2008/12/1

椎名林檎 10周年記念スペシャル・ライブ 11/30 & 蜷川実花展  演奏会

さいたまスーパーアリーナで行われた、椎名林檎の10周年記念祭を千秋楽に見てきた。多分、この会場では、もっとも林檎さんに疎い観客であったと思うし、作品も半分ぐらいしか知らない。大体、よく聴くようになって1年ぐらいでライヴに足を運ぶというのは、なかなか珍しいのかもしれないね。それにしても、スーパーアリーナのデカイことといったら、こんなところにサッカー場ができたのかと思うほどだ。会場内に入ると、またデカさを実感する。私は、ステージとは正反対の200レヴェルと呼ばれる席をとった。舞台とちょうど高さが同じぐらいで、すこぶる見やすい。ただし、ステージまでは、2−300mもあるだろうか。

【変わったライヴ】

それにしても、すこし変わったライヴだ。こういうのが、普通なんだろうか。私がこれまで聴いた、クラシック以外のライヴは少なく、セリーヌ・ディオン(@東京ドーム)、ザ・コアーズ(@東京国際フォーラムA)、ユッスー・ンドゥール(@昭和音大人見記念講堂)、エリック・ベネイ(@新宿・リキッドルーム)というところだ。でも、こんな趣向を凝らしたものじゃなく、アーティストの魅力だけによっているものがほとんどだ。もちろん、林檎さんが、そういうお飾りに頼っているというわけではない。

でも、驚いたことに、このライヴ、ステージ前にピットが掘ってある。ポップス/ロック系のコンサートに来たはずだが、ほとほとクラシックとは縁が切れないらしい。ここに斎藤ネコさん率いるオーケストラが入るわけだが、林檎さんもピアノをやっていたらしいし、ネコさんも藝大卒。外山滋に習っているのだから、そういう方向に進んでもおかしくなかった(よっぽど、本人は最初からジャズ志望だったろう)。

ライヴはまず、恭しくクラシック的なスタイルで、指揮者のネコさん登場。もちろん、オケはオン・マイクだが、かなり巧いのは確かだろう。ポップスの伴奏だからと、侮れない。彼らの伴奏に乗り、「ハツコイ娼女」という曲で登場するのだが、曲の神秘的な感じを利用して、登場を引っ張って気をもたせるのも憎い。出てきたら出てきたで、クリスマスがちかいということもあるのか、トナカイのような角をつけ、それに、頽廃的に糸状のものが巻きついている。もちろん、あの自由奔放な発声(とはいえ、基本に忠実)。ライヴでは、アンプを通すことを意識して、かなり強い声を主体にしているし、うまく歌い崩している。それがまた、聴き手の興奮を誘う。ライティングも美しい。

でも、この歌い手の変わっているのは、序盤、ほとんど動かないし、踊りもしないことだ。そのトナカイの冠をかぶって、歌うことだけに徹するという感じだった。全然、MCも入らないし、押しつけがましいものがない。聴き手のほうも、どこか不思議な雰囲気が漂っていて、曲にあわせて拍手をとったり、踊ったり、歌ったりする雰囲気が、あまりない。ライヴ特有の、右向け右的な一体感というのはない。

でも、確実に、みんなが林檎さんの歌を好きなんだってことは、ヒシヒシと伝わる。ときには、聴き入っているような感じで・・・。林檎さんの場合、デビュー直後の尖った不思議少女の時代から、出産後のアダルトな活躍、東京事変のもの凄いエネルギーに溢れた大人のロックという感じまで、幅広いファンがいて、一人ひとり、好きな曲や思い入れのある曲はちがうわけだけど、それぞれの感覚に合わせて、自由に聴いている感じがしたし、歌い手のほうもそれを許しているように見えた。

2回のブレイクがあり、ここは歌手のお休みの時間なので、普通はインストゥルメンタルをやったりするが、10周年ということで、林檎さんのこれまでの活動を映像で振り返る時間と、坊やのナレーションを少しいじりながら、林檎さんの生い立ちを紹介するコーナーがあって、初心者の私には好都合だった。ビジョンに映された写真には、林檎さんの親御さんや、重病だった彼女を治療したお医者さんなども登場し、すこし結婚式みたいな雰囲気にもなっていた。

【シドと白昼夢/ギャンブル】

さて、歌がはじまると、会場は異様な緊張感に包まれる。みんながぱっと立ち上がったものの、なかなか歌い手の姿が見えなかったし、歌と演出のミステリアスな雰囲気で、なんだか狐につままれたようだが、確かに聞こえてくる林檎さんの声は、いきなり涙がこぼれてくるほどに実が詰まっていた。

