2009/3/2

スヴェトリン・ルセヴ ヴァイオリン・リサイタル @白寿ホール 3/1  室内楽

予てから興味のあったヴァイオリニスト、スヴェトリン・ルセヴのリサイタルを聴いてきた。

来年、4回目を迎える仙台国際音楽コンクールの初代優勝者に、彼が選ばれたのは8年前のことだった。多分、フォル・ジュルネかダ・ロック・ダンテロンでの縁からオーヴェルニュ室内管のコンマスとなり、張明勲の知己を得てフランス国立放送フィルのソロ・コンマスに抜擢されたキャリアは、コンクールの出世頭となっている感がある。張の信頼の厚いことは、フランス国立放送フィルに加えて、彼の母国での拠点、ソウル・フィルのゲスト・コンマスに迎えられていることからもわかるだろう。しかも、いまだ30代の前半にして、師匠のJ.J.カントロフの後任として、パリ・コンセルヴァトワールの教授にまでなっているのだ。

今回、前半は無伴奏、後半は伴奏付きのプログラムによる公演となった。ピアノは、「せんくら」で共演済みの中川賢一。彼はインマゼールの弟子だが、得意は現代音楽であり、私の愛するアンサンブル・ノマドのメンバーでもある。会場は、代々木の白寿ホール。グランディール・クラシックという主催者は聞いたことがないが、小規模なプライヴェート・カンパニーと思われる(ちがったらゴメンナサイ!)。

【音符からこころを感じるセンス】

さて、このルセヴというヴァイオリニスト、私の想像を越える素晴らしい音楽家だった。考えてみれば、この年齢で伝統あるパリ・コンセルヴァトワールの教授(准教授や講師ではない!)に選ばれるなんて、ほとんどあり得ないことだろう。しかも、彼は幼いときからフランスに暮らし、ヴァイオリンを学んでいたとはいえ、出身はブルガリアなのだ(ルセヴはフランス人と思い込んでいたが、この日の朝、ルセヴなどという名前のフランス人は珍しいなと思い、よく確認してみるとブルガリア出身とわかった)。よくよく卓越した才能でなければ、そんな栄誉にありつくことはない。

まず、もっとも感心したのは、楽譜から書き手のこころを感じるときのセンスの良さだ。音楽院の教授になるぐらいだから、よく勉強する人だとは思うのだが、彼の場合、学識によって音楽を「知っている」というよりは、「感じている」という感じがする。ルセヴはたとえ、まるで知らない作曲家であろうと、楽譜を追っていくなかで、その人がどういう想いを音符に託していったのか、手にとるように感じ取れる・・・というタイプのヴァイオリニストなのではないかと思った。それが、本当かどうかは知らない。しかし、大バッハにはじまり、イザイ、ドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキー、そして、ヴラディゲロフと、次々に演奏されるキャラクターを、これほど面白く弾き分けていく・・・しかも、単に音色のちがいとか舞曲のリズムなどを使い分けていくだけではなく、「魂」のレヴェルから、深いところで描き分けていったルセヴの演奏を思い返すと、そのような表現も決して大仰ではないと思える。

まず、バッハの名曲「シャコンヌ」(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番の終曲)に、度肝を抜かれた。ただでさえ重音奏法の厳しい難曲として知られるが、それが美しくきこえるというだけでは済まない。ルセヴの場合、すべての声部に響きがあるだけでなく、それぞれの響きに魂が入っていると感じさせる。あたかもクァルテットのメンバーたちが、自らの受け持つ声部に責任をもち、響きをコントロールすると同時に、こころを込めていくのと同じように! この曲は有名なので、ヴァイオリンに限らず、チェロやヴィオラ、あるいは、オーケストラにも編曲されているし、何かと接する機会も多いが、オケはともかく、このような見事な演奏をした独奏者は、私の(せまい)記憶にはない。

これが象徴的であるが、この人の場合、どこが良かった/悪かったというよりも、その中心部に輝いていた「魂」がどのようなものであったか・・・について語るほうが、はるかに実りが大きいように思う。

【イザイ〜世紀の巨匠との対話】

イザイに関しても、響きの華やかさよりも、エピソードを整理し、颯爽としたフレージングで聴き手を驚かせる。2番の最初の楽章では、バッハの対位法のイメージをわざとずらし、独特のフォルムで演奏した。第2楽章のポコ・レントでは、弱音器の効果が魂のレヴェルに及び、本心をひた隠しにするような・・・しかし、そのこころの沈鬱はどうしても隠しきれないというような、「冷徹」と「熱狂」の中間をうまく表現している。

