2009/2/24

エルデーディ弦楽四重奏団 ハイドン アポーニー四重奏曲U @第一生命ホール 2/22  室内楽

エルデーディ弦楽四重奏団(エルデーディSQ)は、蒲生克郷、花崎淳生、桐山建志、花崎薫によるクァルテット。蒲生は藝大のオーケストラのコンマス、花崎(淳)は古典四重奏団やアンサンブルBWVのメンバー、桐山は古楽アンサンブルなどでお馴染み、花崎(薫)は新日本フィルの首席として、また、現代音楽のアンサンブルや室内楽でも活躍する。結成から、20周年を迎えるクァルテットだ。第一生命ホールのシリーズで、ハイドンのアポーニー・セットを演奏した。

ただ、このグループとは、こころが通じあわなかった。クァルテットというのは、オケよりも声楽にちかく、歌い方や「声」そのものに対する、聴き手のセンスを試すところがある。もしも、このクァルテットが一流と呼ばれるのであれば、私のセンスは、まだ鈍重ということになるのかもしれない。

それにしても、起伏がなさすぎるのではなかろうか。ハイドンとは、もともとこういうものなのであろうか。しかし、ブリュッヘンの演奏を聴いてわかるような、ハイドンの息づかい、氏のいうところの楽譜に示されない「ルール」を、このクァルテットの演奏から感じ取ることはできなかった。もちろん、オケと室内楽はちがうだろう。だが、室内楽ならば、オケよりも、そのような「ルール」はより表現しやすいにちがいない。エルデーディSQの演奏の特徴は、言ってみれば、そのような「ルール」を排除し、響きの骨組みをむき出しにするものといえるだろう。

確かに、20年もやっているだけに、クァルテットとしての「声」はあり、それはすこぶる安心感のある「声」だ。特に、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのつくる低音の固めはすこぶる特徴的であって、あとは華やかな第1ヴァイオリンの艶やかな響きさえあれば、何の問題もなく魅力的なのかも知れぬ。だが、私からいわせれば、彼らの演奏は、削りすぎて引っ掛かりのなくなったオルゴール板のようなものだ。リズムも、響きの質も単調で、ぱっと聴く分には魅力的でも、長く聴いていると、どうしても飽きが来る。

そのなかでは、第74番「騎手」の演奏が、もっとも優れている。だが、それは楽曲の良さに助けられているのであり、いかにハイドンが、この作品に見るも鮮やかな装飾を施したかについて、明らかにするだけだ。それは、クァルテットの手柄ではない。むしろ、第72番のような作品において、クァルテットの質が確かめられるだろう。そこでは、第1楽章で、第1ヴァイオリンがあまりにも音程を外しすぎたという欠点に目をつぶるとしても、これといって目新しい・・・否、さして目立たぬにしても、ぴりっと効いたわさびのような良さを、私は指摘することができないのだ。

2日もして、ゆるゆると書き出したのには、このような理由があった。私は、プロのような楽識がなく、できれば音楽家に共感したいし、そのやり方に歩み寄っていきたい。今回、ハイドンのクァルテットの名前を冠し、その演奏に定評もあり、また、その深い見識は明らかな人たちの演奏を聴いたわけだが、それにもかかわらず、エルデーディSQと私の間に渡るべき橋が見当たらないということは、やはり、私のほうの経験があまりに貧弱であるという風に思うしかないのだろう。

唯一の救いは、桐山建志が演奏するヴィオラの深い音色が、いつもゆったりと響いてきたことだった。1本1本の楽器の響きは、それぞれに好みのものだ。しかし、それが合わさったときに、十分に輝かないように感じられるというのも不思議なことだ。とにかく、今回のコンサートは残念なものだった。
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2009/2/22

