2008/12/4

椎名林檎 10周年記念スペシャル・ライブ 11/30 & 蜷川実花展 A  演奏会

さて、ここでおもむろに、蜷川実花さんの写真展に話を移す。私がこれを鑑賞したのは、11月29日、つまり、「ル・ジュルナル・ド・ショパン」の合間であった。マルタン氏のイベントはおわったが、蜷川さんの写真展はまだしばらく続く。

【蜷川実花のぼかし】

椎名林檎と蜷川実花は、蜷川さんの監督した映画「さくらん」(土屋アンナ主演)で、椎名が音楽を担当した繋がりがある。その鑑賞記は、このブログにも残っている。映画として凄い出来ではないかもしれないが、蜷川&椎名にとっては、それこそ愛情を注ぎ込んだ作品だろう。特に、いのちを中心に据えたテーマは、私としても共感するところがあった。さて、その映画を別にすれば、私は蜷川さんについて、さほど深く知っているわけではない。この写真展でみたものが、ほとんど初めてであると言ってもいい。

蜷川実花・・・その姓からわかるように、有名な演劇人、蜷川幸雄さんの令嬢であるが、目下、そのことは無視してもかまわないだろう。彼女の写真がどのように評価されているのかは知らないが、私は、ぼかしの大胆さに目を細めた。

花やそれに寄りつく虫たちを撮った2、3枚の写真をみて、私はすぐに、蜷川さんの写真の見方を理解する(と思った)。まず、我々は蜷川のつくった画面に、焦点を求めねばならない。焦点の合っている部分と合っていない部分、それらを見分けるのは容易だけども、そのためには、全体をよく見ることが必要だ。焦点の合っている部分には、撮影者の視線が感じられる。まず、その目のつけどころが面白い。

【いのちを撮る写真家】

多くの人は、その大胆なまでの色彩感、そして、そのポップなテイストについて、語りたいと思うだろう。私もご多分にもれないけれど、それは、(生き)ものに宿るいのちの輝きを積極的に捉えていこうとする、蜷川さんの作品の、もっとも表出的な特徴を述べているにすぎない。彼女が一体、何を撮ろうとしているのか、よく考えてみよう。

例えば、すこしエロティックな感じさえする、めしべの写真について。こんなものをアップで撮影しようとする発想が、まず凄いのは言うまでもない。さて、こちらに抱きついてくるように、手を広げるように迫ってくる、赤いめしべのイメージは、厭でも注意をひく。めしべの機能を考えても、そこにある種のエロティシズムが出てくるのは仕方がないが、幸い、緑と赤の爽やかなコントラストが、画面を美しくみせる。

ところで、このめしべたちはどうして、このように、まるで写真家に近づいてくる恋人のように、嬉しそうにファインダーに迫ってきているのであろうか。それは多分、虫たちに受粉してもらうために、なるべく花びらから突き出ていくためである。この赤い色も、虫たちを誘い寄せるのに必要な色合いなのだろう。だかあ、上へ上へと、一生懸命に背を伸ばしている。そこにお邪魔して、蜷川さんが一枚撮らせてもらったのが、この写真なのである。蜷川さんはこのぴんと張り詰めためしべの緊張に、美しい花のすべてを支える、いのちの輝きが詰まっていることに気づいた。めしべの元気な伸びは、生きようとする花の意志そのものなのだ。

目につきやすい、鮮やかな花の色彩感もまた、このような生命感に結びついている。花は、なぜ色をつけるのか。それは、他よりも目立って、虫たちを誘い寄せたいという本能によっているのだ。あるいは、自分にさわると痛い目に遭う・・・という毒気の表現である(例えば、紫色はアントシアニンのカラーで、虫たちには毒となる)。蜷川さんは、その意志を拾うかのように、花びらのきれいな襞を大きく撮り、その鮮やかさを引き立てる。

虫たちの来訪は、そうした花々の願いが通じた大事なときである。ピンクの花の茎にぶら下がり、鎌を振るうカマキリの写真は、いっぺんに2つのいのち、2つの喜びを浮かび上がらせる。橙色の花の中心部に辿り着かんとするコガネムシが、よいしょと腕を伸ばす写真。この奇跡の瞬間を捉えた一枚も、同様に花と虫の仲睦まじきことを教える。それは、知的に把握されたものというよりも、ずっと素直な印象によるものである。

そこに、先程のぼかしが重なる。ぼかしには、いくつかの意味がありそうだが、もっとも重要な効果は、矛盾した2つのことなのである。つまり、焦点/非焦点という境界をつくることが、そのひとつだ。しかし、一方で、このばかしがあるために、私たちは、花のもつひとつひとつの器官、花と空間、花と虫などの部分を、部分ごとに分けようとしないということも言えるのである。

このように、言うこともできる。蜷川さんは写真家として、焦点をつけることでひとつの見解を出す。だが、その「目」は徐々に写真の内側、その大部分を占めるぼけのなかに溶け込んでいき、目を凝らせば凝らすほど、見る人の自由を許すようになる。写真家の視線に身を任せるか、そうではなく、敢えてぼけている部分に真実を見出すかは、見るものの勝手だ。そして、そのことを蜷川さんは許容する。

