2008/11/17

下野竜也 わが祖国 読響 芸劇マチネー 11/16  演奏会

今月の読売日本交響楽団の芸劇マチネーは、下野竜也の指揮で、スメタナの大曲、連作交響詩「わが祖国」の演奏である。この曲は1月に、J.コウト指揮プラハ響の演奏で聴いたのが、まだ記憶に残っている。また、下野の指揮する「わが祖国」ということになると、4年前、新日本フィルでの演奏に接したことがある。そのときの印象は、下野ファンの私としては珍しいくらいに地味なものだった。もちろん、オケの良さもあるが、そのころと比べると、随分と解釈が進んでいたのは確かだろう。

【ダイナミック・レンジと運動性】

オペラの序曲を聴くような「ヴィシェフラト」の見事な演奏に始まり、休憩なしで、全曲を一気に弾き上げた。コウトの演奏と比べると、どちらがチェコ人かわからないぐらい、激しい思い入れに包まれた演奏で、もっとスンナリした演奏を想像していた読響も、この日は熱演に徹した。起伏の激しいスラヴ人の気質を表現したと思われる、下野のコントロールはかなり思いきったものだ。基本的には、いつものオーソドックスな音楽づくりのスタイルを壊していないが、ダイナミック・レンジを広くとり、その運動性が高くなるように工夫している。

例えば、「ヴィシェフラト」のハープの序奏に続く金管の演奏を見てみよう。ここでは、最初の拍をスタッカート気味にして、跳ねるようなリズムをつくり、後ろをぐっと展開する。はじめは何をやっているのかと思ったが、木管や弦が入ってくると、徐々にそれがはまってくる。それだけではなく、あとで金管の強奏で同じテーマを吹くときにも効果的で、それが先程の運動性の問題に絡んでくるのだ。このテーマは作品全体のなかでも、とりわけ重要なパーツになっているが、それだけではなく、こうした素材の扱い方自体が、楽曲のなかに見つかるあらゆるフレーズの処理に適用される。大きな響きを立ち上げるときには、音量を上げるというよりは、どこかに運動をつくり、それをエネルギーに変換することで、自然に響きを育んでいるのがわかる。

【素直で、隙のない表現意図】

全体を通して、演奏はきわめて細かいものになっている。有名な曲であっても、細部をしっかり演奏することで、「ちがい」を出せるというのが下野の持論だ。だが、そのときに、針小棒大に「ちがい」を振りかざすのではなく、楽曲の流れに素直に従いながら、銀ラメのように、きらっときらっと「ちがい」を示していくのが彼の音楽の特徴である。

例えば、単独で有名な「ヴルダヴァ」の冒頭について、見てみよう。ここでは、木管の序奏部分を少しだけしっかりと演奏し、拍を際立たせるのが特徴だ。これで何が良くなるかと言えば、有名な主題に引き継ぐ役割をしたあと、さらに主題の裏で細かい伴奏を刻み続けるヴィオラの、あの響きが大変に美しく聴こえるのだ。このあたり、ヴィオラの音に愛着のある私は、ほとんどその音色だけに聴き入っていた。これをやるだけで、聴き手の注意力はより細かい部分に及んでいくが、それが、このあと急流を抜けたあとの、静かな部分で生きてくる。ここでは、妙な言い方になるが、木管のフラジオレットで金管の音色が(倍音のように)聴こえ、それを支えるように、弦の薄膜が張られたような印象を受ける。非常に面白い描写だ。

再び荒れ狂う部分から転調するまでの部分は、ワーグナー的ともいえる、非常に重い演奏に仕上げている。だが、転調してからは快速で、これも楽譜どおりなのであろう。

【シャールカ、ボヘミアの牧場と森から】

シャールカは、状景が浮かびやすい演奏である。饗宴からオトコたちが寝入ってしまい、そこを女戦士たちが襲うまでの場面は、説明不要なぐらい、その場面を音だけでよく写し取っている。シャールカたちの襲撃のシーンは、読響の驚くべき合奏力を示す部分で、恐ろしく速いが、整然としたアンサンブルが楽しめたものの、思わず背筋が寒くなる怖さのある演奏。最後の休符で、首が飛ぶのが見えた気がする。