昔 描いた夢で あたしは別の人間で/ジャニス・イアンを
自らと思い込んでいた/現実には本物が居ると理解っていた

これはもちろん、「シドと白昼夢」の歌詞だ。「現実には本物が居ると理解っていた」という発想が凄い。たとえ知っている歌であっても、椎名林檎の歌とつきあうということは、こうした驚きの連続だ。だが、ライヴでは、歌詞の全部を伝えるのは難しい。林檎さんは、どの言葉を聞かせ、どこを間引いてもいいかを、慎重に選んでいる。間引く場合でも、音の響きの雰囲気で言葉の不鮮明さをカヴァーしている。

例えば「ギャンブル」では、2番の冒頭の歌詞に注目しよう。録音でもそうだが、言葉そのものを伝えるために、ぐっとバックを落とす。

中目黒駅のホームに立って居たら/誰かが急に背を押したんだ/本当さ

こんな歌詞を、まるで当たり前のように彼女は歌う。この曲を追うようにして、同じような事件が実際にあったとき、私は、彼女の描いていた社会の生の姿に驚いたものだ。「此の勝負に負けたら/生キテユク資格モ無イ」で、ガツンと響きが立ち上がる。

椎名林檎は、時代を読める歌い手なのだ。あのひばりさんのように!

声を出せばどなたか見えましょう/真実がない
もう歩けない/灰になれば皆喜びましょう
愛していたよ/軽率だね

【ギブス/すべりだい/浴室/錯乱/罪と罰】

あなたはすぐに写真を撮りたがる/あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば/あたしが古くなるじゃない

ごく「若い」ファンにすぎない私は、「ギブス」という曲は初めて聴いたのだが、これはいい曲だった。泣ける。林檎さんの歌のうまさが、わかる曲だ。シンプルで、ユーモアに溢れながら、こころに届くメッセージがいい。

あなたが八度七分の声を使うときは
必ずあたしに後ろめたいことがあるとき

汗ばんだって恥じらったって/理由もなく触れたがったりした
凍えたって甘えたって/只の刹那に変わった2人

その時全て流れ落ちた/冷たい秋はたった2度目でも
砂場の砂も気持ちも全部/2人の手で滑り落とした

これは、「すべりだい」。このあたりの曲は、あまり手を加えず、ストレートに歌っていた。この曲は好きな人が多いみたいだが、シンプルに、ヒトのこころの面白さを歌うよい作品だと思う。林檎さんの歌は、かなり凝ったものも多いけれど、先程の「ギブス」や「すべりだい」のように、飾らない、自然体(?)の作品に素晴らしいものが多い。

一方、「浴室」はハードに固めて、歌詞のタイトさを録音よりもしっかりと表出している。「錯乱」も同様だが、’rain’ を「レイン」じゃなく「ライン」と読んだりして、これはいわゆる「庶民的」な発音だったはず。それだけで、曲の雰囲気も一変する。そして、「罪と罰」。これも、シンプルな言葉が突き刺さる。

あたしの名前をちゃんと呼んで/身体を触って/必要なのは
是だけ 認めて

愛している 独り泣き喚いて/夜道を弄れど虚しい
改札の安蛍光灯は/貴方の影すら落とさない

うーん・・・。

【歌舞伎町の女王/声の特質について】

これも、凄い曲だ。15の自分を捨てて、歌舞伎町の女王だった母親が蒸発。今度は、自分が歌舞伎町の女王だと歌う。そんなときの気高さは、林檎さんの声の風格で、正に真に迫る。

ここで、椎名林檎の声について考えてみよう。彼女の歌の面白いところは、地の声をうまく使っていることだ。ただし、本当の「地の声」だったら、こんなに長く歌い続けることはできない。だから、彼女がやっているのは、あくまで基本的な発声をしっかりやって、それを「地の声」に見せかけるということである。高音はさほど得意ではないが、中音域あたりの豊富な表現力は、ロリータ系の感じをさせるものから、ロック、ジャズ、タンゴなどはもちろんとして、演歌、歌謡曲のテイストを感じさせるものまで、自由自在に使いこなせる。だから、本当にいろいろな曲が歌えるし、この日のライヴのように、同じ曲でもかなり自由にフォルムを変えてしまうことだって可能なのだ。