ピッチカートにふくよかな響きがあるヴァイオリニストは信用できる、というのが私の持論だが、第3楽章の冒頭部で、正しくそんな安心感を与えたルセヴ。第1楽章でもそうだが、楽曲に込められたバッハへのオマージュは、剥き出しには表現しない。第4楽章は、音を奏でるというよりは、会話を写し取るような演奏だった。その点で、ショパンの変ロ短調ソナタの終楽章を思い出した(ショパンは右手と左手が会話するといった)が、こうした書法には、「ヴァイオリンは語る」という著書もある(註:読んだことはない)ジャック・ティボー(この曲を献呈された)との対話が感じられる。演奏は、非常にヴィヴィッドな構造感と、奇蹟のように美しい倍音の響きなどに圧倒された。

そこへいくと、ジョルジュ・エネスコに献呈された第3番は、独特の上品なヴィブラートを使い、情熱的な演奏で知られたという彼との対話が感じられるだろう。イザイ・・・ティボー・・・エネスコと名前を並べるだけでも壮観だが、こんな巨人たちがいたからこそ、イザイのこの6曲の名品が生まれたということは、既に明らかだろう。この曲の演奏は、ティボーをイメージしたナチュラルな演奏が聴けた第2番に対して、より思いきった、アタックの鋭さに特徴があったのではなかろうか。

この2曲の演奏は、名刺代わりのバッハにつづいて印象的なものであり、ルセヴの技巧的な素晴らしさ、特に音色のフィジカルな逞しさや、ほとんど完璧ともいえる音程の著しい精確性、思いきったフレージングのデザインと、それに基づくシャープな造形、そして、楽曲の中心に輝く「魂」を無理なく引き出してくるセンスの良さなどを、遺憾なく味わえるプログラムだった。

【頑丈なドビュッシー】

後半は、中川のピアノが加わる。私の偏見だろうか、ドビュッシーではやはり、彼の響きがやや硬質と思われる点もあった。だが、その後の曲目を振り返ってみると、ルセヴとの信頼関係も良好で、アンコールまで、濃密な演奏がつづいた。

ドビュッシーのソナタでは、かなりガッシリした演奏であったと思う。神秘的で、かつ、甘ったるい叙情性を捨て、思いきって構造の頑丈さにぶつかっていく演奏で、この曲に対する一般的なイメージとはずれるが、瑞々しく若さの溢れる演奏だ。ピアノもヴァイオリンも敢えて引っ掛かりをつくり、鋭角的にフォルムを織り上げていく。それは特に第1楽章で顕著であり、その最後で急に火がついたように盛り上がる部分をヒントとして、組み上げられているように見えた。こうした構造的な浮き上がりを、全体のイメージのなかに織り込んでいくことで、よりしっかりとしたフォルムが掘り下げられていくことを、ルセヴたちは訴えたかったのかもしれない。

こうしてイメージされるドビュッシー晩年は、一般に思われているよりは、かなり旺盛な気力に満ちていたように思われ、時あたかも第一次大戦中だったことをも思い出させる、頑強さをもっていた。・・・などと書きながらプログラムをみてみると、家族が戦争に駆り出されたことなども書いてあった。印象はあとの2楽章にも引き継がれており、とりわけ終楽章に入って燦然と輝く、筋金の入った響きの逞しさと、光と闇の交代の凄まじさは、彼らの演奏できわめて顕著なものだったと報告しておこう。

ルセヴは日本でもよく知られるジェラール・プーレに習っているが、この曲はその父、ガストン・プーレと作曲者によって初演されているのだから、この解釈は意外にも、正統の正統をいくものであるのかもしれない。

【社交界の華やかさを描くサン=サーンス】

つづいては、そのドビュッシーを厳しく批判したサン=サーンスの登場だ。名曲「序奏とロンド・カプリッチオーソ」は、かなりユーモアに満ちた演奏である。

冒頭から美しい音色で釣り込まれるが、それだけでおわっては詰まらない。ルセヴが描き出すのは、社交界を彩る(多分、花形の)男女1組による情事の顛末であったのではなかろうか。序盤は、つれないオトコ(ピアノ)をオンナ(ヴァイオリン)が一方的に追いまわす。ウェットで、すこしばかりコケティッシュな響きで、オンナは感情をむき出しにするが、オトコはあくまでドライだ。このあたり、「オネーギン」を思い出す。ところが、2回目のロンド主題が演奏されたあと、ヴァイオリンとピアノの響きが激しくぶつかる部分で、ようやくオトコが気づく。こうなると、オネーギンとタチアーナの関係は逆さになる。

今度はオネーギンが熱く語り、タチアーナは逃げるというよりも、より強い口調ではね返す。だが、2人の関係は最後に温かく結びつき、ピウ・アレグロによるコーダでとうとう感情を通わせると、2人の愛は実る。いま述べたストーリーにあわせて、弦とピアノの感じを想像してもらえばいい。

