2009/1/10

下野竜也 メンデルスゾーン生誕200年記念プログラムT 読響 芸劇マチネー 1/10  オーケストラ

読売日本交響楽団は、今後、シーズンをまたぐ4回のシリーズで、今年生誕200年のアニヴァーサリーを迎えるメンデルスゾーンの交響曲を全曲演奏する計画である。3番は尾高が担当するが、そのほかの曲目は、すべて下野竜也の指揮となる。今回がそのシリーズの第1回目となるが、4番「イタリア」をメインに、オール・メンデルスゾーン・プログラムとなった。強力な援軍として、定年退職したティンパニーの菅原淳が馳せ参じていた。コンマスは、藤原浜雄。

メインの「イタリア」、聴いていて、いつものヤツと随分ちがう。フレージングやアーティキュレーション、楽曲の感じが全然ちがうのだ。「ちょっと楽譜を持ってくるから、あと3回ぐらいやってみて!」という感じで、よく知っている曲だけに、戸惑いは大きかった。あとでプログラムを見てみると、歿後に遺作として出版された改訂版による演奏だというので、さもありなむというところ。初演の5年後に改訂版による初演がおこなわれたあとも、メンデルスゾーンはこの遺稿を手もとに置き、死ぬまで手放さずに少しずつ直していたらしい。

私としても、これを耳にするのは初めてかもしれない。だが、そういえば、ガーディナーの録音にも入っていた記憶があるが、同じものだろうか。それにしても、通常版に勝る印象はなかったものであるが・・・。もちろん、名曲として認知される初演版と比べては、分が悪いかもしれない。しかし、弦の煌くような響きを、管楽器が豪勢に盛り上げるような初演版と比べ、改訂版は両者がより台頭に組み合って、低音の重みを加えながら、ぐっと構造を持ち上げるような形になっており、これはこれで魅力的な面もある。ニックネームの「イタリア」を思わせる華やかさから、彼の活躍したドイツの土くささが浮かび、匂っている。

演奏はアンサンブルに一体感があり、こうした特徴を浮かび上がらせる木管の繊細な響き、金管の長閑さ、コントラバスを中心とした低音弦のどっしたとした重厚さが聴きどころとなった。また、両端楽章では、菅原のティンパニーが第2の指揮者の役割を果たしており、これならば、指揮者もこころ強いだろう。オケを引退して衰えるどころか、ますます切れ味を増す菅原のティンパニーはさすがである。最初の「トランペット序曲」でも、正月明けでやや切れ味の鈍いアンサンブルに喝を入れるように、最後に菅原のティンパニーが轟音を吐き、みんなの目を覚まさせたのが印象に残った。

シンフォニーに戻るが、第4楽章「プレスト」の扱いは面白かった。全体的には手綱を締めた感じで、速さだけで押しきるものではない。遅い/速いを組み合わせてはいるが、それは恣意的な響きとフォルムの悪戯ではない。私は、こんな像をイメージした。まず、真ん中に人がひとり。これが我々だ。それをぐるりと取り巻くようにして、円形に幕が下ろされている。指揮者=下野が、部分部分をめくっていくと、その外で急速にまわる像が走っているのが見える。あちらをちらり、こちらをちらり。さっと開くと、目がまわるほどのプレスト。慌てて、幕を下ろす。再びめくる。あちら、こちら・・・。最後、幕をさっとあげて、クライマックスの激しい踊り。しまいのまとめ方に、改訂の効果が顕著である。終わったあとは、私同様、やや戸惑い気味のフロアーの反応だが、「なんだ、これ?」というよりは、「ほう、なるほど!」という感じだったろうか。

中プロのコンチェルトは小野明子をヴァイオリン独奏に、ホ短調の有名なほうの協奏曲を演奏した。小野は、構造がどうだのテクニックがどうだのというよりは、まず、楽器を鳴らすことのスペシャリストといえそうだ。彼女の前に10本の異なる銘器を置き、次々に弾いてもらったならば、なんと素晴らしいエンターテイメントになるだろうかと想像するほど。1772年製、G.B.クァダニーニの芳醇な音色をこれでもかと味わわせてくれて、上質なワインをこころいくまで堪能した気分だ。特に、第2楽章のつんと伸びる音色の美しさは、チュマチェンコともまたちがい、どちらかというとモダンな味わいがあった。

