2008/11/22

日生劇場 マクロプロス家の事 二期会 (Bキャスト) 11/22  演奏会

今日は、酷評になります。あらゆる意味で、この公演は粗かった。二期会=日生劇場による、ヤナーチェクの歌劇「マクロプロス家の事」。このオペラはマイナーではありますが、ほんの2年前、2006年12月に東響の演奏会で、セミ・ステージ形式による上演があったばかりです。そのときのよく準備して、丁寧に磨き上げた上演と比べると、今回は中途半端。声の面では勝る面もあったものの、全体をまとめあげるディレクターが不在だったのが痛いのです。

【作品への共感がない演出】

最大の戦犯は、演出の鈴木敬介でしょう。省コスト舞台の効果的な構築で定評がありますが、今回は霊感が働かなかったものとみえます。器(建物)の装飾だけにやたらと凝り、これだけはあっと目を惹くものがあるのですが、カネの切れ目が縁の切れ目というわけか、あとは、ほとんどほったらかしで、演出らしい演出になっていません。

最悪なのは、エミリア・マルティ(エリナ・マクロプロス)が種明かしをする、感動的な最後の場面です。照明を暗めにし、6人の登場人物にスポットを当て、四角く囲う。それで、なにが起こるかと思えば、なにも起こらない。囲ったために、動きがとれず、この四角のなかに突っ立ったまま。遠くからおもむろに聴こえてくる合唱(もともと、突然に挿入されるにしても)。エミリアの衝撃的な独白にも、誰ひとり反応しない。センターで歌う蔵野の絶唱は素晴らしいけれど、それさえも、誰にも届かないのでしょうか? エミリアが処方箋をかざし、「さあ、おとりなさい。誰も要らないの?」と迫る場面も、突っ立ったままでは迫力なく、最後、クリスタがつかつかと走ってきて、あっさり受け取ったのは「!」だけど、よっこいしょとライターで火をつけて、処方箋を燃やすのでは、なんだかなあという感じです。そして、かつらと衣裳を早替えした、エミリアの老化の陳腐なこと。

これに象徴されるように、動きに人間性の関係性が現れておらず、繊細な配慮に欠けていて、演出は落第点です。例えば、第1幕でグレゴールがエミリアに言い寄る場面を見てみましょう。グレゴールはブレザーに、パンダ・カラーのオシャレなマフラーをしています。最初は、違和感なく見ていたのですが、この場面、全体のなかでも特に長いのです。途中から、このマフラーが気になりだしました。普通、お部屋に入ったら、マフラーはとりませんか? しかも、グレゴールは熱く、エミリアを口説いているわけです。お寒い弁護士との対話までは、その格好でもいいでしょう。でも、昂揚して、好きな人を口説こうとするのだったら、マフラーをとるどころか、上着だって脱いでしまうのではないかしらん。 

第3幕の前半も、締まりません。密会の館は前の舞台装置を使いながらも、ちょっとした装飾で、美しい居館の姿を見せています。これはいい。奥のベッドはふかふかで、そこまで凝っているのは悪くない。ところが、そこから現れるエミリアのバスローブ! 天下の大女優が、こんなバスローブでオトコを相手にしますかね。安っぽい。その格好のせいで、ハウクと出かけるつもりがないことは明らかですが。コレナティーたちが入ってきても、全然、気にも留めないでそのままなのです。その格好で、銃を構えたりまでする。これでは、笑い種!

こういうわけで、演出はまったく駄目です。作品への共感がほとんどないのでしょう。全体的に、なにも付け加えておりませんし、演出はあってもなくても同じ。セミ・ステージで十分。むしろ、広いステージを使いこなすアイディアがなく、だだっ広くなっただけです。狭い空間に限定された、東響のセミ・ステージのほうが、むしろ関係はよく描けていたでしょう。

【管弦楽は粗い】

次に問題なのは、アルミンク指揮新日本フィルによる管弦楽です。とはいえ、良い部分がまるでなかったわけではありません。アルミンクはモチーフを丁寧に拾い、要所では立派な響きを築いて、あっといわせる瞬間もつくってはいました。クリスタが登場するシーンの、ぱっと華やぐような音色の変化。エミリアが盗みを促し、その意を弁護士が代弁するときには、即座にこそドロを表現するような邪な響きに。細かいことを言っていけばキリがないのですが、そうしたパーツを拾い集めていくような組み立ての面白さは、飯森&東響の演奏よりも、はるかに手が込んでいたはずです。

隣国のウィーンっ子、本場で若くしてヤナーチェク・フィルを率い、「プラハの春」音楽祭にも登場したアルミンクは、リズムの処理や音色の面においても、随所にヤナーチェクらしいイディオムを忍ばせ、作品を織り上げていきます。しかし、それにしても、新日本フィルのアンサンブル精度は、この公演に関する限り、持続性がなかったように思われるのです。よくできた部分では、東響の演奏に決して負けていない。ところが、これに倍するほど、「それにしても」な部分が残っていました。あと一歩なのに・・・という場面がつづき、惜しくてならなかった!