【チャイコフスキーと、知られざる作曲家・ヴラディゲロフ】

チャイコフスキーからあとの3曲は、間に拍手を挟んでしまったが、本当は、小さなソナタのように演奏したかったのかもしれない。3つ目の名曲、チャイコフスキー「懐かしい土地の思い出」よりの〈メロディ〉は、中間のメロディを骨太に歌い上げた演奏であるが、全体的には、きっちりとフォルムを守ったきれいな演奏で、その音色の温かさにうっとりする。つづけて、ヴラディゲロフの「ザ・ソング」を緩徐楽章のようにしっとりと弾き、同じ作曲家の「ブルガリア狂詩曲〈ヴァルダル〉」で締める。

最後のラプソディは、バルトークよりもさらに強烈な民俗的な旋律に彩られ、使い得るあらゆる技巧が、その響きのなかに溶けていくように組み込まれている。バルトークら民俗楽派の劣化コピーではなく、その艶やかな昇華としてみられるだろう。そこを、ルセヴの見事なヴァイオリンが中央突破していくのだが、根太い旋律を歌うときのセンスのいい運び、そして、上品なファルセットや、囁きかけるような弱音の響きなど、その素材を鮮やかに示しながら、独特の共感を示すいい演奏だった。中川のほうも決して身近な作曲家ではないはずなのに、ずっと以前から「愛して」いたように、柔らかい音色を示したのは驚きだった。

このヴラディゲロフは1899年に生まれ、1978年に歿した、ブルガリアの作曲家だという。作曲家としてだけではなく、ピアニストの系譜にもあらわれ、かのアレクシス・ワイゼンベルクの師匠が彼に当たるということだ。是非、憶えておきたい。

【今回のプログラミング】

ぱっと見では名曲が並ぶコンサートだが、よくよく見つめなおしてみると、なかなかに深みのあるプログラムでもあった。

まず、今回の曲目は、19世紀後半から20世紀にかけて活躍した大ヴァイオリニストに捧げられ、初演された作品が多い。まず、イザイの2曲は、ティボーとエネスコ。サン=サーンスの作品は、サラサーテ。そして、ドビュッシーの作品は、ガストン・プーレによる初演である。これら歴史を彩る名手たちの腕とこころを、味わい尽くしていくためのプログラムが並んだといえる。

さらに、ルセヴはそこに、自らのルーツをうまく組み合わせていった。ブルガリアに落ちた種が、フランスの畑で育てられたのだ。イザイやエネスコはフランス人ではなく、祖国への想いを捨てなかったが、いまでは、ほぼフランスの音楽家としてイメージされている。それはどこか、ルセヴの境遇にも似ている。そして、フランス音楽の中心にいるサン=サーンスやドビュッシーに敬意を表し、さらに祖国・ブルガリアの作曲家、ヴラディゲロフを我々に紹介する。

もちろん、こうした曲目を演奏することは、「クラシック」の受け継ぐフォルムを伝えるという点でも重要だ。ガストン・プーレの孫弟子としてのルセヴの存在については、既に書いたが、パリ・コンセルヴァトワールで教授を務めるという立場からも、今回、演奏されたような作曲家に対するインテリジェンスというものは、有形・無形のものを含めて限りないものと思われる。それらを最良の環境で受け継ぎ、今後は、自らがそれを後進に伝えていこうとする若者が、そこに立っていたのだ。

【まとめ】

そうしたウンチクを全部忘れたとしても、今度のリサイタルで、聴き手を完全に酔わせたルセヴのテクニックの素晴らしさは、先日のチュマチェンコのリサイタルと同様、印象的なものとなったはずだ。こうした不世出のヴァイオリニストを、コンクールというきっかけで、世界に先駆けて知ることができた我々は、本当にラッキーだったといえるだろう。だが、その逸材がいま日本海を隔てた向こう側の、韓国のオケでコンマスをしているとは、何たる皮肉だろうか(そのうちに、ソウル・フィルも聴きにいこう!)。ルセヴは1stヴァイオリンとしては、かなり逞しいバスの響きをもっている。こういうコンマスがいたら、それこそ頼りがいがあるというものだ。

かなりアジテートした文章になったが、それもリサイタルの昂揚からと思って、ご寛恕いただきたい。チュマチェンコにつづき、なんとも刺激的なヴァイオリンを聴いたのだ!

【プログラム】 2009年3月1日

1,バッハ シャコンヌ〜「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」
2,イザイ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番
3,イザイ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番
4、ドビュッシー ヴァイオリン・ソナタ
5,サン=サーンス 序奏とロンド・カプリッチオーソ
6、チャイコフスキー メロディ〜「懐かしい土地の思い出」
7,ヴラディゲロフ ザ・ソング
8,ヴラディゲロフ ブルガリア狂詩曲〈ヴァルダル〉

 pf:中川 賢一

 於:白寿ホール
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