2008/12/17

ジュゼッピーナ・ピウンティ ソプラノ・リサイタル @武蔵野市民文化会館 12/14  演奏会

ジュゼッピーナ・ピウンティのリサイタルは、当初、6月の予定だったが、本人の都合により来日が不可となり、半年後に延期されていた。多分、彼女のキャリアにとって、より重要な仕事があったものと見なされるが、その仕切りなおしがこの日であった。ピウンティは1997年、ヴェローナでのデビューというから、若手とはいっても、既に10年くらいのキャリアを積んでいることになる。ドラマティコまではいかないが、リリコ・スピント系の強い声をもっている。カルメンやサントゥッツァを歌ったことからもわかるように、メッツォの領域に片足を突っ込んでいる。なお、ピアノ伴奏は斎藤雅広が務めた。

曲目は、広範にわたる。歌曲とオペラ・アリア、スペイン、フランス、イタリーもの、作曲家も幅広い。イタリーはマルケ州の出身ということだが、イタリーものよりも、フランス語の曲やスペインの曲を得意とするらしい。これは師事した先生の影響であろうと思われるが、誰に師事したかは書いていない。

10年というキャリアにしては、かなり若々しい表現である。垢抜けた舞台姿もさることながら、演じることが大好きな歌い手のようで、トスティの歌曲(アマランタの4つの歌)でさえ、かなり劇的な歌い方をして、聴き手を驚かせた。「カヴァレリア・ルスティカーナ」の有名なアリア〈お母さまも知ってのとおり〉は、そうした歌い方が正にはまりこんだ表現だ。ローラ母さんにすがりつくというよりは、さらにその上にいる人(もちろん、神さまのこと)に「訴える」という感じである。

後半は、「ウェルテル」の〈お願い、涙を流させて〉や「ドン・カルロ」の〈おお、むごい運命よ〉という悲劇的な曲がつづく。最後の「ドン・カルロ」では曲目を間違えるオチもついたが、それはむしろ、瞬時に役柄のなかに入っていく、ピウンティの演技力を引き立たせることにもなった。前半のカルメンもそうだが、彼女の持ち味は、フランス語で顕著に表れる。その点、マスネのアリアでは、やがて死を決意することになるシャルロッテの想いが、フランス語のもつ独特の柔らかさで表現されており、小規模ではあるが、むしろ、そのために凝縮した雰囲気に会場はしんとなった。

総じて、前半のほうが出来がよい。ファリャ「7つのスペイン民謡」は、声が温まっていない前半戦から、曲を追うにつれて、どんどんと表現も声の具合も垢抜けていく。トスティ同様、歌曲の歌い方はオペラティックな表現から切り替わらず、やや違和感が残るが、スペイン歌曲では、その自由さが妙に似合っている面もある。

さて、圧巻は「カルメン」の有名な〈ハバネラ〉と〈セギディーリャ〉だ。最近、ギーセン市立劇場で歌ったということもあり、かなり表現が熟している。〈ハバネラ〉は、どうやら直前の部分から歌いはじめた。最後のキメを除き、高音になる部分でむしろ声を抑えることで、歌のベース(中音域)にある官能性を自然に引き出している。特に素晴らしいのは、作品中、もっとも官能的な〈セギディーリャ〉の部分であろう。細かい音の動きをきれいに歌い、フォルムの美しさと、表現のシャープさが比類ない。語るように歌い、自然なフレージングが、歌の官能性を高めてくれる。歌と台詞的な部分の差が少ない。なお、彼女の歌ったギーセンの歌劇場は、ドイツの中小劇場のなかではつとに評価の高い劇場であるとの次第である。

前半は、グノーの歌劇「サフォー」の〈不滅のリラよ〉。このあたりが、いまの彼女の声質にとっての限界なのであろう。低音はやや厳しさもあるが、そのギリギリなところが、かえって歌詞にあっている感じもして、ぐっと来るものがある。