つづく「ボヘミアの牧場と森から」は、私がこの曲のなかで、もっとも愛する部分だ。また、楽曲全体の構成を見たときに、「第2部」の始まりともとれる。なぜなら、それまでの3曲は、風景描写や昔ばなしであるのに対して、ここから先は、「現在」にスポットが当たっていくように感じられるからだ。この曲の最初の不穏な和音を、下野は力強く提示する。

その後、パウゼのあと、対位法の響きで土壌をつくり、そこにすっと風が吹くように管楽器の響きが混ざり、
ぬっと、ボヘミアの草原に生える大木が幹を伸ばす光景が浮かび上がるのは印象的だ。後半の短いエピソードが少しずつ提示される部分は、先程の運動性を生み出すキーとして、有効に使われている。合間に出る木管のエピソードと、その後に表れるギャロップの関係も、その類である。この曲の後半部分は、こうした対比に使える部分が多く、下野の手法がきわめて効果的に作用する部分でもあった。

【ターボルとブラニーク】

ターボルとブラニークは、正に「わが祖国」といった誇らしい演奏に仕上がった。力強い革命歌と、管楽器による優しげなエピソードが、ここでもうまく対比されている。もともと革命歌などが挿入されていることもあって、この2曲は少し芝居がかった感じにもなりがちなのだが、下野の演奏では、そういったこそばがゆいところがない。この2曲では、とりわけストレートに響きを追っていくようなところが強調されており、なんて爽やかな演奏なのだろうか、という印象が強かった。

ターボルの最後も、やはり、音符の動きの運動性を利用して、跳ね上がるような響きだった。コントラバスのパート・ソロは、「第九」を思わせる。休符や楽器の交代を利用しながら、運動エネルギーが貯まっていく締めの部分は、すごい響きだった。ほとんど続けて演奏されることもある2曲だが、敢えて、下野は間をとった。だが、エネルギーは保存されており、この冒頭部分は、明らかに前楽章のイメージと、そこで生み出されたエネルギーを引き継いでいる。再び対位法のアンサンブルでベースが描かれるが、その響きは、微妙に革命歌に似通っている。不明ながら、これは、いままで気づいていなかったこと。

ブラニークの終わりの部分は、3つの旋律の対比が面白い。革命歌「汝らは神の戦士たれ」は厳しく、引き締まった表情、新しい賛美歌「汝らの側の神とともに終末において勝利を収めん」はゆったりと伸びやかに、そして、「ヴィシェフラト」から引き継がれたテーマは誇り高く、愉しみに満ちて・・・という具合に、表情を変えていくのである。そして、この「ちがい」がまた運動のエネルギーを引き出し、圧巻のフィナーレを築くときに利用された。

【まとめ】

非常に、よい演奏だった。弦管がよく押しあい、音量が上がっても、充実した内声のおかげで、響きにきつさがない。チェコ人がもつ独特の自然感覚、また、舞踊のイメージはやや薄いが、構造をしっかり組み上げて、それを響きのなかに強烈に溶かし込んでいく演奏スタイルが、きわめて効果的であった。ノーランを中心とする弦のキレのいいボウイングも目立ったし、金管も好調。特に第2曲までに活躍したフルートの一戸など、功労者は数知れない。

演奏がおわったとき、私は思わず目をつぶった。そして、すぐに賞賛の声に変わったものの、会場も一瞬、静まりこんだ。あの心地よい、ほんの1、2秒のときが、この演奏のすごさを物語るにちがいない。確かに、下野は「ちがい」を示し得たのだ。

なお、この曲でも随所に活躍したチューバだが、八尾氏の引退以来、正団員がいない状況だったものの、この11月1日に契約を済ませ、元日本フィルの次田心平がメンバーに加わった。プログラムの表記が間に合っていないが、既にHPでは名前が刻まれている。今後の活躍に期待したい。


【プログラム】 2008年11月16日

1、連作交響詩「わが祖国」(全曲)

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場(大ホール)
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