【押しつけがましくない写真】

蜷川実花さんの写真は、いかようにも見ることができる。例えば、’Travels’ に展示された、泳いでいる男の子の写真。不思議なことに、男の子にピントは合っていない。確か、画面の斜め下の部分で、ぽつんと焦点が合っていたはずだ。あなたなら、どこをみるだろうか。私はどうしたって、この男の子を中心に見ないわけにはいかないが、それではどうしても、写真全体のイメージを捉えきれない。結局のところ、この画像を「部分」で捉えることの愚かしさに気づいたのである。こういう写真は、見るものによって、まったく解釈がことなる。

傑作は、赤いモニュメントの真ん中に丸い穴が開いており、そこから、向こうの壁に書かれた ’me’ の文字がみえる。モニュメントの前には、その穴も潜れそうな男の子がひとり、という写真。多分、この写真で真にピントが合っている部分は、中央にくり抜かれたように見える穴の、内側の部分だけだ。’me’ という文字も、男の子も、少しだけぼやけている。赤いモニュメントの全体は単純な一色で、起伏もないので、まるでピントが合っているように見えるが、本当はぼやけているのではないか。

この写真は、相当に作為的である。にもかかわらず、写真家の視線に縛りつけられる必要のない私たちは、その部分を避けて、どこを見てもいい。こんな自由な写真はない。お望みならば、本来、ピントは合っていないけれど、にもかかわらず、すこぶる据わりのいい赤のモニュメントだけを愉しむことも可能だ。そうしても、先程の絵で敢えて男の子に注目したときよりも、目は疲れない。

【発想の面白さ】

発想の面白さは随所に感じるが、もっとも印象的だった一枚がある。それは、苺の写真である。だが、まだ熟れていない(もしくは、熟れすぎている)。あの鮮やかな、苺の赤い色は失われているが、その分、瑞々しくピンクに染まった果肉。その表面には、深い茶色に色づいた種たちが並んでいる。この全体のコントラストが、苺の生命感を引き立てている。とりわけ、種たちはひとつひとつがピチピチと弾けるような、張りつめたふくらみをもっており、まるで、苺のうえを歩き回る虫たちのようにも見える。

ある意味ではグロテスクでもあるし、エロティックな面もなくはない。だが、そうしたイメージを抜けて、ダイレクトに浮かび上がってくるのは、この苺や種たちのもつ、生きるエネルギーだ。

彼女のこだわる金魚の写真にも、まるで生きた精子を顕微鏡で覗いたかのような、金魚の赤ちゃんたちの写真がある。赤く、鮮やかなあたまの部分。それよりも少し薄いオレンジの胴体が、ひらりと舞っている。水泡おつくる光の反射が、神秘的な雰囲気をつくる。それを引き立てるような、ぼけの効果。だが、結局、この画面に見えてくるのは、無数に産み落とされた金魚の、果てしもないエネルギーのほとばしる様子である。

人間のポートレートも、ちょっと予測のつかないアイディアに満ちている。詳しくは書かないが、ときには下品といえる発想が、不思議な気高さや、かわいらしさに変化している。やりすぎと思うものも少なくないが、例えば、忌野清志郎のもつかわいらしさが、まるで女の子のように見える一枚などは、シンプルだけど、涙が出るほどの凄さを感じさせる。

【椎名林檎と蜷川実花】

さて、ここまで書いてきた内容で、椎名林檎と蜷川実花の共通点について、誰しもお気づきになったことだろう。まず、この2人は、とてもポップな外見をつくる。だが、よく掘り下げてみると、その発想は独特で、余人の追随を許さない大胆さをもっている。ときには、エロティックなもの、非社会的なもの、不道徳なもの、なまめかしいもの、汚らわしいものを含む、彼女たちの表現であるが、それにもかかわらず、すこぶる健康で、爽やかで、明るい。その最大の秘密は、生きる、という強い意志があるからだ。

もうひとつ、受け手に対して、押しつけがましくないという特徴がある。例えば、椎名林檎のうたの歌詞は、正直、よくわからない。だが、彼女の声が聞こえてきたとき、聴き手は否応なく、その価値を理解するだろう。意味を通り越して、なにか凄いことが歌われていると感じる。だが、絶対にこうでなくてはならぬという答えを、この歌い手は与えてはくれない。正解は、あるようでない。なぜなら、歌い手には明確なイメージがあるが、そこに辿り着くことは、必ずしも答えを出すことにはならないからだ。

言ってみれば、全員が椎名林檎として考えることほど、下らないことはない。それは、彼女も望まぬことであろう。

あなたはあたしじゃなくちゃ
真っ白なほっぺたに透き通る小さな雨垂れを落としてしまう
でも泣かないで 今すぐ鍵を開けてあげる
あなたには全て許しちゃうわ

再び、「シドと白昼夢」の歌詞だ。「あなたはあたし」「今すぐ鍵を開けてあげる あなたには全て許しちゃうわ」という恋人たちの理想型が、ここで述べたことを象徴的に語る。林檎さんはきっと、次のように思っているだろう。

あなたの名前を知りたい

   あなたの鼓動を聴きたい

      あなたの視点を読みたい  (ハツコイ娼女 より)

結局、こういうことが、生きている証となるのかもしれない。椎名林檎のうたが素晴らしいのは、花々がめしべの一本一本にまで神経を行き渡らせ、なんとか生きたいと願っているのを示した瞬間を、蜷川さんが見事、撮ったに等しく、人間のもっとも幸せなとき、もっとも惨めなとき、もっともハラハラするとき、もっとも怒り心頭に発するとき、もっとも安らかなとき、もっともイラッとするときなどを、しっかり歌にしているせいである。
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