さすがに、高名なユーディ・メニューインの直弟子にして、ロンドンのメニューイン音楽院で教授を務めるというだけのことはある。ただし、できれば協奏曲というよりは、ソロや室内楽で聴きたい人だ。コンチェルトでは、オケとの音色に差があって互いにギクシャクするし、フォルムのつくり方もユニヴァーサルとはいえない。第1楽章の急速楽句ではフレージングの曖昧さが目立つし、こうした曲目については弾き込みも十分ではないのだろうか。このレヴェルの奏者では信じられないような、細かい弾き損じがいやに耳につくのだ。

しかし、特に第2楽章以降は、味のある演奏だったと思う。来月のチュマチェンコも聴いて、比べてみると面白いだろう。

アンコールには、10月のシリーズ第4弾で演奏する5番「宗教改革」の第3楽章、ト短調によるアンダンテが演奏されたが、美しく丁寧なアンサンブルで、深みのある良い演奏だったので、これは期待ができそうだ。ただの「次回予告」ではなく、このシリーズがメンデルスゾーンの表面的な部分だけではなく、こころの奥底まで迫っていくものであることを宣言する、下野らしく謙虚な挑戦状と受け取れた。

【プログラム】 2008年1月10日

オール・メンデルスゾーン・プログラム
1、トランペット序曲
2、ヴァイオリン協奏曲 ホ短調
 (vn:小野 明子)
3、交響曲第4番「イタリア」

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:東京芸術劇場
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2009/1/2

ベートーベン 弦楽四重奏曲[8曲]演奏会 @東京文化会館 12/31  演奏会

大晦日の東京文化会館で、ベートーベンの交響曲全曲演奏会がおこなわれる隣で、同じくベートーベンの室内楽の演奏会が開かれていることは知っていた。今回、はじめて聴いてみて、イヴェントとしてはシンフォニーのほうがパイオニアであることは確かだが、もっともベートーベンらしさを味わえるコンサートは、ここではないかという感じがした。

今回、特に最初のクァルテット・エクセルシオ(以下、エク)の演奏を聴いていて思ったのだが、ベートーベンの弦楽四重奏曲というのは、掘っても掘っても掘り尽くせない鉱山のようなものだ。どれだけ厳しく鍛練し、思いきりぶつかっていっても、跳ね返されてしまう。ある程度のところで妥協すれば、きれいな演奏ができる。だが、表現を諦めず、高みを目指せば目指すほど、標高は上がっていく。それはどの分野でも究極的には同じだが、本質的に、弦楽四重奏はその要素が強いように思われるのだ。ある意味、自分でレヴェルが決められるのだが、低いレヴェルを設定すれば、それはたちまち聴き手にわかってしまう。こんな厳しい分野はない。

【弦楽四重奏というよりは小さなオケ】

例えば、この日のトリを飾ったルートヴィヒ弦楽四重奏団は、そんな弊に陥っている。日本ではもっとも暮らしやすいクァルテットのスタイルである、オケのコンマス&首席クァルテットの中では、最高峰の技術を誇る小森田巧、長原幸太、鈴木康浩、山本祐之介の4人が組んだユニットは初体験だが、まず、その比類ない調和の美しさについて、最初の1曲くらいならば、私も良いと思っただろう。実際、 op.131 (第14番)を演奏した段階では、解散したフェルメール・クァルテットを思い出す、透明な音色の美しさがあると感心した。だが、今回はベートーベンばかり3曲ということもあって、すこしずつ飽きが来てしまう。

このクァルテットを聴いていて思ったことは、「弦楽四重奏」というより、「小さなオケ」という不思議な感じだった。1本1本のポテンシャルが非常に高く、際立っているのだが、かといって、それは個性にはならない。ヴィブラートのかけ方や響きの作り方など、演奏の統一感というのは比類ないのに、それらはクァルテットとしての「声」にはなっていない。こうした矛盾した現象は、どうして起きるのであろうか。