斎藤は幕間に、グラナドス、セヴラック、マスカーニなどを披露して、なかなか素敵なのだが、脇役たることを強く意識してか、ほとんどまともに拍手も受けないのは、やや極端な態度に思える。伴奏は基本的に控えめたることを良しとするようだが、今回の歌い手はダイナミックな表現を好むことから、ビゼーやトスティ、マスカーニ、ヴェルディなどでは、かなり突っ込んだ表現を試みていた。

やや荒削りな表現も散見したものの、決して雑というわけではなく、歌のカタチをまとめるよりも、その本質に切り込んでいこうとする芯の強さを感じさせる歌いくちは、聴いていて楽しい。こうした若さをできるだけ保ちつつ、より繊細な歌の表現力を持った歌手へと成長していってほしいと願う。ライヴとしては満足感が高く、良い出来だったと思う。
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2008/12/14

安永徹 & 市野あゆみ モーツァルトとハルトマン 紀尾井シンフォニエッタ東京 12/13  演奏会

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)に、ベルリン・フィル、コンマスの重責を終えんとする安永徹が登場した。KST&BPOということになると、共演を重ねるブラッハーのイメージがあるが、あちらが剛とすれば、こちらは知と柔。KSTに、新しい考え方をもたらすような演奏を披露してくれた。今回、安永が目指しのたのは、リズムに支配されず、響きの美しさを求めること。もうひとつ、日本らしい季節感のある演奏ということではなかろうか。

まず、奥さんである市野あゆみをピアノ独奏に、モーツァルトのピアノ協奏曲第22番を演奏した。モーツァルトのなかでも珍しい演目だが、オーボエの代わりにクラリネットが導入されるなど、エポックな面もある楽曲だということである。資料により、ちょうど、こうした季節(12月後半)に書かれた曲であることがわかっているとの次第。安永が活躍したドイツの隣国・オーストリアと、彼の祖国・日本の冬をモーツァルトの曲がつないでくれる。しかも、その橋渡し役は、市野さんだ。

市野は、師の安川加寿子を思い出させる(といっても、録音で残るものを聴いただけだ)ような、はんなりした演奏で、昔の日本の女性をイメージさせるかのような薄味のモーツァルトを楽しませた。強奏部でも力みかえることなく、静かに冬の景色を描き上げ、そこに細やかなロマン性が滲む。後半の「プラハ」に表現されるモーツァルトの「外面のよさ」に対して、こちらには内面の細々とした動きが表れているだろうか。

演奏自体は、弦の澱みない緊張感に対して、管の表現に思いきったところが少なく、他の曲と比べて、やや煮込みが足りないのは残念だったが、そのなかでも、市野の清楚なピアノの美しさは確かに光っていた。

後半は、ハルトマンから。ヴァイオリンと弦楽合奏のための「葬送協奏曲」は、反ナチスを貫いたハルトマンの、静かなる抵抗の歌であるという。弦楽合奏と独奏ヴァイオリンだけの曲でもあり、規模こそ小さいものの、ショスタコーヴィチやプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲を思い出せるような、高い技巧性と精神性が絡みあい、スケールの大きな表現をめざすことのできる佳曲であろう。

最初のイントロダクションでは、「わが祖国」への導入で有名なフス教徒のコラール「汝らは神の戦士」のフレーズが、チラリとみえたりする。楽曲は本来、4つの楽章がつづけて演奏されるということらしいが、今回は少しずつ切りながらの演奏となった。独奏ヴァイオリンに表れる高度な技巧性は、厭でも楽曲の緊張感を高める。バックの演奏も集中力が高く、特に、チェロとコントラバスの低音のゆたかな響きは、印象に残る。

「葬送」協奏曲であるとはいえ、安永の解釈では、作品の暗さや悲哀ではなく、そこに託された響きの美しさのほうが強調されている。むしろ、そうすることによって、楽曲のもつ悲劇性が実感として、胸に残る。象徴的なのは、最後の楽章の弾きおわりの部分。重く減衰していく響きをおもむろに中断し、不協和音がffで立ち上がるときだ。ここで安永とKSTのメンバーたちは、プログラムに解説されているように「強烈に怒りをぶつける」のではなく、ともに戦おうといって剣を振り上げるかのように、響きを力強く持ち上げたのだ。独奏ヴァイオリンも楽器を一段と高く掲げ、弓を突き上げて弾きおわる。