この曲などは、そういう林檎さんの歌の一筋縄でいかない奥行きを、感じさせるものではないか。たとえアレンジを変えたりしなくても、「歌舞伎町の女王」では、いろいろな歌い方を試すことができそうだ。

【兄妹共演/夢のあと〜最後まで】

きっとあるだろうと思っていた「この世の限り」の、兄・純平とのデュオ。次の「オニオン・ソング」と同様に、2人は一緒に歌うのが大好き・・・というのが、手にとるようにわかる楽しげな歌は、録音からも読み取れるのだが、やはりライヴではさらに実感が伴う。弱く生まれてきた子ということだったし、かわいがられたんだろうなあ・・・と推察する。ピットの前の張り出し舞台まで来て歌うと、観客も大興奮だった。「夢のあと」はとても大事に歌っていたが、後半のヤマで、すこし音程を崩しすぎたのではないか。

まあ、それはいいとして、ここから締めまでの展開は凄かった。「積木遊び」「御祭騒ぎ」「カミソリ乙女」と、この3曲は、このライヴでまったく別の生命を吹き込まれたと言えないだろうか。「御祭騒ぎ」では、なぜか阿波踊り部隊が登場した。でも、リズムも曲調も、紛れもなくサンバ。浅草のサンバ・カーニバルを思い出した。バンドはどういう人がやっているのかわからないが、この難しいリズムをかなり正確にやっていて、「うまい!」と思ったし、圧倒的なリズムの強さを、完璧に支配していた。だから、かなり複雑にみえるビートであっても、3拍子、6ビート、サンバなどのリズムが、聴き手にも感じとりやすい。

つづく「カミソリ乙女」もその勢いだが、歌詞が英語ということもあり、かなり丁寧に歌っていたのが印象に残る。それで、最後の ’Now, I say my goobye ’ に引っ掛けておわるのかというのは、予想できた展開だが。でも、最後の部分は、日本語に「サヨナラ」と訳して歌っていた。

いろいろなところで情報を拾ってきたところ、ベース:亀田誠治、ギター:名越由貴夫、ドラムス:河村"カースケ"智康というバックは、椎名林檎の初期に行動を共にしていたメンバーでもあるし、それぞれの楽器をやっている人ならば、知らない人はないというぐらいの手練れであるらしい。既に述べたように、ネコさん&オーケストラも巧かったし、相当、カネを使ったのだろうね。このライヴ、どう考えても儲からない・・・。

【ステージングの素晴らしさ】

この言葉に尽きるのではないか。まず、第一に所作の美しさがある。どうやって歌い、どういう姿勢をとり、どこに立ち、どこへどうやって歩いていくか、この歌い手の一挙手一投足に、我々は見とれ、溜息をついた。その洗練された美しさは、2-300mも離れたところからでさえ、(肉眼で)完璧に読み取れるほどだ。それを彩るライティング。ビジョンの使い方。ビジョンに映る姿は、ただリアル映像を増大したものではなく、ときにはVTRも混ぜ、モノクローム化したりして、手が混んでいる。そこでは、何人もの林檎さんの姿が、いちどに楽しめることになる。それを結びつけるように、彼女の歌声が響く。登場、退場からして、まったく隙がない。曲の入り方、終わり方も、工夫を凝らしている。

衣裳の早替え。そのデザインも、彼女を引き立てる。僕は、この人が(すごく魅力的であるとはいえ、)そう美人だと思ったことはないが、この日の彼女はいやに美しく、あるいは、かわいらしく見える。否、格好がいいというのが、いちばんしっくり来るかもしれない。輝いている。

さて、前半はまったく喋らず、歌姫に徹し、後半になって、ようやく「声」が聞ける。無駄なおしゃべり、意味のないアジテートはない。押しつけがましさがないと言ったのは、そのことでもある。だが、観客とのコミュニケーションが拒否されているわけではない。そうだ。聴き手は、彼女の歌を聴きに来たのだから、それを通じて、いくらでもコミュニケーションはとれるじゃないか。むしろ、喋りかけたりすることで、聴き手の自由さを奪うことを、彼女は嫌っているのかもしれない。

【とりあえずのむすび】

なかなか蜷川実花さんの話までいかないが、その展示会と椎名林檎のライヴを結びつけてみたいと思ったのは、映画をこの2人でやったということもあるにはあるが、実は、ここで書いたような、押しつけがましくない双方向的なコミュニケーションの面白さと、普通の人では考えつかないような発想の面白さ。これを2人の晴れ舞台で、しっかり感じ取ったせいだったのだ。そのことについては、また次回に!
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