シナイスキー 幻想交響曲 読響 芸劇マチネー 2/21  オーケストラ

読売日本交響楽団の2月定期は、ヴァシリー・シナイスキーが中心である。シナイスキーは、コンドラシンやスヴェトラーノフのあとを受けて、ソヴィエト崩壊後のロシア国内で頑張った指揮者であるが、既に60を越えたベテランといえる。先週のあたまはロシア・プロを振ったが、この週末は意表をつくフランスものであった。ただ、今回、取り上げられた作品は幅広い解釈を許容し、フランスの音色と、ドイツの構造がしっかり噛みあったものが選ばれている。

【シナイスキーの特徴】

最初に演奏された、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」からして、シナイスキーがとにかく細かい作業を好み、音楽のモザイク画を、チマチマと粘りづよく組み上げていく指揮者であることがよくわかった。この曲では、主題の発展をコミカルなストーリーに嵌め込みながら、きれいに追っていくとともに、大掴みなイメージを大事にして、流れよく音楽を運ぶ。音色系という感じではないが、それでも響きに表情がある。最後、屋根から滴り落ちる滴の音まで、丁寧に描きこんでいた。

中プロのサン=サーンスは後回しにして、メインとなるベルリオーズの「幻想交響曲」は、かなりあざとい演奏である。フォルムに対する独特のこだわりがあり、余裕がある場面では、ボウイングや予備動作まできっちり指示出しをして、煩いくらいの指揮者だった。外向的で、見かけからいってもエネルギーが漲っているような人物だが、音楽はかなりナイーヴという点でいうと、やはりラザレフに雰囲気が似ている。しかし、ラザレフなどと比べても、その音楽づくりはかなり人工的な感じを受ける。

例えば、第4楽章で活躍するティンパニーは、中央奥から上手側に1セットずつ並べられたうえ、左右脇にも1個ずつ置かれ、音響効果にも配慮をした。第1楽章から、独特のフレージング。少しゴツゴツした響き。イタリー的な響きを追究した第2楽章。響きが明るいのに加えて、ワルツのリズム遊びはまるでシュトラウス・ファミリーだ。弦だけでなく、クラリネットなどの木管にも、リズムの遊びを加える。全体を通して響きは明るめだが、むやみに暗い響きにはしたくないという、指揮者の意図が窺える。

第5楽章の鐘の叩き方はいろいろとこだわる指揮者が多いが、それこそ、その人の生まれ育った地域の鐘の音が、魂に刻み込まれているのだろう。そこへいくと、シナイスキーのは意図的だ。彼は通常よりも手ごたえのある響きを要求し、表の響きとの配合もよく考え、素晴らしい効果を上げている。最初の鐘は、誰かがいたずらしたような響きだった。遠くから、正しい響きが聴こえてくる。それらは少しずつ混ぜこぜになり、区別がつかなくなるイロニーを含む。

【重ね合わせられた殺人】

特に面白かったのは、第3楽章から第4楽章だ。ほとんどの場合は、第3楽章に、既に殺人を匂わせる場面が来る。その行為は、ティンパニーの雷鳴でかき消されるが、パウゼなどを巧みに使い、それがあったことを暗示するのが常道だ。しかし、シナイスキーはそれをしない。そして、第4楽章で2つ・・・否、それ以上の「殺人」を重ねてきたのだ。まるで断頭台へ引かれていく「ある芸術家」への死刑執行が、既におこなわれた妻への凶行と重ね合わせられる印象を受けた。映画のように互いにフラッシュバックしながら、少しずつ進行していく場面は緊張感に満ちみちている。然るに、途中からは、それだけで済まなくなる。問題は、ティンパニの叩かせ方ではなかろうか。

シナイスキーはティンパニに表れる強打を、すべて手ごたえのあるものにすることで、数えきれないほどの殺人を演出したのだ。だが、それらは結局、すべてがダミーであって、いちばん最後に打楽器と弦でザクッとなるのだけが、本物だったようにも思える。第4楽章の最後のファンファーレは、妙にリアリティのある、フェスティーボな響きを選ぶ。それは正に、すべてが見せ物であったというようなイロニーを感じさせる。