確かに、この劇場は響きがデッドで、ピットは横長。決して、アンサンブルに有利な環境ではありません。しかし、歌い手にとってはともかく、この作品の管弦楽(伴奏)部分に関する限り、この乾いた響きは決して、その魅力を削いでしまうような性質のものではなく、ある種の「相応しさ」をも感じさせました。その上で、ただでさえ上手に聴かせることが難しい曲なのに、プローベが足りなかったのは明白です。ヴァンスカが言うように、アンサンブルの精度というのは練習によってしか獲得できない。作品全体にわたって、アンサンブルの精度が美しく持続できなかったのは、それが十分でなかったことを示すものでしょう。

それにしても、すこし響きが粗い部分が多すぎます。

【キャストについて】

歌手については、ひとひとりについてみれば、頑張っていたと思います。便宜上、Bキャストとしましたが、私は多分、こちらのキャストのほうが質がいいと思って、悩むことがないほどでした。特に、蔵野蘭子のエミリアには期待していましたが、彼女を妙な実験に巻き込まれた可哀想な女性としてではなく、シニカルで、自立した女性像として演じたのはよかった。素が酒好きなのか知りませんが、エミリアが酔っ払いながら告白する場面は、板についています。弁護士に問い詰められて名前を口にし、卒倒する場面までは鬼気迫るものがあったし、ヤナーチェクがもっとも共感したと思われる最後のモノローグも、演出の無味乾燥に対し、彼女の歌だけが活き活きとしていました。

こうした大きな役では初めて聴きましたが、誠実に歌いきる従来のイメージに対して、意外にエンジンのオン/オフがあり、要所を引き締めてパッと見せるタイプと受け取られました。声の素晴らしさはもちろん、指先までぴんと伸びて演技力が高いことは特筆でき、彼女のそうした面を生かせる演出であってほしかった!

オトコどものなかでは、もっとも重要と思われるグレゴール役の大間知覚は、エミリアに言い寄る情熱的な歌などは聴かせますが、劇の大半を占める会話部分では、すこし窮屈な感じでもあります。コレナティー(勝部太)、ヴィーテク(高橋淳)、ヤネク(水船桂太郎)は、それぞれに好きな歌手なのですが、同じように、会話部分のリズム、言語感覚に乗れていなくて、表現に思いきりが感じられません。その点、主要役では父プルスの初鹿野剛(はつかのたけし)の堂々とした演唱は、エミリアとの対比で面白かった。

これらに対して、クリスタの長谷川忍、ハウクの加茂下稔、掃除婦と道具方の押見朋子と鹿野由之などというところは、歌うところが少ないせいでもありましょうが、流れに乗った歌唱ができています。とりわけ、メッツォの長谷川はまだお馴染みの歌手とはいえませんが、今回はブルーの衣裳がよく似合い、声もきれいで、見ごたえのある演唱を披露しました。押見は掃除婦には勿体ないほど肉厚に歌いだし、小役だが自分で場面をつくっていきます。ただし、あとで出てきた清水華澄(メイド役)と比べるとわかりやすいのですが、分を弁えて出すぎていないので、決して邪魔にはなりません。

【歌手たちの問題点】

会話部分の硬さのほかで、歌手たちにとっての問題点は2つありました。1つは、アンサンブルがまとまっていない点です。最後の幕で、「私たちはあなたに対して残酷だった!」などと声を合わせるような場面、こういういかにもな部分はいいのです。ところが、先に指摘した会話の硬さにも関係するとは思いますが、この作品は流れが速く、そこにパッパと声を集めて、手際よく流れを盛り上げていかねばなりません。そこが、うまくいかなかったのです。

これには、管弦楽の問題もあると思います。

そして、もうひとつ問題は、上記のことにも関係すると思いますが、大事な台詞が流れていたことです。例えば、私の好きな場面に、昔馴染みのハウクに再会したエミリアが、「マックス!」と昔の呼び名でハウクに声を掛けた瞬間、一気にロマンティックな音楽になる部分があります。ここが好きなのは、あまり魅力的ではないハウクを相手にしながら、エミリアがほんの少しとはいえ、昔の感情を蘇らせる人間的な場面だからです。さて、その音楽が変わるときのエミリアの台詞、これが今回の上演では味も素っ気もない。

これに象徴されるように、いくつかの例外を除いて、ここはもっと強調すべきと思われる部分で、台詞(歌)に抑揚がなく、死んだ表現になっています。それに対応するように、動きにもメリハリがない。既に、最後の幕の処方箋のやりとりについて見ましたが、万事が、あのようになっているのです。

【残念な上演】

誤解を恐れずにいえば、残念な上演でした。非常に優れたパーツがありながら、最初にも書いたように、ディレクターが不在だった。そのため、全体的に粗く、丁寧さを欠く印象を与えました。その役割が、演出家に求められるのか、指揮者に求められるのか、あるいは、そのほかの人に求められるのかわかりませんが、プロダクションとしての一体感に欠けた公演でした。

それでも、私なりに楽しむことができたのは、やはり、自分がこの作品に愛情を抱いていることの証拠でありましょう。悪いことばかり書いたように思いますが、8割くらいまでは行っているのですよ。観劇して、ある程度の満足感はあると思います。でも、その先に、私の求めていたものはあったということです。
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