう。彼女の鉄の意志に守られた桐朋音大のアンサンブルは、見違えるような好演です。

【まとめ】

これで、コンクールを彩るガラも終了です。私は、最初のガラのほうがはるかに面白かったですが、まあ、いいでしょう。30日は、最後の審査があります!
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