それはこの演奏が、ある意味、妥協の産物だからにちがいない。非常に高いレヴェルにおいてではあるが、彼らはギリギリのところで互いが譲ることを知っている。否、知りすぎている。また、これにすこし関係するのだが、彼らは楽曲の構造さえ、必要ならばすこし広げて演奏している。ピアノで例えると、左手をベースに右手をルバートするとき、大きな表現をするために右手が枠どおりに戻って来れないのを見越して、左手のテンポをなだらかにずらすことに似ている。エクや古典四重奏団は、それだけは絶対にやらないだろう。

もしもオケの演奏だったら、こういうことは必要不可欠なのかもれない。しかし、弦楽四重奏でこれをやるとなると、かなり喰い足りないものを感じさせるのだ。これで完璧にやれば、それなりに響きは整い、美しく聴こえるので、ある程度の賞賛は受けられるだろう。だが、私は思った。自分は、オケの演奏が聴きたいと思って、ここに来たのではない。室内楽が聴きたいのだ。彼らの演奏は、小さいオケの演奏にすぎないのではないか・・・。

誤解してほしくないのは、私がルートヴィヒ弦楽四重奏団の演奏にまったく共鳴できなかったということではない。だが、彼らが本当に弦楽四重奏においても一流の音楽家たり得たいと望むならば、この表現は限界があるということだ。エクの演奏を聴いているときとは反対に、私はベートーベンの曲が簡単なように感じた。それは取りも直さず、彼らの能力の高さを証明するものであるが、エクの能力だって、決して彼らに劣るものではない。

それがずっと簡単に聴こえたのは、後期の作品が「ラズモフスキー・セット」よりも、シンプルで、無駄のない構造を持っているせいであろうか。それもあるにはあるが、やはり、この辺でOKという目標設定の甘さがあるのは否めないことではなかろうか。

【古典四重奏団の光と影】

その点でいうと、古典四重奏団(以下、QC)はエク同様、飽くなきまでに表現の至高性へ到達しようとする、強い意志がある。そして、エクよりも少しだけ先輩だということもあって、その独特の「声」は第一声ですぐに感じとれるほどだった。ガット弦ということもあるだろうが、エクのつんと伸びる声と比べると、QCはよりまろやかで、温かみのある響きが自慢である。

この日は、大フーガ付の op.130 (第13番/初演時の形で演奏)の演奏において、最後の大フーガの部分を除き、きわめて好調なパフォーマンスに驚かされた。特に、常々、このアンサンブルにおいて弱すぎると思っていたチェロの音色が、際立って美しく、全体を支える役割をこなしていたことが大きい。バッハにも造詣の深い田崎のチェロは、この日、バッハのコラールを思わせる無駄のない低音を、しっかりと象って印象的だ。

QCは、エクと比べるとアーティキュレーションがシンプルで、焦点が合いやすいのが特徴だが、この日の田崎のチェロは、そういったアンサンブルのなかで、薄味ながらも、しっかりとしたアクセントを成していた。いちいち細かくは書かないが、既に述べたようにわかりやすいアーティキュレーション、パート間の受け渡しの妙などに、一日の長がある。ただし、これもガット弦の難しさなのかもしれないが、大フーガの部分をはじめ、ときどき音程が著しく悪くなるのは、やはり気になるところだ。

【エクは好調じゃないが、やはりいい!】

そこへいくと、贔屓目ではないが、やはりエクの演奏がいちばんだった。この日は、「ラズモフスキー・セット」を立て続けに演奏するへヴィーな構成で、しかも、信じられないことに、op.59-1 と op.59-2 は、いったん袖に戻るだけで、つづけて演奏するという苛酷な条件だった。この2曲をあわせると、90分弱になるはずだから、その大変さは素人の私でもわかる。だが、そういうなかで演奏した「ラズモフスキー第2番」がもっとも素晴らしかったというところに、エクの凄さ、それから若さを感じる。