【幻想交響曲は、当時のロックンロール】

これを受けて、終楽章は、本当に厭らしい音楽に仕上がっている。もともとワルプルギスの夜の倒錯的な空騒ぎではあるが、ここでは、魔女たちの饗宴を借りて、ベルリオーズはやりたい放題になっている。バッハやベートーベンでさえ、ベルリオーズは笑いものにする・・・とシナイスキーは解釈したのか。対位法的な部分は歪めに歪め、ベートーベンのシンフォニーによくあるような管の響きをぶっ潰して演奏するのだ。もちろん、グレゴリオ聖歌をあやしく歪めた主題の使い方は有名だが、それだけではなく、この作品に込められた底意地の悪さを、これでもかと匂わせるのだ。

そう考えてみると、この曲は本当にひとの悪いイロニーに満ちている。第2楽章のイタリー風の音楽をはじめ、「ローマ大賞」を皮肉るような部分は数多いし、それまでの音楽的伝統が一気に踏みつけにされているのが、あちらこちらの場面に現れているとわかるだろう。ソナタ形式や、交響曲というものについても、ベルリオーズの批判は及んでいる。「幻想交響曲」が正に自己否定的な、あるいは、「クラシック」否定的な激しいロックンロール的存在だったことが、これでよくわかるというものだ。

【演奏について】

演奏は悪くないが、やや腑に落ちないものを感じた。弦管ともに高い集中力を出しており、良い練習がおこなわれたことが窺われるが、それにも関わらず、共感が少なかった。それはシナイスキー独特の音楽づくりが、本当に良いものかどうかわからないということもあるにはあるが、もっと大きなことは、あまりに細かいところにこだわりすぎるあまり、ベースとしてあるべき響きが薄くなってしまったことに尽きる。だが、(私が)解釈に迷ったこともあり、もういちど聴いてみないと、その印象が本当に正しいものであったかどうか、自信がもてない(だが、その機会はない)。少なくとも好みのサウンドではなかったので、自分のなかで、やや否定的なバイアスがかかっているのかもしれない。

【ヴァシリエヴァのサン=サーンス】

サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番のソリストは、いま、欧州でもっとも注目される若手チェリストである、タチアナ・ヴァシリエヴァだ。彼女については、こういうエピソードが知られている。ロストロポーヴィチの名前を冠するコンクールで演奏したときのこと、あまりにもヴィブラートを使わない演奏に、審査委員長の御大が怒りだし、演奏を止めさせようとしていきり立った。それを他の審査員たちが宥め、結局、その大会で彼女は優勝したものの、ロストロポーヴィチはなおも説教をぶったというのである。

アンコールのバッハはそれを思わせる演奏だったが、コンチェルトはロストロポーヴィチの説教が、いまも効いていることを示している。つまり、非常に豊かなヴィブラートをあしらったコンチェルトの演奏は、甚だ人工的な(ここのところ、私はこの形容詞をよく使っている)美しさをもつ。中音域の音色は深く、艶やかで、その魅力的な声をベースに、全体をコーティングした演奏だ。なお、シナイスキーはコンチェルトでは驚くような紳士で、この類稀なるチェリストの創意工夫に満ちた響きを楽しませるために、かなり響きを刈り込んだ形である。特に、第2楽章の最弱奏は耳を惹いた。

自ら流れをつくる能動性があり、例えば、以前に批判したサラ・チャンなどと比べると、技巧に溺れない表現の実質がある。高音の伸びなどに課題はあるが、これだけ見せ場の多い曲であっても、外した音はほんの僅か、しかもファルセットの部分だけで、もちろん、テクニック的にも物凄いものがある。才色兼備の大きな才能であり、フォル・ジュルネでも注目したい。

【プログラム】 2009年2月21日

1、デュカス 交響詩「魔法使いの弟子」
2、サン=サーンス チェロ協奏曲第1番
 (vc:タチアナ・ヴァシリエヴァ)
3、ベルリオーズ 幻想交響曲

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場
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