演奏がおわると、必ずしも親しみやすい響きの曲ではないが、フロアーからは強い共感を寄せるかのように、親密な称賛がつづき、私も胸が熱くなった。

その昂揚が消えないうちに、モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」が演奏されるのは、意味があるのかみしれない。プラハは、当時、ウィーンでは受け入れられなかったモーツァルトの反骨精神を、独特の共感により支えた都市だったからだ。ただし、最近の研究では、この曲は1786年、ウィーンでの演奏会のために作曲されたものであるとの次第。折しも、冬の演奏会になるはずであった。同じ冬でも、先ほどの協奏曲のように、森々とした雪模様に調和して、そこに内面の翳をぐっと凝縮させるのではなく、我々が仲間たちとスキー旅行を楽しみに行くように、わいわいとした響きの華やかさで、寒さを吹っ飛ばすかのような勢いがある。

演奏は、この日を通じておこなわれた、第1ヴァイオリンの横にチェロとコントラバスが来て、ヴァイオリン同士が向かいあう対向配置が効き、対位法の響きの絡みあいや、それぞれの楽器の対比がごく自然に楽しめる、知的な演奏となっていた。弦はもちろん、この楽曲では管の響きも十分に自信に満ちたもので、特に、フルートの爽やかな響きは、いかにも一戸らしい。

さて、演奏の特徴としては、2つのポイントを挙げておきたいと思う。1つは、最初に述べたように、リズムに踊らされない、響きの美しさに満ちた演奏だったということだ。最近のモーツァルト演奏の著しい特徴は、リズム、リズムで押して、その響きの華やかさや、感情変化の起伏を鋭角的に切り取っていくことで、楽曲のカッコよさや優雅さ、軽妙さを印象づけていくことにある。それはそれで、ひとつの考え方ではあり、モーツァルトだけに限らず、バッハやヘンデル、ベートーベンに、メンデルスゾーン、シューマンにさえ、適用されるユニヴァーサルな手法である。だが、今回の安永の演奏は、そうした傾向に掉さして、音楽にとって、本当に大事なものが何であるかを問い直す。その代表的なものが、響きの美しさだろう。

もうひとつ、安永が重視していたのは、楽曲の流れだ。コンマスの重要な役割として、ボウイングの決定がある。そのあり方によって、オーケストラの響きはまるで別物となる。安永の著しい特徴は、例えば、ぐっと響きを持ちあげながら上向し、踵を返して減衰していくような部分で、顕著に表れる。上っていく過程では、安永はきつくリストを締めて、力を弦に向かわせている。ところが、構造の変わり目が近づくにつれて、安永は徐々に手首の緊張を緩め、自然に力を逃がしていく。すると、減衰していく部分に到達したとき、非常に柔らかい、繊細な切り口でありながら、構造の切れ目がはっきりとわかるのである。これぞ、ベルリン・フィル、コンマスの体得した、技の粋なのではないか。

こんなことに感心ながら聴く、モーツァルトの交響曲は、ただでさえ味わいぶかい作品に、無限の深さをもたらしていく。しかも、温かく、からだが火照ってくるような響きの温度感もいい。アンコールとしては、モーツァルトの同時代人、ウォーロックの「キャプリオル」組曲から弦楽合奏による第5曲が演奏された。ホワイト・クリスマスを想像させるかのように、しんしんと降る雪の「温かさ」が、しっとりと表現された優しい演奏には、会場もうっとりだった。

ベルリンでの暮らしが長かった安永さんだが、日本人のこころは決して忘れていないと感じさせる、素晴らしいコンサートであった。今後は北海道に帰り、のんびりと活動するという計画らしいが、今後の活躍にも周りの期待は大きい。
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