彼らの演奏は、ある意味では不器用ともとれるぐらい、真っすぐな表現だ。自分のやりたいことに妥協がなく、極限まで突き詰めていこうとする。op.59-1 でブンブン鳴っていた大友のチェロをみれば、それはわかるだろう。急速楽章の揺るぎない展開と、切れ味の鋭さ。1本1本がというよりも、お互いのアンガージュマンの思いきりがよく、表現に迷いがない。

だが、それは一方で、老獪なベートーベンの目からみれば、「まだまだ、青い!」ということになるのかもしれない。op.59-1 ロシア主題によるアレグロや、op.59-3 のアレグロ・モルト(ともに終楽章)では、そうしたチャレンジは、見事にはね返されていた感もあった。ズンズン打ち込んでいけばいくほど、ひらりと体をかわされるようで、こういうところに、我々はベートーベンの書法の厳しさを知る。この日は、山田・吉田(2nd・va)の内声がよく、西野のリードがやや不安定なのが、そうした印象を強めたかもしれない。

だが、守って「標高を下げる」よりは、はるかにエキサイティングなチャレンジであったのではなかろうか。録音すれば、すこし不満の残るものだったかもしれないが、そこもまた生演奏の醍醐味で、エクの挑戦は高いところに設定された目標を物語るものであり、十分に聴き手を味方につけるものであったと思う。臆面もなく、唯一、注文をつけるとすれば、この日のセットでは頻繁に表れたギャロップのような部分での表現が直線的で、起伏のないものになっていた点だ。

内声的な部分における表現の奥行きは、この日のエクの演奏の特徴でもあった。こころなしテンポを控え、じっくりと響きを生かしていこうという表現意図は、通常、セットの中でも内声的といわれる op.59-2 よりも、他の2曲で顕著であった。むしろ、op.59-2 では、響きの美しさを素直に聴かせることで、全体の響きを見渡しよく表現している。

この日は、必ずしも好調とはいえなかったと思う。しかし、そのなかでも、妥協のない表現に執念を傾ける4人の想いは、ほかの聴き手にも伝わったはずだ。

【まとめ】

本当は、楽曲それぞれの面白みや、各々の曲がそこで書かれたことの意義について考え、それをクァルテットがどう解釈し、演奏していったかについて述べたいところだが、私にはその能力が十分でない。言い訳がましいことを書かせていただくならば、弦楽四重奏においてはやはり、楽曲そのものもさることながら、クァルテットの魅力がすなわち楽曲の魅力であるという逆転現象を、ほかのスタイル(シンフォニーやピアノ・ソナタ)よりもはるかに広く、許容するように思うのだ。それゆえ今回は、楽曲に対するクァルテットの表現というよりも、演奏を通して感じ取られたクァルテットそのものへの記述を中心とした。

その意味でも、このプロジェクトは、隣のシンフォニーよりも長く続ける意義が大きいように思う。以前は、澤クァルテットが入っていたようだが、メンバーを変えると、ガラリと様相が変わってくるだろうし、同じクァルテットが同じ曲を弾くとしても、シンフォニーよりはるかに上積みや変化の感じられるものとなるだろうからである。

来年、もしもこのイヴェントがあるとすれば、私はこちらを選ぶだろう。

【プログラム】 2009年1月1日

○クァルテット・エクセルシオ
1、弦楽四重奏曲第7番 op.59-1 「ラズモフスキー第1番」
2、弦楽四重奏曲第8番 op.59-2 「ラズモフスキー第2番」
3、弦楽四重奏曲第9番 op.59-3 「ラズモフスキー第3番」

○古典四重奏団
4、弦楽四重奏曲第12番 op.127
5、弦楽四重奏曲第13番 op.130 (初演版大フーガ付)

○ルートヴィヒ弦楽四重奏団
6、弦楽四重奏曲第14番 op.131
7、弦楽四重奏曲第15番 op.132
8、弦楽四重奏曲第16番 op.135

 於:東京文化会館(小ホール)
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